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第十三話

父親の厳しい叱責を耳にした瞬間まで、高島光の顔にはいつもの気だるげな表情が浮かんでいたが、その仮面は一気に剥がれ、代わりに冷たく沈んだ陰が広がっていった。父と子の間には、一触即発の緊張感が漂う。


そんな空気を和らげようと、小早川洋子が慌てて話題を変える。「まあまあ、若い子なんだから、仕事の付き合いでお酒を飲むことくらいあるでしょう。そんなに怒らなくても……。光、」彼女は優しく微笑みながら光に向き直る。「体調でも悪いの? 先にお風呂に入ってきなさい。味噌汁を作ってあげるから、少しはお腹に優しいものを食べてね。」


だが、帰宅早々に父からきつく叱られた光は、もう洋子に合わせて「仲の良い親子ごっこ」を演じる気力も残っていなかった。「いらない」とだけ冷たく言い放つと、二人を無視して、ふらつく足取りで階段を上っていった。


自室に戻ると、そのままバスルームへ。

冷たい水が身体を打つが、かえって酔いが覚めるどころか、むしろ胃の痛みをさらに激しく刺激した。

痛みに耐えながら、体を拭き、薬を探して引き出しを漁る。

ようやく見つけた薬のシートは、すでに空になっていた。


怒りと痛みが一気にこみ上げ、思わず机を拳で叩きつける。鈍い音が部屋に響いた。

もはや我慢できず、スマホと車の鍵を掴んで病院へ行こうとする。


ドアノブを回した瞬間、ちょうど味噌汁を持って上がってきた洋子と鉢合わせる。

洋子はすぐにトレイを差し出し、心からの心配を浮かべながら「光、これを飲んで。お腹、温めて。しんどくなるからね。お父さんのことは私がなんとか言っておくから、味噌汁飲んで、ゆっくり休んで」と優しく言う。


激しい胃痛に耐えながら、光は表情を変えずに小さく「うん」とだけ答え、味噌汁の載ったトレイを受け取った。


ドアを閉めると同時に、手が痛みと嫌悪感で震えだし、もはや気力も限界だった。背中をドアに預けてそのまま床に座り込む。冷や汗が薄いパジャマを濡らす。


洋子が作ってくれた味噌汁を見つめるが、その目には冷たい光しかなく、一口も飲む気にはなれなかった。

ようやく痛みが少し和らぐと、光は重い身体を引きずって洗面所へ行き、何の躊躇もなくそのまま味噌汁をトイレに流してしまう。

空になった器をシンクに投げ入れると、壁に手をつきながらふらふらとベッドに戻り、そのまま倒れ込んだ。


どれくらい時間が経ったのか、ようやく胃の痛みが少しおさまる。充血した目で薄暗い部屋を見回すと、枕元のカレンダーに赤ペンで囲った日付が目に入る。

光はスマホを手探りで取り上げ、わずかに震える指で海外にいる実母・高島玲子の番号を押した。


1回、2回、3回……虚ろな部屋に、ただ無機質な呼び出し音だけが響く。誰も出ない。

もう諦めかけたそのとき、画面にメッセージが届く。送り主は玲子の秘書だった。


「高島様、ただいま梁社長は重要な会議のためお電話に出られません。会議が終わり次第、折り返しご連絡いたします。どうぞご自愛ください。加藤秘書」


冷たく事務的な言葉。玲子の声ではなかった。

光はその文面を一文字ずつ見つめ、心の奥に残った微かな光まで消えていくのを感じたが、それでも涙は落とさなかった。


夜11時を過ぎてようやくスマホが鳴る。「母親」の文字が表示される。光はすぐに応答した。


「どうしたの? こんな時間に」玲子の声は相変わらず事務的で、背景には書類をめくる音が聞こえる。

せき止めていた想いと寂しさは、その冷たい口調に一瞬で凍りついた。


光は数秒沈黙し、カレンダーの赤い丸を見つめながら、かすれた声で言う。「……母さん、もうすぐ……俺、誕生日なんだけど……帰ってこれない? それか俺がそっちに……」


「その日は予定が詰まってる。大事なM&A案件があって外せない。欲しいものがあれば加藤に言って。手配させるから。日本はもう遅いんでしょ。ちゃんと休んで、体に気をつけて。こっちはまだ仕事があるから、切るわね」

玲子の言葉が終わる前に、電話は切れてしまった。


仕事。いつも仕事だけ。

真っ暗になった画面に、光の青ざめた顔が映る。

濡れた布団を握りしめ、指先は白くなり、爪が手のひらに食い込むほどだった。


枕を引き寄せ、顔を押し付け、息ができなくなるまで自分を押さえつける。頬が赤くなり、こめかみが脈打つほど苦しくなって、ようやく力尽きたように枕を放り投げ、荒い息を繰り返す。


壁の時計は静かに午前0時を指していた。

光はふらつきながら洗面所に行き、冷たい水で何度も顔を洗う。

頬を伝う水滴は、心の冷たさを消すことはなかった。


自室の電気を消し、暗闇の中でそっとドアを開けて、静かに廊下を抜け、二階の奥のあの部屋へ向かった。

今回は合鍵すら使わなかった――ドアは施錠されていなかった。静かにノブを回すと、すっとドアが開く。部屋に足を踏み入れた瞬間、極限まで張り詰めていた心が、ほんのわずかに緩んだ。


しかし、部屋は異様なほど静かだった。いつもの彼女が使っている桜のアロマの香りも、もう感じられない。この静寂に、光はどこか落ち着かない苛立ちを覚えた。


自分の部屋のように慣れた手つきでベッドに近づき、彼女が眠っているはずの布団に手を伸ばす。

しかし、触れたのは冷たいシーツだけだった。

諦めきれずに反対側も探るが、やはり誰もいない。


いない? 

この時間に部屋にいないなんて――まさか外泊?

その考えが心にひやりと突き刺さり、光の顔は一気に険しくなる。


すぐにスマホを取り出し、「遥」とだけ登録されたLINEのアイコンを開き、冷たい気持ちを込めて「?」を送った。


送信ボタンを押した瞬間、スマホが「ピン」と鳴る。

しかし、それは返信ではなかった。

赤いビックリマークとともに、「メッセージは送信されましたが、相手に拒否されました」と表示された。


その赤い表示を見て、光はやっと気づく――遥はまだ自分をブロックしたままだった。まだ怒ってる? それとも、もう解除する気なんてないのか? 朝、空港で別れたときは普通だったのに――


苛立ちで髪をかきむしり、暗い部屋を行き来したものの、結局は彼女の残り香が漂うベッドに倒れ込み、布団を抱きしめて体を丸めた。


かすかに残る彼女の香りが、張り詰めていた神経をほんの少し和らげ、光の眉間はようやく緩んだ。

ここ数日の疲れと酒のせいも重なり、そのまま意識は暗闇に沈んでいった。

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