王太子エドワード殿下から正式に離縁を告げられた翌朝、私は早々に私物の整理に取りかかった。とはいえ、王宮に持ち込んだ品はそこまで多くない。もともと私は自室を飾り立てるより、必要最低限の物と多少の書類があれば十分だと思う質だったからだ。
侍女のアリシアが神妙な面持ちで荷造りを進める中、私は窓辺から宮廷の庭を眺める。朝日に照らされた芝生と花壇は華やかで、そこだけ切り取れば平和な風景に見える。けれど、その奥では私を笑い者にしようとしている人々のざわめきが渦を巻いているのが想像できた。実際に廊下を歩くたび、ひそひそと囁かれる声はいつにも増して多い。
――「あれが王太子に捨てられた可哀想な元・王太子妃ね」
――「よほど魅力がなかったのでしょうよ。花のように美しいと思っていたのに、実態は冷たい氷の人形だったのね」
そんな言葉が聞こえても、私は動じない。ある意味、すべて予測の範囲内であり、長い間“夫婦ごっこ”を演じてきた私の心は、もうとうに麻痺してしまっていたのだ。昨晩、離縁を言い渡された時には自分でも拍子抜けするほど平然とした態度を取れたし、こうして翌朝になっても動揺はほとんど残っていない。
むしろ、王宮を出た後のことを考えると、少し胸の奥が熱くなる。それは不安というより、期待や解放感に近い。長く暗いトンネルを抜け出せるかもしれない。そんな淡い希望が、私の足を自然と前に進めてくれるような気がした。
ただし、問題がないわけではない。私がもし正式に離縁されたとなると、実家のルヴェリエ侯爵家の反応はどうなるだろう。父や母が黙ってそれを受け入れるはずがない。
私の父・ガブリエル・ルヴェリエ侯爵は、王家の中でも非常に影響力のある貴族だ。王家にとってルヴェリエ家を味方につけることは、この国の政治を進めるうえで多大なメリットがあったからこそ、私は王太子妃として迎えられた。それだけに、今回の離縁は父のプライドを大きく傷つけるだろうし、家名に泥を塗られたと憤るはずだ。
一方、母のエリザベートは私を大事に育ててくれたが、同時に「貴族の娘として立派に王太子妃を務めてほしい」と強く願っていた。幼い頃から舞踏、礼儀作法、歴史や文学の教養など、しつけには厳しかったが、それもすべて「いつか国を支える立場になった時に、恥をかかぬように」という母心から来ていたのだと思う。私が王宮で孤独な日々を送っていることは、母には詳しくは伝えていない。国王や王太子を批判するような真似は許されないし、私自身がそれを表立って言うことも避けたからだ。
それが今になって王太子に“捨てられた”と知ったら、母はどれほど嘆き悲しむことだろう。そう考えると胸が痛む。
しかし、この離縁は私にとって“喜ばしい解放”でもある。申し訳ないとは思いつつも、私は父と母の悲嘆をまっすぐに受け止める覚悟で、王宮を出る準備を進めていく。
アリシアとの荷造りが一段落しかけた時、扉の外から控えめなノックが聞こえた。
「失礼いたします。妃殿下……いえ、元妃殿下とお呼びするべきでしょうか」
入ってきたのは、私と同世代の侍従長補佐であるハロルドという若い男性だ。正式な侍従長はもう少し年配なのだが、彼はその補佐役として多忙を極めている。王宮の事務や財務において私が手伝いをする際、最も近い距離でやりとりしていたのがハロルドだった。
「ハロルド。あなたが来るなんて珍しいわね」
私がそう言うと、彼は複雑そうな表情で苦笑する。
「ええ。本来なら、こういう状況で私がお伺いするのははばかられるかもしれませんが……実は、これをお返ししたくて」
そう言って彼が差し出したのは、数冊の帳簿と一綴りの書類だった。見覚えがある。確か、私がこれまで王宮の財務管理で確認していた資料のバックアップに当たるものだ。
「これ……まだハロルドの手元に置いておいてもよいのでは?」
「いいえ。どうせ“お飾り”と言われても、これらを見て一緒に問題点を洗い出してくれたのは、アマンダ様だけでしたから。私個人は、お世話になった礼をきちんと伝えたいと思いました」
彼の声は小さいが、誠実さがひしひしと伝わってくる。私が王太子妃としての表仕事の陰で黙々と財務の改善に取り組んでいたことを、彼だけは理解してくれていた。
「これから王宮を出るにあたって、この帳簿は何らかの証拠になるかもしれません。くれぐれもお気をつけください。……殿下の側近たちの中には、あなたが“余計なこと”を口外することを恐れている方々もいるようなので」
ハロルドの言葉に、私は微かに笑みを浮かべた。
「ご忠告ありがとう。私としては、特に“暴露”して恥をかかせてやろうなんて思いはありませんの。もっとも、“どうしても私に罪を擦り付ける”ようなことをしてくるなら話は別ですけれど」
そう言うと、ハロルドは私の穏やかな口調に安心したのか、少しほっとした表情を見せる。
「お気持ちはわかりました。私はアマンダ様が王宮を去られるのは正直残念ですが……どうか、お元気で」
「ええ。ありがとう。ハロルドこそ、体に気をつけて」
そうして、彼は私に一礼をして部屋を出て行った。帳簿を返してくれたのは“余計な波紋”を立てないためでもあるだろうが、何よりも「私が果たしてきた努力」を認め、形として返してくれたのだと思う。誰からも評価されず、ただ黙々と行ってきた仕事に、こうして小さな報いがあったと感じられて、それだけで私は救われる思いがした。
もっとも、私はこの帳簿をどうするつもりもない。少なくとも、今の時点では。万が一、私やルヴェリエ家が謂れのない汚名を着せられそうになったら、この書類を用いて正当性を主張することもあるかもしれないが、今はまだ必要ないだろう。
やがて荷造りが終わり、私は数人の侍女とともに馬車へ乗り込む。アリシアは当然ながら私についてきてくれるという。公務以外で動く時でも、王宮の人間が同行するのは慣例だが、私たちの場合はもう“王太子妃”と“侍女”の関係ではない。
「アリシア、あなたまで私と一緒に出てしまっていいの? あなたは王宮で働きたいのではなくて?」
そう問うと、アリシアはきっぱりと首を振った。
「私はアマンダ様に仕えたいのです。王宮に残ってセレスティーヌ様――いえ、“新しい王太子妃”に仕えろと言われましても、絶対に嫌です」
「……そう」
彼女の強い意志が感じられ、私は胸が熱くなる。私が王太子妃として失敗作扱いされているこの状況で、なお私を慕ってくれる侍女がいるのは、何よりも心強い。
こうして、私の乗った馬車は、冷たい視線と嘲笑に満ちた宮廷を後にした。
外門がゆっくりと開いていく様を目にすると、まるで長いトンネルを抜け出す時のように、私の胸に希望の光が差し込んだ気がした。
王宮を出て数日後、私は父の元へと呼び出される。
呼び出しを受けるまでは実家の客間で休んでいたが、実際に顔を合わせるのは久しぶりだ。大理石の床に映える重厚な椅子にどっしりと腰を下ろした父は、私が部屋に入った瞬間、雷鳴のような声で叱責を浴びせた。
「アマンダ! お前は一体どういうつもりだ! 王太子妃の座を奪われて戻ってくるなど、ルヴェリエ家の名誉に関わるではないか!」
想定していたよりはるかに大きな怒声に、私は心の奥で萎縮しそうになる。けれど、ここで怯んでは先に進めない。私もある程度、腹を括っていた。
「申し訳ありません、父様。でも、私が婚姻関係を解消したいと願っていたわけではありません。あちらが一方的に……」
「そんなことはわかっている! 問題は、どうしてお前がそれを阻止しなかったかだ。お前は王太子妃という立場を使い、ルヴェリエ家にさらなる恩恵をもたらす義務があった。なぜ戦わずにあっさりと退いてきたのか! ああ、何という不忠、不覚……!」
父は激昂し、その頬は紅潮している。昔から父は王家と対等に渡り合う力を得ることを宿願としていた。私が王太子妃になったのは、その夢を現実のものとするための重要な手段。だからこそ、私の離縁はルヴェリエ家の今後を左右しかねない大問題なのだ。
私は低く頭を垂れ、なるべく落ち着いた声で説明しようとした。
「父様、私だって何もせず逃げ帰ってきたわけではありません。ですが……王太子殿下はセレスティーヌ・サン=マロ侯爵令嬢を正妃とすることをもう決めており、国王陛下も容認しておられます。私が抗ったところでどうにもならなかったのです。それどころか、下手に争えば、さらなる問題を起こすだけでは……」
「しかし! それではルヴェリエ家の立場が……!」
食い下がる父を前に、私は唇を噛むしかない。全てを話すことはできないが、王家の財政状態や内部対立なども絡んでいる以上、父がどれほど声を上げたところで、国王とエドワード殿下が組んで押し切ればどうにもならない。むしろ下手に逆らえば、ルヴェリエ家に圧力がかかり、領地経営や商取引に不利が生じる可能性すらある。
そこへ、ずっと黙っていた母が静かに口を開いた。
「ガブリエル、少し落ち着いて。……アマンダを責めても仕方ないわ。今はもう、どうにもならない段階まできているのでしょう」
「エリザベート……!」
母は父の怒りを一身に受け流すように視線を向けると、私にそっと顔を向けた。
「アマンダ、あなたは大丈夫なの? 心や体は……傷ついてはいない?」
その言葉に、私の胸の奥がじんと痛む。いつもなら父の意向を最優先に考える母が、私を気遣う言葉を投げかけてくれたことに、涙腺がゆるみそうになった。
私はできるだけ穏やかな声で答える。
「ええ、母様。お気遣いありがとうございます。私は……無事です。むしろ、あちらでただ夫に無視され続ける日々よりは、ずっと気が楽になりました」
「そう……」
母は微かに微笑んだように見えたが、すぐに眉をひそめ、父へと向き直った。
「あなたも、あまりアマンダを責めないで。彼女だって辛い思いをしてきたはずよ。今はまず、この事態をどう乗り切るかを考えましょう」
「……むう」
父は短く唸った後、渋々といった様子で頷いた。
それから、しばらくは父の書斎で三人きりの話し合いが続いた。父と母は、離縁を覆すことは難しいと理解しながらも、ルヴェリエ家として王家と今後どう付き合っていくかを模索していた。
私が王太子妃の座を失っても、ルヴェリエ家の家柄そのものが揺らぐわけではない。まだ充分に大きな領地と経済力、貴族社会での発言力を保持している。ただ、国王陛下がエドワード殿下に王位を譲った場合、私を追い出した“新しい王太子妃”――セレスティーヌ嬢が王妃になる。そうなれば、サン=マロ侯爵家が勢力を増し、ルヴェリエ家は今以上に不利な立場に立たされるかもしれない。
それを避けるためには、いっそ王太子が即位する前に“王位継承権を他の王族に移させる工作”や“政争”に乗り出す選択肢もある。だが、父の性格的に、そこまでの大博打に出る可能性は低い。王家を転覆させるほどの野心は持っていないし、下手に逆らえばルヴェリエ家そのものが国家的な制裁を受けかねないからだ。
母の意見としては、「いずれエドワード殿下が王に即位した後も、ルヴェリエ家は貴族連合の中心として王を支える立場を貫けばよい。時間はかかっても、サン=マロ侯爵家とは違う形で影響力を保持し続ける道がある」というものだった。父も渋々ながら頷いている。
こうして数時間の話し合いの末、当面は“静観”が最善という結論で落ち着いた。私に何か大きな動きを期待するわけでもなく、私自身ももう王宮に未練はない。
最後に父は私に言った。
「……アマンダ。お前の気持ちはわかった。今回のことは大変残念だが、王家に逆らうなという母の意見も一理ある。もし、あちらから何らかの理不尽な要求をされそうになったら、すぐに私か母に相談しろ。ルヴェリエ家の力をもってお前を守る」
「はい、父様」
「もう一つ。お前には当面、好きに過ごす自由を与えよう。王宮での縛りはなくなったのだからな。だが、貴族の令嬢であることを忘れるなよ。恥ずかしい振る舞いは許さん」
「かしこまりました。ご心配には及びません」
そう答えながら、私は改めて実感する。今の父の言葉には、わずかに優しさがにじんでいる。昔なら「好きにしろ」という言葉だけで終わったかもしれないが、“守る”などという表現が出てきたのは珍しいことだ。もしかしたら父なりに、私の辛さを案じているのかもしれない。
こうして私は正式に実家へ戻り、ルヴェリエ侯爵家の離れの部屋を与えられ、そこで静かに日々を送ることになる。もっとも、実際にはほとんど“静か”にはならなかった。私が離縁されたという噂は、侯爵家周辺だけでなく貴族社会全体を駆け巡り、多くの人間が私を訪ねてきたり、あるいは遠巻きに様子を伺いに来るのだ。
離縁から一週間が過ぎようとした頃、私は自室で書類に目を通していた。王宮で手伝っていた財務管理の延長で、多少なりとも役立つかと思い、ルヴェリエ家の領地経営や商会の決算報告を確認している最中である。父は「余計な口出しはするな」と言ったが、一方で「手伝えることがあるなら構わない」とも言っていたので、それに甘えているのだ。
「ふむ……昨年の作物の出来はまずまず。商会も安定して利益を上げている。これなら急激な出費がなければ当面は――」
そんな風に軽くメモを取りながら考えていると、ノックと同時にアリシアが入ってきた。
「アマンダ様、あの……外に、王宮の使者が来ております。お会いになられますか?」
「王宮の使者……?」
嫌な予感が走る。誰が、何の用で? エドワード殿下やセレスティーヌ嬢から直接連絡があるとも思えないし、もしかしたら国王陛下が何らかの勅命を下してきたのかもしれない。
とにかく拒否する理由もないので、私は一度背伸びをしてから立ち上がった。
「わかった。応接室へ通してちょうだい。私もすぐ向かうわ」
数分後、私はルヴェリエ家の応接室へと足を運ぶ。中には、見るからに位の高そうな侍従官が一人と、従者らしき人物が二人控えている。侍従官は私を見るや否や、まるで儀式のように背筋を伸ばして一礼し、そしてやや芝居がかった口調で言った。
「アマンダ・ルヴェリエ様。王太子殿下よりお言伝があります。詳細はここに書状としてしたためておりますので、まずはご一読のほどを」
そう言いながら差し出された書状を、私は冷静を装って受け取った。殿下からの“手紙”などというものは初めてだろうか。結婚していた頃も、彼から私宛に文をもらった覚えはない。
一抹の嫌悪感を抑えつつ封を切ると、さらさらとした筆跡で短い文が綴られていた。
アマンダへ
余は近々、新たな婚儀を執り行うこととなった。
お前には速やかに、王宮に置いてきた私物の引き取りと、
これまでお前が管理していた帳簿類の引き渡しを求める。
なお、余の婚儀に際してお前の立ち居振る舞いが
王家に不利益をもたらすようなことがあれば、
相応の対応をするつもりだ。
王太子 エドワード
……何とも端的で、冷たい内容だった。殿下らしいといえば殿下らしいが、私をそこまで警戒しているのか。それとも、「帳簿を引き渡さないのなら報復する」という脅し文句だろうか。
私は書状を畳んで、侍従官に向かって静かに笑みを作る。
「ご苦労様です。王太子殿下には、もちろん必要な書類はお返しするとお伝えください。私が所有しているのは一部の控えのみで、本来の原本はすべて王宮にありますので」
侍従官はほっとしたように頷いた。
「では、私どもの任務はここまでです。どうかよろしくお願いいたします。……また、お引き取りになる私物については、後日、王宮側から取りまとめてお届けに上がる手筈となっております。そちらの受領書にサインをいただければ完了です」
まるで役所の事務手続きだ。すでに“前王太子妃”としての処理が進んでいるということなのかもしれない。
その後、侍従官が帰ったあと、私は書状を手にしたまま深いため息をついた。
「まったく……もう婚儀の準備をしているとはね。さすがに早すぎないかしら」
「本当ですね。セレスティーヌ様が新しい王太子妃に……。噂では、すでに豪華な衣装や装飾品が王宮に運び込まれているとか」
アリシアが情報通らしく、ため息まじりに教えてくれる。
「ふふ、あの方なら存分に贅沢を楽しむでしょうね。私なんか足下にも及ばないほど派手好きみたいだし」
嫌味っぽい言い方をしてしまったが、実際にセレスティーヌ嬢は派手好きで有名だ。私があの宮廷にいた頃も、真紅や紫などの濃い色合いのドレスを好んで着ていた。宮廷の床が傷むのではないかと思うほど、歩くたびに裾を引きずっていたのを思い出す。
エドワード殿下は、私がなぜそこまで“自由になれる”と喜んだのかを理解していないのだろう。もしくは、「捨てられた女が好き勝手に騒ぐと面倒だ」と考えているだけかもしれない。しかし、私は王宮に戻る気など微塵もなく、ましてや彼らの婚儀を妨害するつもりもない。
――ただし。
もし今後、私やルヴェリエ家に不利益を与えようとする企みがあれば、私も黙ってはいない。私が宮廷の財政を立て直すために、どれだけ苦労してきたと思っているのか。下手に私を敵に回せば、彼らが抱える“弱み”を国中に知らしめることになるかもしれないのだ。
「……心配はいらないわ。帳簿は返す。でも、覚えておいて。私はもう王太子妃ではないけれど、ルヴェリエ侯爵家の娘として、理不尽な扱いは受けない」
自室へ戻りながらそう呟くと、アリシアは真剣な表情で深く頷いた。
結局、王宮からは二度三度と私物の確認に関する使者が来たが、それ以外には特に嫌がらせや脅迫のような行為はなかった。一方で、私の周囲では、私を嘲笑う声と同情する声とが入り混じっている。
特に、私に近づいてくる若い貴婦人たちは、表向きは「大変でしたわね」と同情を装いながら、実際は面白おかしく“前王太子妃”の悲惨な様子を見物したいだけなのだろう。私は彼女らの来訪を丁重に断ることが増え、必然的に外出もしなくなった。社交界での居場所など、もはやどこにも感じられない。
それでも、時折手紙をくれる友人が数名いる。彼女たちは私が王宮にいた頃からの旧知で、セレスティーヌ嬢の派閥には属さず、公平な目で私を見てくれていた。彼女たちは「あなたに何か力になれることはないか」と気遣ってくれるが、今はただ静かに暮らすのが一番だと伝えている。
離縁から二週間ほど経った頃、ようやく私は心の整理ができ始めた。王宮での経験は決して幸せとは言い難かったが、そこで培った知識と人脈が今後の人生に役立つ可能性もある。そして、何より私には“自由”がある。
「これから、どうしよう……」
書斎の机に向かい、ぼんやりと窓の外を眺めながら呟く。まだ具体的な計画があるわけではないが、少なくとも“王太子妃”としての責務に縛られることはなくなった。父も「好きにしてよい」と言っていたし、貴族の令嬢が仕事をするのは珍しいことだが、何か新しいことを始めたいという思いが膨らんでいく。
この国には、まだまだ女性が自立して活動できる場は少ない。しかし、私が王宮で学んだ財務や経営の知識を生かせる“商会”や“経営サロン”を開くというのはどうだろう? 貴族の中には、実務的な知識を持たずに領地経営をしている者も多い。彼らに向けてコンサルティングのような形で手を貸すことができれば、社会的に意味があるのではないか。
「そうね……。私だけではなく、同じように困っている貴婦人たちを救えたら……」
まるで小さな火種のようなアイデアが、私の胸の中でふつふつと燃え上がってくる。離縁による嘲笑を跳ね返すには、ただ黙っているだけではいけない。私自身が自立し、貴族社会に新たな価値をもたらすことで、私を“ただ捨てられた哀れな女”と思っている者たちの鼻を明かしてやるのだ。
すると、その時。廊下で慌ただしい足音が聞こえ、アリシアが勢いよく扉を開けた。
「アマンダ様、大変です! 王宮で……何やら妙な噂が立っているようで」
「妙な噂……? 今度はどんな話かしら」
正直、もう慣れてきた。私に関する根も葉もない噂は飽和状態だ。今さら変な尾ひれがついたところで驚きはしない。だが、アリシアは焦った表情のまま、私に駆け寄ってきた。
「どうやら、アマンダ様が王宮の財務に不正を働いていた――つまり、私的に資金を横領し、ルヴェリエ家に流していた、というような話が出回っているそうなんです」
「……何ですって?」
さすがに顔が強張る。横領? まったく身に覚えがないどころか、私は財務の改善に尽力してきたのに。
「おそらく、これは私が王太子殿下の離縁を不服に思い、王宮を貶めるために不正会計を行っていた、という筋書きなのね」
「そういうことだと思います。話を広めているのは、セレスティーヌ様の取り巻きなのか、あるいはエドワード殿下の側近なのか……詳しいことはわかりませんが、とにかく貴族の間で少しずつ噂が広がっているみたいで」
ひどい話だ。私が何も動きを見せないからといって、先手を打つつもりなのかもしれない。私を悪者に仕立て上げておけば、王太子やセレスティーヌ嬢が何をしようと「正当な処置だった」という言い分が成り立つ。
だが、これで決まった。私はもう黙ってはいられない。
「アリシア、あの帳簿類を持ってきてくれる? 私が王宮でつけていた控えの分、全部」
「……わかりました!」
彼女は力強く頷き、足早に部屋を出ていく。私も一瞬のうちに思考を巡らせる。
――王宮がもし私を犯罪者に仕立て上げようとするなら、私は正当防衛のために事実を明るみに出すしかない。そこには、王宮が長年抱えてきた“財務のずさんさ”や、一部の貴族による“裏金”の存在まで含まれている。
殿下やセレスティーヌ嬢にとって、それは大きな痛手になる可能性が高い。
「やはり……こんな形で争いになるなんて思ってもみなかったわ」
私は静かに唇を引き結んだ。どうせ相手が先に仕掛けてくるのなら、こちらも遠慮はいらない。
――私を嘲笑する王宮。
だが、もうあの檻からは出てきたのだ。私は白い結婚の鎖を解かれ、誰の目を気にせず自由に行動できる。むしろ、これは私を踏みにじろうとした者たちへの“ささやかな復讐”の機会でもある。
「いいわ。望むところよ。私だって、ただ黙って笑われるだけの人形じゃないんだから」
そう心の中で宣言すると、不思議と冷静な気持ちが戻ってくる。私は急いで書斎の机を片付け、ノートとペンを用意する。これから、具体的に“王宮の帳簿”をいかに使い、どう反撃に転じるかを整理しなければならない。
第二章の幕は、こうして血なまぐさい権力争いを思わせる不穏な気配をはらみながら、しかし私にとっては新たな覚悟の始まりを告げていた。
――王太子に捨てられた哀れな女、などと思われてたまるものか。
自らの力で立ち上がり、真実を握る私が最後に笑う。王宮に巣食う者たちがどれほど嘲笑しようと、必ずやその鼻を明かしてみせる。