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純白の檻からの解放~侯爵令嬢アマンダの白い結婚ざまあ
純白の檻からの解放~侯爵令嬢アマンダの白い結婚ざまあ
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年07月08日
公開日
1.8万字
連載中
――ふざけないで。 実家に戻ったアマンダは、密かに経営サロンを立ち上げ、貴族令嬢や官吏たちに財務・経営の知識を伝授し始める。 「王太子妃は捨てられた」? いいえ、捨てられたのは無能な王太子の方でした。 そんな中、隣国ダルディエ公国の公爵代理アレクシス・ヴァンシュタインが現れ、彼女に興味を示す。 「あなたの実力は、王宮よりももっと広い世界で評価されるべきだ――」 彼の支援を受けつつ、アマンダは王宮が隠していた財務不正の証拠を公表し、逆転の一手を打つ! 「ざまあみろ、私を舐めないでちょうだい!」

第1話 冷たい王太子と名ばかりの結婚



 私の名はアマンダ・ルヴェリエ。名門侯爵家の一人娘として生まれ、今はこの国の王太子妃という立場にある。しかし、その名ばかりの地位が私に与えてくれるものは、豪奢な衣装や人々の羨望よりも、重苦しい孤独の方がはるかに多かった。

 私がエドワード殿下――王太子である彼と結婚したのは、ちょうど一年前のことである。当時、王家とルヴェリエ侯爵家の利害関係が一致し、互いにとって最良の政略結婚と目された。もっとも、私には初めから選択の余地などなく、親や周囲から求められるがままに王太子妃としての道を進むことを決めたのだった。

 以前の私は、王太子妃という地位にある程度の期待を抱いていたかもしれない。優雅な日々、私を求めてくれる夫、穏やかで幸せな夫婦生活――物語や詩に描かれるような理想の婚姻を完全には信じていなくても、それでも多少の憧れはあったのだと思う。だがそのような淡い期待は、結婚してから程なくして打ち砕かれた。

 エドワード殿下は決して優しくないというわけではない。初対面の頃、殿下の物腰は穏やかだったし、挨拶の言葉も礼儀正しく、まるで格式の高い舞台劇を見ているような優美ささえ感じた。ただし、それはあくまで外面だけ。内面において、私は彼の“心の冷たさ”に気づいてしまったのだ。彼が私に向ける視線は、あくまでも「ルヴェリエ侯爵家の令嬢」という肩書を見ているようで、私という一人の女性、あるいはこれから生涯を共にする“妻”を見ているわけではなかった。


 結婚式当日、私は国中の祝福を受けて王太子殿下の花嫁となった。その様子を見れば、いかにも幸せそうな二人――そう映ったのかもしれない。しかし殿下の手は冷たく、そして少しの震えさえ感じるほど硬くこわばっていた。彼が緊張していたのか、それとも不快だったのか。真意を測る術はなかったが、私はその瞬間、胸に言いようのない不安を覚えたのである。

 それでも、式の後に二人きりで挨拶を交わした時、私は夫である彼にこう声をかけた。

「殿下。改めまして、今日からよろしくお願いいたします。私、精一杯務めを果たしますので」

 王太子妃としては当然の言葉。そう思いながら、慎重に礼を尽くしながら口にした。しかしエドワード殿下は、その時初めて私を正面からしげしげと眺め、まるで借り物を確認するかのような冷たい瞳で答えたのだった。

「そうだな。お前はルヴェリエ侯爵家の令嬢として、充分すぎるほど教養や品位を備えていると聞いている。王太子妃として、不足はない。……以上だ」

 それが新婚初夜に交わされた、私たち夫婦の最初の会話であった。私はその瞬間、まるでガラスの檻の中に閉じ込められたような息苦しさを感じた。愛情や親しみというものは一切含まれない、冷たい“合格通知”。私がこの結婚において、ただ役割をこなすための存在でしかないことを突きつけられた気がした。


 その翌日から、私は王宮での新しい生活を始めた。華やかな社交の場、きらびやかなドレスや宝石の数々。歴代の王妃が居住してきたという由緒ある部屋には豪奢な調度品が並び、そこに住むことが許された私は、端から見ればまさに“幸運な姫君”として羨望を集める立場にあった。

 けれど、私の実際の生活は、いつも孤独の影がついて回る。朝は一人で目を覚まし、王太子殿下の行動予定を確認しても、その大半は「公務」と称して私の知らぬ場所へ向かう彼のスケジュールが並んでいるだけ。昼間も晩も、私はただ形式的な仕事をこなし、王太子妃としての優雅な立ち振る舞いを見せるしかない。夜になっても、殿下が私の部屋を訪れることはない。

 初めのうちこそ、私は「新婚でもこういう形はあるのだ」と、自分に言い聞かせていた。政治や外交のために多忙を極める王太子に、構ってほしいと拗ねるような子どもじみたことはしたくない。ましてや、まだ結婚して間もないのだから、私から積極的に歩み寄れば何かが変わるかもしれない。そう考えて、何度か書斎や公務の場へお茶を運んだり、雑用を手伝いたいと申し出たこともあった。

 しかし彼は言った。

「そういう雑務は侍従たちに任せておけ。お前の役目は“王太子妃”であって、それ以上でもそれ以下でもない」

 侍従たちが多くの仕事を抱えていると知っていてのことだろうか? 王太子妃が余計な手伝いを申し出ることなど煩わしいだけ、という態度をとられた瞬間、私は深い虚無感に苛まれた。私を王太子妃として利用しているのは殿下自身なのに、妻として何かの役に立ちたいと願う私を完全に拒否する。もはや結婚生活の希望など、どこにも見い出せなかった。


 そうして日々が過ぎる中、ある噂が私の耳に届く。

 ――王太子殿下にはお気に入りの愛人がいる。

 それは、貴族たちが噂話好きなこの宮廷では常識とさえ言えるようなもので、私自身が知らなかったことの方が不思議に思えるほどだった。噂によれば、彼女はセレスティーヌ・サン=マロ侯爵令嬢。父親は私の実家であるルヴェリエ侯爵家よりも財政面ではやや落ちるものの、若いながらも王宮の派閥政治に乗り出し、存在感を示している人物だという。

 セレスティーヌ嬢は私より二つほど年上で、美貌と気の強さで知られている。王太子殿下との仲が公然のものとなったのは私と結婚するよりも以前からで、周囲はむしろ「どうして殿下はセレスティーヌ嬢ではなく、アマンダを選んだのか」と不思議がったそうだ。

 理由は明確だ。政治的な力関係で言えば、私のルヴェリエ侯爵家の方が王家にとって有利な条件を提示できたからにほかならない。セレスティーヌ嬢のサン=マロ侯爵家は、古くからの血統こそ誇るものの、勢力的にはルヴェリエ家には遠く及ばない。簡単に言えば、殿下は「愛人なら自由に愛せるが、妻とするなら政治的に強力な後ろ盾を持つ方がよい」と考えたに過ぎない。そんな皮肉な図式が私を王太子妃に仕立て上げたのだ。

 もちろん、王太子が愛人を持つこと自体、貴族社会ではそう珍しいことではない。愛人関係があったとしても、建前の部分できちんと王太子妃を敬うのが“王家の流儀”というものだ。現に歴代王たちも数多くの愛人を抱えていたと聞く。それでも、公然と「白い結婚」を続けるというのは、私にとって屈辱以外の何物でもなかった。


 しかし私は、婚礼から半年経ったあたりで“ある決断”をする。

 ――どうせ彼が愛しているのは私ではなく、セレスティーヌ嬢なのだ。ならば私も、自らの尊厳を守り抜くしかない。

 私が王太子殿下に愛を求めるほど愚かではない。心ない冷たい言葉や態度に傷つくのはもうたくさんだ。むしろ、私が傷つかないために「私は王太子殿下の妻という立場の人形である」と冷徹に受け止め、やるべきことだけをこなすように努める。具体的には、王太子妃としての公式行事や慈善活動などを淡々とこなし、公務には形式的に出席し、夫婦としての会話は最低限に留める。それだけの存在になり下がろう。そうすることで心を守る道を選んだのだ。


 それでも、私には一つだけ幸いがあった。私は子どもの頃から数学や会計の勉強を好んでいた。それもあって、王妃教育の過程で王宮の財務管理などにも少しずつ手を貸すようになった。侍従長から「将来的に王太子殿下が即位した折には、王妃となる方にも財政面の知識が求められます」と教えられたからだ。実際のところ、エドワード殿下は財務や帳簿の管理に興味がないらしく、そちらはすべて側近に任せきり。

 だからこそ、私は埋もれがちな財政の問題を少しでも改善しようと、密かに王宮の帳簿を見直し、アドバイスをすることで貢献してきた。殿下が聞く耳を持たなくとも、私が動くことで少しずつ歪みを正していけば、結果としてこの国のためになる。そんな小さな希望だけが、私の心を支えてくれていたのである。


 そうした地道な作業は、私にとってある種の“自己防衛”でもあった。くだらない噂や愛人のことを気にせず、ただ黙々と書類に向き合っている間は、私の心はむしろ落ち着いた。そして、特に目立つことはしない代わりに、帳簿の整理や財政報告の下準備を任されるようになり、侍従長や一部の官吏たちは私を高く評価してくれた。

「これは素晴らしくわかりやすい整理だ。王太子殿下の目を通す前に、私どもがもう一度書類をチェックしておきますので」

「はい、よろしくお願いいたします」

 こんな具合に、事務仕事に精を出す王太子妃。表向きはあまり絵にならないかもしれないが、私にとっては束の間の安らぎだった。


 しかし私のそのような努力を、エドワード殿下が評価してくれることはない。ある日、侍従長からの報告を聞いた殿下は、むしろ不機嫌そうに言った。

「……それは本来、お前たちがやるべき仕事だろう。なんのために給金を出している? 王太子妃を雑用係に使うとは、侍従長としての役目を放棄しているとしか思えないな」

 侍従長は頭を下げ、「王太子妃殿下が自主的にお手伝いを申し出てくださったのです」と弁明したが、殿下の冷ややかな視線は変わらない。私が同席していた場所で、まるで私の存在を無視するかのように、「余計なことをしなくていい」と言い放った。

 その瞬間、私は悟った。私がこの国のためになると思ってやっている行動ですら、殿下にとっては不愉快らしい。おそらく「王太子妃は王太子妃らしく、美しく、何もせず、ただそこにいればいい」と考えているのだろう。お飾りとしての機能だけ果たしていれば十分。そんな思惑が透けて見える。

 私は心の中で小さく嘆息するしかなかった。


 その後、宮廷での公務を済ませたある夜、私は自室に戻ってから侍女アリシアと小声で話し合った。彼女は私に仕える若い侍女で、気立てがよく、私が王宮で数少なく“安心して話せる”相手だった。

「アリシア、私のことを“王太子妃としての人形”と思っている方が、殿下を含め、きっと多いのよね」

「……そんなことはございません。少なくとも、侍女たちの間では、妃殿下が気高くも優しく、私たちにも公平に接してくださると評判なんですよ」

「ありがとう。でも、それが逆に“おとなしすぎる”と思われる原因にもなるの。私が殿下に一切異論を唱えないから、ただの飾りだと思われるのかもしれないわ」

 少し前の私は、そうやって自分の立場を嘆いていた。だが今ではむしろ、“異論を唱えても無意味”であることを学んでしまった。何を言っても無視されるか、あるいは煩わしがられるか。そのどちらかだ。私が王太子妃として存在するのは、ただ政治的駆け引きの結果でしかない。

 ならば私は、どんな態度であろうと変わることのない冷たい婚姻生活を、余計な波風を立てずにこなすほかない。幸い、殿下は私に何らかの“愛情”を求めることもなければ、夫婦としての関係を強要することもない。早く後継者を求められるのではと危惧していたが、その気配もまったく感じられない。

 私にとってそれは“幸か不幸か分からない”救いの一つだった。人形のような立場だと自嘲はするが、それでも身体を奪われたり、心を踏みにじられるよりはまだマシだと思ったのだ。


 そんなある日のこと。とある宮廷の晩餐会で、セレスティーヌ・サン=マロ侯爵令嬢が私のすぐ近くの席に座る機会があった。その席順は宮内の慣例に基づいて決められたもののはずだが、誰がどう手配したのか、やけに私にとっては居心地の悪い配置だった。

 セレスティーヌ嬢は目も眩むほどに真っ赤なドレスをまとい、首元には豪華な宝石をあしらったチョーカーが光り輝いている。特別に礼を失しない範囲で露出を高めたそのドレスは、彼女の豊満な胸元をさりげなく誇示しており、一目で男心を引き寄せるような妖艶な装いだった。

 対して、私の衣装は薄紫の落ち着いたドレス。派手さはないけれど、王太子妃として品位を重んじたうえで仕立てられており、胸元もあくまで上品な開き加減だ。もとより私は、そういった妖艶さを振りまくことを好む性格ではないし、立場上もふさわしくないと考えている。しかしセレスティーヌ嬢をちらりと見ると、彼女は私を値踏みするような視線を送ってきて、一瞬不敵に口元をゆがめた。

 まるで「あなたなんて所詮、その程度の存在」という挑発。私は気に留めないふりをしようとしたが、どうにも居心地の悪さが増していくばかりで、食事の味さえよくわからなくなってしまった。


 晩餐の後、宴が華やかな音楽とともに舞踏会へと移行したタイミングで、セレスティーヌ嬢は私に近づいてきた。彼女の周囲には取り巻きの貴婦人たちが何人かいて、私に向けられる視線は一様に好戦的だった。

「まあ、王太子妃殿下。お疲れではありませんこと? このような席でも滅多に踊られないと伺いましたが、それでは殿下も退屈なさるのではなくて?」

 挑発的な笑みを浮かべ、余裕のある口調でそう言うセレスティーヌ嬢。いつもなら私は、軽く微笑んでやり過ごす程度の対応しかしない。だが、その時は自分でも意外なほどはっきりと冷たい声で返していた。

「そうですわね。ご心配なく。殿下は、貴女方のように賑やかな方と踊る方がお好みなのでしょう? 私がしゃしゃり出る必要はないと思っていますわ」

 言葉の端に棘が混じったかもしれない。侍女のアリシアは顔色を変えていたが、私自身にも少なからず苛立ちがあったのは事実だった。セレスティーヌ嬢が王太子殿下の愛人であることは既に宮廷内でも周知であり、私に対する遠回しな侮蔑や嘲笑は日常茶飯事になりつつあった。

 しかし、その時のセレスティーヌ嬢はまるで小悪魔のように唇をつり上げると、私の耳元で小さく囁いた。

「あなたはそんな態度でいいのかしら。形だけの妃の座を守ったところで、殿下のお心は私にあるのだから。いずれはあなたも、ただの“古い人形”になるだけよ」

 耳障りのいい言葉では決してなかった。それでも私はあえて反論することもなく、目を伏せて会釈をして別れる。もはや、表立って罵られてはいないものの、言わんとしていることは痛いほど伝わってくる。

 ――私は形式だけの存在であり、殿下の心も身体もセレスティーヌ嬢に向いている。実質的に妃のようなものだという主張だ。

 それを否定する気力もなく、ただ心がどこまでも冷え込んでいくのを感じながら、私は宴の会場をあとにするしかなかった。


 こうして私の“白い結婚”は、王太子殿下の冷たさと愛人の存在によって成立している。周囲の貴婦人たちは私を陰口で「名ばかりの妃」「雪の貴婦人」と呼び、遠巻きに観察してくる。私が慈善活動や宗教行事に参加しても、「熱心な振りをして王太子殿下の機嫌をとりたいのでは?」と揶揄されるのがオチだ。噂話に色を付けるのは貴族たちの得意技である。

 そして私自身、そんな周囲の思惑に疲れ果てながらも、ただ王太子妃としての体面を保つ毎日を過ごしていた。


 そんな暮らしが一年続いたある日、私は王太子殿下から突然召喚を受ける。「ついては、早急に執務室へ来るように」との伝言に、珍しいこともあるものだと怪訝に思った。いつもならば、公務以外で私を呼び出すことなどほとんどない殿下。さて、何の用か――不安と嫌な予感が胸をよぎる。

 執務室の扉を叩き、静かに中へ入ると、そこには王太子殿下の他に、彼の側近たちが数名待ち構えていた。まるで“正式な場”を整えたような空気。私は一礼をし、「アマンダ・ルヴェリエ、ただいま参りました」と名乗る。

 すると殿下は、私が立ち位置に着くか着かないかのうちに、厳かな声で言い放った。

「アマンダ。お前に伝えることがある。……余は、お前との婚姻関係を解消する」

 一瞬、時間が止まったように感じた。何を言われたのか、咄嗟に理解できなかった。周囲の側近たちも口を開かず、ただこちらの様子を見つめている。

 婚姻関係の解消。つまりは離縁。それも、この国の未来の王妃であるはずの私を捨てるという話だ。頭の中で必死に言葉を噛み砕きながら、私は何とか口を開く。

「……それは、正式に私と殿下の婚姻を白紙に戻す、という意味でしょうか? 理由を伺ってもよろしいですか」

 自分でも驚くほど冷静な声だった。こんな重大な通告を受けたというのに、どうして私は取り乱さないのだろう。内心では心臓が高鳴っているはずなのに、身体のどこかが凍りついてしまったかのように感じる。

 殿下は私の問いを鼻で笑うようにして答えた。

「理由など決まっている。お前の実家であるルヴェリエ侯爵家には、これまで充分に恩恵を与えてきた。しかし今、王家が必要としているのは、お前ではなく……セレスティーヌ・サン=マロ侯爵家なのだ。父上(国王陛下)の許可も下りている。お前には速やかに退いてもらおう」

 セレスティーヌ嬢の名が出た瞬間、私は一瞬だけ胸がチクリと痛んだ。これはつまり、私を捨てて彼女を正妻にするということ。政略的には、何か新たな利害関係が生まれたのだろうか。もしくは、王家の派閥争いが激化した結果、セレスティーヌ嬢のバックにいる一派と手を結ぶ方が得策だと判断されたのかもしれない。

 けれど私は、その痛みを表情には出さなかった。もともと夫婦と呼べる関係ではなかったのだから、離縁されること自体に取り乱す必要などない。むしろ――どこかで、ほっとしている自分がいる。

「……わかりました。では私は、近いうちに王宮を去る手配をいたしましょうか」

 殿下は私のあっさりとした承諾に拍子抜けしたのか、わずかに目を見開いた。

「お前、何を言っている? 泣きわめいて、その座を守りたいとでも懇願すると思っていたが」

 私は静かに微笑み、そして自分でも驚くほど澄んだ声で言う。

「いいえ。私は王太子妃として相応の務めを果たしてきましたが、殿下にとって不要ならば、むしろ嬉しく存じます。……ようやく自由になれますもの」

 一瞬、殿下の表情が険しく歪んだ。「自由になれます」という言葉が、彼にはよほど気に障ったのか。あるいは、自分の予想外の反応に戸惑っているのかもしれない。

 私は自らを落ち着かせるように息を整え、さらに続けた。

「離縁の手続きは、国王陛下のご意向に沿って進めていただいて構いません。私も父にその旨を伝えます。それから、これまで私が関わってきた宮廷の財務処理も、今後は殿下やセレスティーヌ嬢がお好きなようにされるとよろしいでしょう」

 私がそこで口にした「宮廷の財務処理」という言葉に、殿下の側近のうち数名がぎょっとした顔つきを見せた。彼らは私が宮廷の帳簿管理を手伝っていたこと、そしてそこに隠された“いくつかの不正”や“ずさんな会計”を把握しているのを知っているはずだ。私はあえて詳しいことには触れず、静かに一礼して続ける。

「長い間、お世話になりました。これでお別れですね。失礼いたします」

 そう言い残し、私は無言のまま退出した。エドワード殿下は最後まで何か言いたげな表情を浮かべていたが、私を引き止めることはなかった。


 自室に戻る途中、廊下ですれ違う貴族たちの視線がいつも以上に集まっていることに気づく。おそらく、殿下が私との離縁を宣言したことは既に噂になっているのだろう。私は特に気にする素振りも見せず、堂々と歩を進める。

 そんな私の姿を見て、ある貴婦人が小さく囁くのが聞こえた。

「まあ、さすがに王太子妃を捨てるなんて……アマンダ様はどうなさるのかしら」

「結局は捨てられたのよ。可哀想にね。あんなに美しくても、殿下の心は掴めなかったのね」

 けれど私が振り返ると、彼女たちはばつが悪そうに視線を逸らした。何を言われても驚きはしない。今となっては、私にとってこの離縁は予想外の出来事であると同時に、想定の範囲内でもあったから。

 ――いずれ私は、愛されてもいない王太子妃という立場を捨てる時が来る。今、それが予定より早まっただけ。

 しかし、その予想よりもはるかに清々しい気持ちが胸に広がっていることに、私は自分自身でも驚いていた。宮廷の華やかな装飾にも、長い歴史を刻んだ廊下の壁画にも、もう未練はない。

「アリシア。荷造りをしましょう。必要最低限のものだけでいいわ。私はもうここを出るの」

 自室に戻るなり、私は待っていた侍女のアリシアにそう告げた。彼女は最初、驚きで言葉が出なかったが、すぐに私の真意を汲み取ったのか、こくりと小さく頷いた。

「わかりました。……いよいよ、ここを離れられるのですね」

 その言葉に、私は苦笑した。いよいよ、と言われて思う。まるで私がこの日を待ち望んでいたかのように。実際、心のどこかで“逃げ出したい”と感じていたのは事実だ。でも、この世界から本当に逃げられるのかはわからない。今後、父やルヴェリエ侯爵家がどう出るか、国王の判断がどのように影響するか――不確定なことは山積みだ。

 それでも、「王太子妃アマンダ・ルヴェリエ」として王宮に縛られていた日々に、ようやく終止符を打てる。そう考えると、不思議と身体が軽くなる思いだった。

 私はまだ詳しいことを何も知らない。ただ、王太子殿下は私を手放すことでセレスティーヌ嬢を新たな妃に迎えるのだろう。それがうまく行こうが行くまいが、私にはもはや関係のない話だ。

「自由になれる」。それが、こんなにも心を震わせる言葉だとは知らなかった。


 こうして、私の“名ばかりの結婚”は終わりを告げる。

 だが、ここからこそが私にとっての新しい物語の始まりなのだ――と、この時の私はまだ気づいていなかった。

 王宮を出て帰る先はルヴェリエ侯爵家。当然、父は激怒するだろう。母も泣き崩れるかもしれない。でも、それでも私は構わない。王太子妃の立場を捨てようと、噂されようと、笑われようと。

 私は私の道を、自分で選んで歩いていく。


 白い結婚――“純白の檻”とも呼べる、冷たいだけの生活に別れを告げるその瞬間まで、あと少し。

 今、この胸に湧き上がる感情は、悲しみや恐怖ではなく、確かな解放感だった。


 ――そして、ざわめく宮廷の廊下を後にして、私は穏やかな笑みを浮かべたまま、自室へと足を運んだ。



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