東京発ロンドン直行便は、朝8時ちょうどに羽田空港を離陸した。シートに背中を押し付けられながら、窓の外ではスカイツリーの姿がみるみる小さくなり、やがて雲の中へと消えていった。十時間に及ぶフライトの間、これまでの疲れが一気に押し寄せ、遥は深い眠りに落ちていった。
次に目を覚ましたとき、窓の外はすでに白んできており、フライト情報の画面には七時間以上眠っていたことが表示されていた。意識がはっきりすると同時に、長時間の移動で体のあちこちが固まっているのを感じたが、不思議と心の中はこれまでにないほど澄みきっていた。窓の外に広がる雲海を眺めながら、遥ははっきりと実感した——自分はついに、あの高島家を、愛と痛みに満ちた東京を、ひとりきりで離れたのだ。高島光のことしか見えなかったあの頃の自分には、想像もできなかった人生の一歩を、こうして踏み出している。
だが、実際にこの一歩を踏み出してみると、思っていたような痛みは訪れなかった。それどころか、どこか落ち着いた解放感が胸に広がっていた。涙も後悔もなく、ただ重荷を降ろしたあとの脱力感だけが残る。その奥底で、小さな希望の灯が静かに灯りはじめていた──かすかだけれど、確かに存在する光。
遥はスマートフォンのメモを開き、出発前にまとめたリストを確認した。多摩美術大学の手続き、六本木のマンションの管理規約、国民健康保険の申請方法……傅家が手配してくれた住まいの詳細に目を通し、少しだけ安心する。ただ、ひとつだけ心に引っかかる項目があった——母が何度も念を押した「婚約者」のことだ。
相手の名前は? 遥は着物の帯の間から、洋子が渡してくれたメモを取り出した。見慣れた字で番号が書かれている。少し迷ってから、LINEでその番号に友達申請を送った。
すると、すぐに承認された。画面には、白黒の横顔がアイコンになっていて、名前の欄には「高橋嘉遇」と冷たい印象の三文字が並んでいる。
「高橋嘉遇……」遥はその名前を小さくつぶやいた。母の「たくさん連絡をとるように」という言葉が頭をよぎり、無機質なアイコンを眺めてため息をつく。しばらく指がメッセージ欄の上で止まったが、結局、何も書かずにシステムの定型挨拶だけを残した。
機体が降下を始めると、機長が流暢なイギリス英語で「まもなくヒースロー空港に到着します」とアナウンスした。遥はスマートフォンを握りしめ、深く息を吸い込んだ。
到着後、三つの大きなスーツケースを押しながら到着ゲートへと向かう。人混みの中に「高橋遥」と書かれた日本語のボードが目に留まった。その前には三人が立っている。上品な着物姿の女性、ふくよかなスーツ姿の男性、そしてその後ろには紺色のコートを着た背の高い青年がいた。
着物姿の女性が母の古い友人、高橋黎語だと気づいた遥が近づこうとすると、黎語が嬉しそうに手を振った。「遥!こっちよ!」
人混みをかき分けてカートを押していると、右側のスーツケースが何かにぶつかって隔離柵の方へ滑り出した。遥が驚いて声を上げる間もなく、青年がさっと前に出て長い脚でスーツケースを止め、片手で軽々と持ち上げてくれた。遥が残りの荷物を押して近づくと、「ありがとう」と言いかけたが、その前に青年が自然に左手のスーツケースを受け取った。
「この子が高橋嘉遇よ。」黎語が遥の腕をそっと取り、夫の誠が残りの荷物を引き受ける。栀子の香りがほのかに漂うハンカチで、黎語が優しく額の汗をぬぐってくれた。「ロンドンへようこそ。」
黎語の瞳には、四月の桜のような温かさが宿っていた。その優しさが、遥の張りつめていた心に静かに染み込んでいった。