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第九話

深夜、断続的なノックの音が静かに響き、やがて静寂が戻った。暗闇の中で、スマートフォンの画面だけがしつこく光り続け、バイブレーションが止まらない。


遥はスマホを手に取り、LINEのトーク画面に「高島光」の名前が次々とメッセージを送ってきているのを見つめた。彼女はためらうことなくその連絡先を削除し、着信も拒否した。


その夜、たとえ外で誰かが行き来し、重いため息や再び鳴るノックの音が聞こえてきても、遥は石のように微動だにしなかった。朝になり、洋子の優しい呼びかけが響いたとき、ようやくドアを開けて母の胸に飛び込んだ。まるで傷ついた子どものように。


事情を知らない洋子だったが、本能的に遥の震える背中を優しくさすり、昔歌っていた子守唄を口ずさんだ。


リビングでは、血走った目をした光が無言でその光景を見つめていた。彼は朝の光の中、しばらく立ち尽くし、結局何も言わずに階下へ降りていった。


その後数日間、遥は洋子の寝室で過ごすことにした。


昼は母娘で荷物を整理し、着物を防虫紙で丁寧に包む。夜は一緒に眠り、洋子がロンドンの雨季にどんな下駄を履けばいいか話して聞かせ、遥はなじみ深いクチナシの香りに包まれながら、静かな安らぎを得ていた。


出発前夜、洋子は長距離フライトで体調を崩さないよう、遥に自分の部屋で休むよう勧めた。遥は一人きりで暗闇の中、天井を見つめていた。


真夜中、静かにドアの鍵が回る音がした。


光が合鍵で入ってきて、これまで何度もしてきたように彼女を抱きしめた。「まだ怒ってるの?」と、顎を遥の頭に寄せて囁く。「ごめん、兄さんが悪かった。」


「丸三日も無視されて……本当に気が狂いそうだった。」腕の力が強くなる。


遥は固くなったまま、目を閉じて何も言わなかった。


彼女の落ち着いた呼吸を感じて、光は衝動を抑え、そっと額にキスした。「もう寝よう。」


暗闇の中、遥の耳元に心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。結局、一睡もできなかった。


夜明けが近づいた頃、光の枕元のスマホが突然鳴り、「白河夕」の名前が点滅していた。


遥は迷わず彼を揺り起こし、スマホを手渡した。


光は眠そうに電話に出ると、相手の声に何かを感じたのか、遥の腰に回していた手を急に離し、起き上がった。「……わかった。今すぐ行く。」


電話を切ると、薄暗い部屋で振り返る。「遥、俺……」


「電気はつけないで。」遥はかすかな声で言った。「行って。」


光は彼女がもう怒っていないと思い、素直に服を着た。ドアノブを握ったとき、なぜか不安が胸を締めつけた。


振り返って、布団の中で丸くなっている遥の姿を見つめる。「すぐ戻るから。」


遥はもう彼のそばにいたいと思わなかった。


待つつもりもなかった。


すべては終わったのだ。


スポーツカーのエンジン音が遠ざかるのを聞きながら、遥はベッドサイドの灯りを点けた。着替えと身支度を淡々と済ませる。


朝食のとき、洋子は涙ぐみながらおにぎりを差し出した。「羽田は遠いから、しっかり食べてね。」


庭では宏一郎が使用人に指示し、タグを付けたスーツケースを次々と車に積み込ませていた。


最後のひとつが積み込まれたとき、遥は急に踵を返して自室へ駆け戻った。机の引き出しから三億円のキャッシュカードと白い封筒を取り出し、そのまま三階の光の部屋へ。


キャッシュカードと封筒を目立つようにナイトテーブルの上に置いた。


便箋には一行だけ。


高島光、今度は、私があなたを捨てます。


「遥——飛行機に遅れるわよ!」と、洋子の泣きそうな声が下から響いた。


「今行くよ。」遥は十年過ごした和室を最後に見渡し、階段を下りた。


ドアを閉める前、洋子が突然窓際に駆け寄った。「コートのベルトの内ポケットに連絡先を入れてあるわ!これは幼い頃お祖父さまが決めた高橋家の……」メモを遥の手に押し込む。「異国で無理しないで、いい?」


「お母さん……」遥は喉を詰まらせた。


「思いっきり飛びなさい!」洋子は涙をぬぐいながら叫ぶ。「家はいつでもあなたの帰る場所だから!」


車が庭を出ていく。バックミラー越しに、母の姿は小さくなり、やがて朝もやの中に消えていった。遥は窓を閉め、深く息を吸い込む。


朝日がガラス越しに射し込み、全身を包む。窓の外の東京スカイツリーが澄みきった青空にそびえ立ち、新しい人生の幕開けを静かに告げていた。

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