翌朝。村は朝日とともに活気づいていた。鳥のさえずりと、薪を割る音、遠くで子どもが笑う声。世界は、静かに動き始めている。異世界で暮らすのも悪くはない。
「リョウさん、おはよう! 今日は一緒に〈ハニービーの蜜〉取りに行こう!」
元気よく手を振ってきたのは、ごちそう係のマイ。昨日の料理で完全に打ち解けたらしい。バスケット片手に、笑顔満開でこちらに駆け寄ってくる。
やたら距離が近い。昨日までの警戒心はどこいった。料理は、すべてを解決するということなのか……?
「ハニービーって、モンスターだよな? 襲われたりしないのか?」
俺が思わず眉をひそめると、マイは屈託のない笑顔で頷いた。
「大丈夫大丈夫! ルナちゃんの図鑑だと“温厚で人懐っこい”って書いてたし!」
……おい。
隣にいたルナが、わずかに目をそらした。嫌な予感が、胃のあたりにズシンとくる。
「念のため聞くけど……“近づいちゃダメなエリア”とかは……?」
「うーん? 書いてなかったような?」
嫌な予感が、確信に変わる。
俺は無言でルナに視線を向けた。すると女神は、「あわわ……」と肩を縮め、手作り図鑑をパラパラとめくり始めた。
「えーっと、《ハニービー:花畑で蜜を集める心優しいモンスター》……ですねっ!」
「巣に近づいたときの注意書きは?」
「……うっかりページ破いちゃったかもですっ!」
「ダメじゃん!!」
案の定である。ルナ調べ、の信頼度はやはり限りなくゼロに近い。
そんなわけで、俺は今日もルナの手作り図鑑ミスに振り回されながら、異世界の朝に出かける羽目になった。
森の奥。陽がよく当たる丘の上に、それはいた。
「でかいな」
「でかいね……」
体長はゆうに二メートル。金色の体毛が日差しを反射し、ぶぅん、ぶぅんと巨大な羽音を立てながら浮かぶその姿は、まるで暴走族のマスコットだ。
だが、意外にも動きは穏やか。今のところ、敵意らしきものは見えない。
「花の蜜を集めてるだけっぽいよ?」
「ルナの図鑑が本当ならな」
俺はそろりと巣に近づき、木に吊るされた壺をのぞき込んだ。中には、黄金色に輝く粘液──蜂蜜がたっぷり詰まっている。
マイが身を乗り出すようにして興奮気味に声を上げた。
「すごい! これ、今朝採れたての蜜だよ!」
「取っても大丈夫なやつか?」
「うん、見てて……こうやって――」
彼女が巣に手を伸ばし、蜂蜜をすくい取ったその瞬間。
――ブォオオン!
空気がうなりを上げ、ハニービーがバッと空に舞い上がる。巨大な羽を震わせながら、頭上からこちらを見下ろしている。
その大きな瞳に、さっきまでの穏やかさはない。明らかに怒っている。
「え、なに、怒った!? 草食じゃないの!?」
「だから言ったろ、ルナの図鑑は信用ならんって!」
俺の声が裏返る。針のような口先が、明確にこちらを狙っている。
「に、逃げてーっ!!」
俺とマイは木陰に隠れて、息を潜めていた。ルナはというと――なぜか木の上でガタガタ震えている。
「えぐい……ハニービーえぐい……。図鑑直しときます……」
「いいから対策考えろ」
怒り狂うハチの羽音が、まだ近くで響いている。こちらを見失ったらしいが、油断はできない。
俺は思い出す。さっき見た図鑑の一文。
《花の香りや甘味に強く反応する》
……なるほど、なら。
「マイ、あの蜂蜜と、この小麦粉と卵、借りてもいいか?」
「え、料理するの!? この状況で!?」
「料理でどうにかするしかないのが、俺の異世界生活だからな」
木の根元に、小さなフライパンをセットする。バターを溶かす準備はOK。火はルナが魔力で点けてくれた。ようやく女神らしい仕事をしてくれた。
俺は深呼吸をしてから、手際よく素材を扱い始める。
まずは、小麦粉と卵を混ぜ合わせ、生地を作る。そこに蜂蜜を加えて、なめらかに整える。
フライパンにバターを落とすと、じゅわっと甘い香りが立ちのぼった。
俺は静かに笑みを浮かべながら、生地を流し込む。
――じゅわ、じゅわ……
焼き色がつくまでじっくり待ち、ひっくり返す。蜂蜜をたっぷり塗り、もう一枚重ねて──
「はい、完成。蜂蜜パンケーキ、できあがり」
ふわふわのパンケーキに、花びらを散らして彩りもばっちりだ。
森の中に、甘く香ばしい匂いが漂っていく。
そのときだった。
――ブオオオン……
ハニービーがぴたりと動きを止めた。
そのまま、香りに誘われるように、ふらりと俺たちの前へと舞い降りてくる。
「……来るぞ」
「お、おいしくないフラグじゃないよね!?」
三人で固唾を飲んで見守る中、ハニービーは俺たちを攻撃せず、そっとパンケーキに口をつけた。
ぺろ、ぺろ……。
『スキル【エサ】発動──ハニービーをテイムしました』
脳内に響いた機械音に、俺はガッツポーズを決めた。
「っしゃああああ!!」
「料理で懐いたああああ!!」
木の上から、ルナがずるっと落ちてきた。
「す、すごい……こんな状況でも飯で解決……まさに、ご主人さまっ!」
「だから勝手に懐くなって」
村に戻ると、マイは興奮気味に村長へ報告していた。
「この人すごいの! ハニービーを、パンケーキでテイムしたの!」
村人たちの目が、一斉にこちらに向いた。やけに真剣な表情だ。
数秒の静寂。
次の瞬間。
「「「うおおおおおおおっ!!」」」
歓声が弾け、俺はなぜか担ぎ上げられた。スライムのスイーツごと一緒に持ち上げられている。
「今夜は宴だ! 蜂蜜のパンケーキで祝うぞ!」
「ま、まあ悪くないか……」
異世界でも、料理があればなんとかなる。
――そう思いながら、俺はルナとスライムと一緒に、村の広場に湧き上がる甘い香りの中へ歩いていった。