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第十一話

賑やかな空港を離れ、高橋家の三人はそのまま小早川遥を連れて自宅へと車を走らせた。車中で、遥は遠慮がちに「自分は高橋家が用意してくれたマンションに泊まってもいい」と申し出たが、その言葉は高橋黎語によってきっぱりと遮られた。


「マンションの方は準備できてるけど、生活用品とかはまだ揃ってないでしょう?それに、多摩美術大学の入学までもう少し時間があるんだから、安心してうちにいてちょうだい。部屋もちゃんと用意してあるわよ、嘉遇の隣だから何かあったらすぐに呼べるし。お母さんから遥ちゃんを預かったんだもの、私が一人で外に住まわせるわけにいかないわ。」


黎語の言葉には優しさと強い意思が込められていた。遥はその厚意に逆らえず、少し戸惑いながらも「ありがとうございます。ご迷惑をおかけします」と小さく頷いた。


高橋家のある港区南青山18番地へ向かう道すがら、黎語はずっと遥の手を取ったまま、小早川洋子との思い出話を楽しそうに語っていた。子供の頃に一緒に木登りをして鳥の巣を探したことや、少女時代の秘密を分かち合ったこと、やがてそれぞれ家庭を持ち離ればなれになったこと――。そのどれもが温かく、遥の心にもじんわりと沁みてくる。


母が大切にしていた友情が、時間も距離も越えて今も変わらず続いていることに、遥は嬉しさを感じていた。しかし同時に、母は今遠く祖国にいて、ただ写真を眺めては昔を思い出しているのだと思うと、ふと切ない気持ちも湧いてきた。母の親友がすぐそばにいるのに、肝心の母はこの場所にいられない――それが運命の皮肉に思えた。


遥のそんな心の揺れを感じ取ったのか、黎語はふとため息をつき、寂しそうに呟いた。「洋子も一緒に来てくれたらよかったのにね……」


遥はすぐに気持ちを切り替え、明るく微笑んで母の言葉を伝えた。「大丈夫ですよ。母は、ビザの手続きが終わったらすぐに会いに来るって言ってました。」


その言葉に黎語はすぐ顔をほころばせ、嬉しそうに遥の頬をつまんだ。「あらまあ、遥ちゃんは本当に優しいわね。一言で私の気持ちを明るくしてくれるんだもの!口も達者で、うちの嘉遇とは大違い。あの子はいつも仏頂面で、何を聞いてもろくに返事もしないんだから。」


遥は思わず目を見開いた。彼の無愛想は他人だけじゃないの?と不思議に思い、無意識に視線をあげると、ちょうど後部座席のミラー越しに嘉遇と目が合った。その目は静かで淡々としていながら、どこか人の心を見透かすような鋭さがあった。二人は一瞬だけ見つめ合い、すぐにお互い視線を外した。


しばらく車内に静けさが流れ、遥はその沈黙に少し気まずさを覚えた。すると、それまで黙っていた嘉遇が急に口を開いた。「小早川さんのお母さん、いつ頃来られるんですか?早めに客間を準備しておこうと思って。」


その一言に、一番驚いたのは黎語だった。目を丸くして息子を見つめ、「まあ、今日はどうしたの嘉遇?珍しく気が利くじゃない。熱でもあるの?」とからかう。


嘉遇は母の冗談にも動じず、淡々と返した。「準備しないと、どうせ最後は僕にやらせるんでしょ?」


「はいはい、口の減らない子ね!」と黎語は少し怒ったふりをして、「遥ちゃんも乗ってるんだから、もうちょっとお母さんにいいところ見せてくれてもいいのに」と言う。


「“いい加減”の“加減”と、“不良”の“良”ってこと?」と嘉遇は表情を変えずに返す。


この親子の軽妙なやりとりに、遥は思わず吹き出してしまった。運転していた誠もつられて大笑いし、車内には明るい空気が広がった。


遥の顔に自然な笑顔が戻ったのを見て、黎語も安心したように優しく頭を撫でた。「そう、それでいいのよ、遥ちゃん。ここは自分の家だと思って、遠慮なんてしないでね。嘉遇は口数が少ないけど、何かあったらどんどん頼って。もし言うことを聞かなかったら、私がちゃんと叱ってあげるから!」


この温かくてにぎやかな雰囲気は、遥が高島家では感じたことのないものだった。肩の力がすっと抜けて、遥は自然と笑顔になり、「はい、ありがとうございます」と心からのお礼を口にした。


車は緑に囲まれた住宅街に入り、小さな庭付きのタウンハウスの前で止まった。遥は先に車を降りて、慣れた手つきでトランクから自分の荷物を取ろうとした。その瞬間、誠がトランクを開けるのと同時に、もう一つの手が一番重いスーツケースを軽々と持ち上げた。


見上げると、そこには嘉遇がいた。彼は小さく頷き、家の方を顎で示して「僕が運ぶから、母さんと一緒に先に中を見てきて」と静かに言った。


遥は自分の荷物の重さを知っているだけに、少し申し訳なく思い、「大丈夫ですよ、自分で運べますから……」と遠慮がちに言った。


嘉遇はすでに他の荷物も手際よく持ち上げ、「気にしなくていいよ。じゃないと、また母さんに小言を言われるから」と、少しだけ呆れたような、それでいて優しい口調で言った。

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