翌朝、和樹が目を覚ますと、意外にも凛子がリビングのソファに座っていた。
彼が部屋から出てくるのを見るなり、彼女は読んでいた本を閉じて立ち上がる。
「前に約束してた日帰りデートだけど、このところ天気悪いし……先にテーマパーク行かない?晴れたら山にしよう」
手際よく予定を提案する彼女に、和樹は黙ってしばらく見つめ、ようやく小さくうなずいた。
三年間の恋人関係の中で、デートの提案はいつも彼からだった。
彼女が自分から出かけようと言ってきたのは、初めてだった。
――何か、察しているのだろうか?
けれど、彼はもう手放すと決めていた。
同行していても、以前のようなときめきは何も湧いてこなかった。
午後、いくつかのアトラクションを回ったが、和樹の表情はどこか遠く、凛子はつい尋ねた。
「……楽しくない?」
和樹は微笑んで首を振る。
「ううん、楽しいよ」
そのとき、一人のカメラを持った青年が近づいてきた。
「お二人、記念撮影いかがですか?」
凛子は一瞬戸惑う。
――三年間、そういえば二人の写真が一枚もない。
ようやく口を開こうとしたとき、彼女のスマホが鳴った。
表示された番号を見て、彼女は「少し待ってて」と手で合図し、通話を取った。
数秒後、表情が変わり、突然後ろを振り返った。
和樹もその方向を見る。
……パンダのカチューシャをつけた拓真が、笑顔でこちらに歩いてきた。
「凛子、どうしてここに?」
「拓真!?……どうして来たの!?」
嬉しさが隠しきれない様子で、彼女はぱっと駆け寄る。
その様子に、和樹はそっと目を伏せた。
カメラマンには丁寧に頭を下げ、写真を断る。
――最後に残すはずだった“二人の記念”さえ、叶わなかった。
「今日はね、藤原先輩と一緒に来てたんだ。さっき彼女が用事で帰ってさ」
「一人でブラブラしてたら、後ろ姿が凛子に似てる子がいて……まさか本当に本人とはね!」
拓真の屈託ない笑顔に、凛子の表情が一変する。
「……先輩?どの先輩?名前は?私、知ってる人?なんで帰国早々、女の人と遊ぶの?」
矢継ぎ早の問いに、和樹の足が止まる。思わず、手が無意識に強く握られた。
「高校三年の時の、静香だよ。留学前に少し関わってた子で……今日会ったのは、俺が昔、彼女の留学先を紹介してあげたお礼ってだけ」
拓真の説明に、凛子の表情はまだ険しいまま。
「行きたい場所があるなら、私を呼べばいいじゃん。変な女とつるまないで。心配になるから」
――彼女が誰かに対して、これほど強く独占欲を示したのを、和樹は初めて見た。
三年間、彼には一度もそんな言葉をかけたことはなかった。
自分が夜帰らなくても、彼女は気づきもしなかったかもしれない。
やがて、彼女は拓真を一人にするのが不安だったのか、「三人で一緒に回ろう」と提案する。
拓真は快く応じ、和樹も黙ってうなずいた。
三人で向かったのは、カップル向けのホラーハウスだった。
迷路のように暗く、脅かし役のスタッフがあちこちから飛び出してくる。
拓真は叫び声を上げながら壁にへばりつき、怖がっていた。
凛子はずっと彼のそばに寄り添って、気遣うように背中を支えていた。
二人の距離は、どんどん縮まっていく。
それを見ながら、和樹は黙ったまま、部屋のひとつの扉を開ける。
中には“ミッションルーム”と書かれた案内。
紙に書かれた指示には、こうあった。
「男女一組がキスをすることで、脱出の鍵が与えられます」
拓真は戸惑った。
周囲にはカップルばかり、背後ではスタッフ扮する幽霊がうごめいている。
焦った彼は、近くにいた一人の女性客に手を伸ばす。
「すみません、ちょっとお願いが――」
その瞬間。
凛子が、彼の腕をぐっと引き寄せ、顔を近づけ、唇にそっと口づけた。
拓真は目を丸くして固まり、唇に残る温もりを拭えないまま彼女を見た。
凛子は彼に目を合わせず、出てきた鍵を渡す。
「……怖いなら、先に出てて」
そう言ってから、ようやく和樹が傍にいたことを思い出す。
気まずそうに、彼へ言い訳をしようとする。
「拓真、怖がりで……ごめん。これは――」
その瞬間、拓真が悲鳴を上げながら飛び出した。
後ろからは“幽霊”に扮したスタッフが追いかけてくる。
凛子は驚き、慌てて彼の手をつかんで出口へ駆け出した。
細い通路の中で、人の波に流されるようにして、二人は遠ざかっていく。
――そして、和樹は、またしてもその場に取り残された。
取り残されるのは、いつだって自分なのだ。