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第5話

和樹は振り返ると、冷たい表情の凛子と目が合う。

その視線に反射的に目を逸らす。


「……別に。数日後にあるコンテストに出るだけだよ」


何気ないように答えたが、自分でもわかった――これは嘘だった。


そんな自分に、自嘲めいた苦笑が浮かぶ。まさか、自分が嘘をつくようになるなんて。



彼女の無関心な様子を見て、もう何も深く考えなかった。


この三年間の追いかけるような恋の終わりに、せめて“みっともない男”にはなりたくなかった。


拓真が帰国したから出ていく――それだけは知られたくなかった。


ただ、静かに、誰にも気づかれずに消えたかった。


どうせ彼女にとって、自分の存在の有無など、大した違いはないのだろう。


そんな思いをよそに、凛子は無言で手を挙げてタクシーを止めた。


乗り込もうとした瞬間、背後から走ってきた声がかかる。


「凛子、スマホ忘れてたよ」


追いかけてきた拓真がスマホを差し出し、次に和樹に向き直った。


「和樹、LINE、交換しようか?」


彼は凛子の顔を一瞬見た。止める様子はない。


ほんの少し迷った末に、彼は同意する。


その一瞬、拓真が驚いたように揺れ、何か言いかけて、けれど飲み込む。


「……じゃあ、また」


タクシーの中。


夜風がわずかに車内へ入り込み、酒の残り香を薄めていく。


凛子は少しだけ酔いが覚めたのか、落ち着いた声で口を開いた。


「和樹、LINEのピン留めは高校のときに設定したまま忘れてたの。拓真とは、幼なじみなの」


彼は答えない。


静寂が続いた後、ふと彼女が横を向く。


そこで気づいた。和樹の頬には、涙の跡が残っていた。


三年間、付き合ってきた中で、初めて見る彼の涙だった。


「……どうしたの?」


凛子は思わず聞いた。


「……なんでもないよ。風がちょっと目に入っただけ」


彼はそう言って、手で涙を拭い、無理に笑ってみせた。


そして、窓の外――光に流れる東京の夜景へ視線を向けた。


拓真がLINEの投稿を見られていたことに気づいたあの表情。


その瞬間、和樹は自分が負けたことを痛感した。


陰でこそこそと誰かの“好き”を探る情けなさ。


彼の涙は、他人の気持ちではなく、自分自身の惨めさに流れたものだった。


もし、あの日あんなに彼女に執着しなければ。

もし、彼女のために日本に残らなければ――

自分はもう少し誇りを持って生きられたのだろうか。


けれど、そんな「もしも」は存在しない。

これは、自分で選んだ道だ。

……そして、まもなく終わる。


アパートに戻ると、和樹は真っ先にダイニングテーブルの日めくりカレンダーを一枚破った。


「21」

その赤い数字が、ひどく鮮やかに刺さる。


凛子はその数字を見つめ、思わず和樹に目を向けた。


けれど彼は視線を下げたまま、何も言わずに寝室へ向かっていった。


洗面を終え、和樹が鏡の前で髪を整えていると、凛子がそっと後ろから近づき、彼の手を取った。


そして、俯きながら――唇を近づけた。


彼女が自分からキスをしようとしたのは、三年間で初めてのことだった。


今までキスはいつも彼から。


そして、触れるだけの短いものばかりだった。


和樹は少し驚き、手で彼女を制した。


「……酔ってるだろ。もう寝よう」


そう言って背を向ける。


けれどその瞬間、凛子の心に何かがざわめいた。


何かを失いかけているような、得体の知れない焦燥。


気づけば、彼の背中にそっと腕を回していた。


和樹はそのまま、彼女を振り払わなかった。


その温もりに、ようやく彼女の中の鼓動が、静かに落ち着いていった。



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