送別会は夜中の三時、四時まで続いた。
アパートに戻ったときには、すでに朝になっていた。
いつものように、日めくりカレンダーを一枚取る。
――残り、あと二日。
翌朝は早起きして、部屋中を徹底的に掃除した。
使わない私物をまとめて、袋に詰めて階下のゴミ置き場に運ぶ。
そして書斎にある、何年も続けてきた愛を綴った日記、こっそり撮った写真――
それらを一枚ずつ、シュレッダーにかけて、生ゴミと一緒に捨てた。
三年間暮らしたこの部屋に、もはや“和樹”の痕跡は残っていなかった。
出発前日。
久しぶりにぐっすりと眠れた。
カーテンを開けると、眩しいほどの朝日が差し込む。
――まるで、別れにふさわしい朝のようだった。
冷蔵庫に残っていた最後の食材を電子レンジに入れ、
手を伸ばして、カレンダーの最後の一枚を破り落とす。
ちょうど「チン」と音が響いたとき、玄関の鍵が回る音がした。
半月以上も帰らなかった凛子が、久しぶりに帰宅した。
玄関をくぐった彼女は、すぐに部屋の異変に気づく。
部屋のあちこちがすっきりとし、テーブルのカレンダーもきれいに無くなっていた。
彼女は眉をひそめた。「なんか、物が減ってない?」
和樹は落ち着いた声で答える。
「もう使わないから捨てた。欲しいものがあったら、また買えばいい」
凛子は深く気に留めることなくうなずき、
買ってきた食材をキッチンに運ぶ。
ふと、彼の皿に乗った簡素な朝食を見て、皿を手に取った。
「今日、誕生日なのに……こんなので済ますの?ダメ、私が作る。」
――彼女が、自分の誕生日を覚えていたことに、驚いた。
和樹はソファに座り、キッチンから響く調理の音を聞きながら、
ゆっくりと時を刻む壁の時計を見つめていた。
やがて料理が並んだ頃、スマホが鳴る。
凛子が出ると、電話の主は中年の女性。
その口調からして、おそらく拓真の母親だろうと察しがつく。
「凛子?どこにいるの?拓真がまた薬を嫌がってて……
お願い、病院まで来て、説得してあげて!」
返事をせずに、凛子は和樹の顔色をうかがった。
まるで、彼の許可を求めるかのように。
「行ってきなよ」
和樹は、変わらぬ口調で言った。
凛子はほっとしたように息をつき、少し申し訳なさそうに言った。
「……後日、ちゃんとお祝いするね」
和樹は首を横に振り、静かに笑って見せた。
その笑顔に、凛子はどこか心を乱されそうになる。
ちょうどそのとき、インターホンが鳴った。
予約していたマンゴーケーキの配達だった。
ケーキを受け取り、戻ってくると、和樹は何事もなかったようにそれを受け取り、そっとテーブルに置いた。
凛子は、何かが引っかかるような気持ちを抱えつつも、時計を見て、ほんの少しだけ余裕があるのを確認した。
「……願い事、してから行こう。」
ケーキの箱を開け、蝋燭に火を灯す。
和樹は手を合わせて、ゆっくりと目を閉じた。
「――凛子が、想い人とずっと幸せでいられますように」
その言葉に、凛子のクールな瞳がふっと柔らぎ、彼の髪をくしゃっと撫でて微笑んだ。
「何をお願いしたの?……だって、私たち、ちゃんと一緒にいるでしょ?」
和樹もまた、微笑み返した。
けれど何も答えず、ただ言った。
「もうすぐ時間だよ」
彼女は時計を見て、うなずくと手を振り、玄関へ向かった。
扉が閉まりかけたその瞬間――
「凛子、実は……」
思わず和樹が呼び止める。
振り返った彼女。「ん?なに?」
その顔を見て、言葉が詰まる。
「……なんでもない。気をつけて」
凛子は特に気にすることなく、うなずいてドアを閉めた。
その足音が遠ざかったあと、和樹の中にしまい込まれていた言葉が、静かな部屋に滲み出す。
「……凛子、俺、実はマンゴーアレルギーなんだ」
「……今日が、君と過ごす最後の日なんだ」
その声は風のように軽く、そして何も残さず、消えていった。
時計の針が、正午を指した。
和樹は立ち上がり、テーブルの料理とケーキを流しに捨てた。
そして寝室に入り、用意していたスーツケースを手に取る。
カレンダーの最後のページ、「0」の紙に、黒のマジックで一行――
「凛子、別れよう。 和樹」
強く、迷いなく、書き込んだ。
ドアが開いて、そして閉まる。
スーツケースを引きずりながら、和樹はこの“かつて家と呼んだ場所”を、静かに後にした。