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第9話

送別会は夜中の三時、四時まで続いた。


アパートに戻ったときには、すでに朝になっていた。


いつものように、日めくりカレンダーを一枚取る。


――残り、あと二日。


翌朝は早起きして、部屋中を徹底的に掃除した。


使わない私物をまとめて、袋に詰めて階下のゴミ置き場に運ぶ。


そして書斎にある、何年も続けてきた愛を綴った日記、こっそり撮った写真――


それらを一枚ずつ、シュレッダーにかけて、生ゴミと一緒に捨てた。


三年間暮らしたこの部屋に、もはや“和樹”の痕跡は残っていなかった。



出発前日。


久しぶりにぐっすりと眠れた。


カーテンを開けると、眩しいほどの朝日が差し込む。


――まるで、別れにふさわしい朝のようだった。


冷蔵庫に残っていた最後の食材を電子レンジに入れ、


手を伸ばして、カレンダーの最後の一枚を破り落とす。


ちょうど「チン」と音が響いたとき、玄関の鍵が回る音がした。


半月以上も帰らなかった凛子が、久しぶりに帰宅した。


玄関をくぐった彼女は、すぐに部屋の異変に気づく。


部屋のあちこちがすっきりとし、テーブルのカレンダーもきれいに無くなっていた。


彼女は眉をひそめた。「なんか、物が減ってない?」


和樹は落ち着いた声で答える。


「もう使わないから捨てた。欲しいものがあったら、また買えばいい」


凛子は深く気に留めることなくうなずき、


買ってきた食材をキッチンに運ぶ。


ふと、彼の皿に乗った簡素な朝食を見て、皿を手に取った。


「今日、誕生日なのに……こんなので済ますの?ダメ、私が作る。」


――彼女が、自分の誕生日を覚えていたことに、驚いた。


和樹はソファに座り、キッチンから響く調理の音を聞きながら、


ゆっくりと時を刻む壁の時計を見つめていた。


やがて料理が並んだ頃、スマホが鳴る。


凛子が出ると、電話の主は中年の女性。


その口調からして、おそらく拓真の母親だろうと察しがつく。


「凛子?どこにいるの?拓真がまた薬を嫌がってて……


お願い、病院まで来て、説得してあげて!」


返事をせずに、凛子は和樹の顔色をうかがった。


まるで、彼の許可を求めるかのように。


「行ってきなよ」

和樹は、変わらぬ口調で言った。


凛子はほっとしたように息をつき、少し申し訳なさそうに言った。


「……後日、ちゃんとお祝いするね」


和樹は首を横に振り、静かに笑って見せた。


その笑顔に、凛子はどこか心を乱されそうになる。


ちょうどそのとき、インターホンが鳴った。


予約していたマンゴーケーキの配達だった。


ケーキを受け取り、戻ってくると、和樹は何事もなかったようにそれを受け取り、そっとテーブルに置いた。


凛子は、何かが引っかかるような気持ちを抱えつつも、時計を見て、ほんの少しだけ余裕があるのを確認した。


「……願い事、してから行こう。」


ケーキの箱を開け、蝋燭に火を灯す。


和樹は手を合わせて、ゆっくりと目を閉じた。


「――凛子が、想い人とずっと幸せでいられますように」


その言葉に、凛子のクールな瞳がふっと柔らぎ、彼の髪をくしゃっと撫でて微笑んだ。


「何をお願いしたの?……だって、私たち、ちゃんと一緒にいるでしょ?」


和樹もまた、微笑み返した。


けれど何も答えず、ただ言った。


「もうすぐ時間だよ」


彼女は時計を見て、うなずくと手を振り、玄関へ向かった。


扉が閉まりかけたその瞬間――


「凛子、実は……」


思わず和樹が呼び止める。


振り返った彼女。「ん?なに?」


その顔を見て、言葉が詰まる。


「……なんでもない。気をつけて」


凛子は特に気にすることなく、うなずいてドアを閉めた。


その足音が遠ざかったあと、和樹の中にしまい込まれていた言葉が、静かな部屋に滲み出す。


「……凛子、俺、実はマンゴーアレルギーなんだ」


「……今日が、君と過ごす最後の日なんだ」


その声は風のように軽く、そして何も残さず、消えていった。


時計の針が、正午を指した。


和樹は立ち上がり、テーブルの料理とケーキを流しに捨てた。


そして寝室に入り、用意していたスーツケースを手に取る。


カレンダーの最後のページ、「0」の紙に、黒のマジックで一行――


「凛子、別れよう。 和樹」


強く、迷いなく、書き込んだ。


ドアが開いて、そして閉まる。


スーツケースを引きずりながら、和樹はこの“かつて家と呼んだ場所”を、静かに後にした。

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