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第10話

病院を出たとき、まだ日は落ちていなかった。


凛子は、ここ数日の疎遠を埋め合わせようと、和樹を夕食に誘おうと考えながらマンションへ戻った。


けれど、いつも明かりが灯っているはずの部屋は真っ暗だった。


腕時計を見ると、午後九時半。


「もう寝ちゃったの? それとも、まだ帰ってない……?」


部屋の中は異様なほど静かで、人の気配がしない。


一日中駆け回って汗だくになった彼女は、そのままバスルームへと向かった。


三十分後、濡れた髪を拭きながら出てきても、


和樹の姿はどこにもなかった。


眉をひそめる。彼がこんなに遅く帰らないのは記憶にない。



そっと彼の部屋の前まで行き、半開きの扉を押し開けた瞬間――


彼女はその場に立ち尽くした。


壁一面に飾られていた写真や絵はなくなり、


カーキ色の寝具を整えたベッドの上には、何の気配もない。


目の錯覚かと何度も目をこするが、


部屋はやはり空っぽのまま。


バスタオルを放り投げ、駆け込んだ彼女は、


引き出しやクローゼットを手当たり次第に開けた。


……何も、ない。


「……引っ越した……?」


その考えがよぎった瞬間、心拍が跳ね上がる。


彼女は他の部屋へと走った。


書斎の本棚は半分以上空っぽになっており、洗面所には自分の持ち物しかなく、


リビングのラグやぬいぐるみは消え、


キッチンの彼が買ってきたカップも跡形もなかった。


確認するごとに、心が沈んでいく。


最終的に、アパートから和樹の痕跡が完全に消えていると知ったとき、


頭の中で鈍い音が鳴り響いた。


呆然とした表情で息を荒くし、


手を机の縁に置けば青筋が浮かぶ。


混乱した視線の先にあったのは、


カレンダーの「0」の文字だった。


だが、それ以上に目を引いたのは、


その日付の下に黒いマジックで書かれた一行――「別れよう」


その言葉を見た瞬間、凛子の目から色が消え、カレンダーをもぎ取り、震える手で握りしめた。


「……別れるって……? 和樹が……?」


胸の奥が激しく痛む。


電話を取り、彼の番号を押す。


長いコール音のあとに返ってきたのは、冷たく無機質な音声。


「電源が入っていないか、電波の届かない場所にいるため――」


まるで冷水を頭から浴びせられたようだった。


彼女は慌てて上着を羽織り、スリッパのまま外へ飛び出す。


タクシーをつかまえ、向かった先は――大学の男子寮。


門限前に滑り込むように到着し、通りがかった男子学生を呼び止めた。


「ごめんなさい、508号室の高橋さん……呼んできてもらえませんか!?」


十分後、寮の扉が開き、凛子の心臓が一瞬高鳴る――だが、出てきたのは佐藤陸だった。


ふだんは堂々とした凛子が、乱れた服に焦った目で立っている様子に、彼は目を見開いた。


「……?どうしたんですか……?」


「和樹を呼んで!今すぐ!」


佐藤はさらに驚いた様子で言った。


「……和樹、いないよ?

今日……フランスに向かう飛行機だったはずだけど……知らなかったの?」


「……飛行機……?」


その言葉に背を向け、彼女は校門を飛び出した。


成田空港へ向かうタクシーの中。


再び電話をかけたその瞬間――つながった。


一気に安堵した彼女の心は、噴き上がる怒りで、燃え上がった。



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