和樹は振り返ると、冷たい表情の凛子と目が合う。
その視線に反射的に目を逸らす。
「……別に。数日後にあるコンテストに出るだけだよ」
何気ないように答えたが、自分でもわかった――これは嘘だった。
そんな自分に、自嘲めいた苦笑が浮かぶ。まさか、自分が嘘をつくようになるなんて。
彼女の無関心な様子を見て、もう何も深く考えなかった。
この三年間の追いかけるような恋の終わりに、せめて“みっともない男”にはなりたくなかった。
拓真が帰国したから出ていく――それだけは知られたくなかった。
ただ、静かに、誰にも気づかれずに消えたかった。
どうせ彼女にとって、自分の存在の有無など、大した違いはないのだろう。
そんな思いをよそに、凛子は無言で手を挙げてタクシーを止めた。
乗り込もうとした瞬間、背後から走ってきた声がかかる。
「凛子、スマホ忘れてたよ」
追いかけてきた拓真がスマホを差し出し、次に和樹に向き直った。
「和樹、LINE、交換しようか?」
彼は凛子の顔を一瞬見た。止める様子はない。
ほんの少し迷った末に、彼は同意する。
その一瞬、拓真が驚いたように揺れ、何か言いかけて、けれど飲み込む。
「……じゃあ、また」
タクシーの中。
夜風がわずかに車内へ入り込み、酒の残り香を薄めていく。
凛子は少しだけ酔いが覚めたのか、落ち着いた声で口を開いた。
「和樹、LINEのピン留めは高校のときに設定したまま忘れてたの。拓真とは、幼なじみなの」
彼は答えない。
静寂が続いた後、ふと彼女が横を向く。
そこで気づいた。和樹の頬には、涙の跡が残っていた。
三年間、付き合ってきた中で、初めて見る彼の涙だった。
「……どうしたの?」
凛子は思わず聞いた。
「……なんでもないよ。風がちょっと目に入っただけ」
彼はそう言って、手で涙を拭い、無理に笑ってみせた。
そして、窓の外――光に流れる東京の夜景へ視線を向けた。
拓真がLINEの投稿を見られていたことに気づいたあの表情。
その瞬間、和樹は自分が負けたことを痛感した。
陰でこそこそと誰かの“好き”を探る情けなさ。
彼の涙は、他人の気持ちではなく、自分自身の惨めさに流れたものだった。
もし、あの日あんなに彼女に執着しなければ。
もし、彼女のために日本に残らなければ――
自分はもう少し誇りを持って生きられたのだろうか。
けれど、そんな「もしも」は存在しない。
これは、自分で選んだ道だ。
……そして、まもなく終わる。
アパートに戻ると、和樹は真っ先にダイニングテーブルの日めくりカレンダーを一枚破った。
「21」
その赤い数字が、ひどく鮮やかに刺さる。
凛子はその数字を見つめ、思わず和樹に目を向けた。
けれど彼は視線を下げたまま、何も言わずに寝室へ向かっていった。
洗面を終え、和樹が鏡の前で髪を整えていると、凛子がそっと後ろから近づき、彼の手を取った。
そして、俯きながら――唇を近づけた。
彼女が自分からキスをしようとしたのは、三年間で初めてのことだった。
今までキスはいつも彼から。
そして、触れるだけの短いものばかりだった。
和樹は少し驚き、手で彼女を制した。
「……酔ってるだろ。もう寝よう」
そう言って背を向ける。
けれどその瞬間、凛子の心に何かがざわめいた。
何かを失いかけているような、得体の知れない焦燥。
気づけば、彼の背中にそっと腕を回していた。
和樹はそのまま、彼女を振り払わなかった。
その温もりに、ようやく彼女の中の鼓動が、静かに落ち着いていった。