病院を出たとき、まだ日は落ちていなかった。
凛子は、ここ数日の疎遠を埋め合わせようと、和樹を夕食に誘おうと考えながらマンションへ戻った。
けれど、いつも明かりが灯っているはずの部屋は真っ暗だった。
腕時計を見ると、午後九時半。
「もう寝ちゃったの? それとも、まだ帰ってない……?」
部屋の中は異様なほど静かで、人の気配がしない。
一日中駆け回って汗だくになった彼女は、そのままバスルームへと向かった。
三十分後、濡れた髪を拭きながら出てきても、
和樹の姿はどこにもなかった。
眉をひそめる。彼がこんなに遅く帰らないのは記憶にない。
そっと彼の部屋の前まで行き、半開きの扉を押し開けた瞬間――
彼女はその場に立ち尽くした。
壁一面に飾られていた写真や絵はなくなり、
カーキ色の寝具を整えたベッドの上には、何の気配もない。
目の錯覚かと何度も目をこするが、
部屋はやはり空っぽのまま。
バスタオルを放り投げ、駆け込んだ彼女は、
引き出しやクローゼットを手当たり次第に開けた。
……何も、ない。
「……引っ越した……?」
その考えがよぎった瞬間、心拍が跳ね上がる。
彼女は他の部屋へと走った。
書斎の本棚は半分以上空っぽになっており、洗面所には自分の持ち物しかなく、
リビングのラグやぬいぐるみは消え、
キッチンの彼が買ってきたカップも跡形もなかった。
確認するごとに、心が沈んでいく。
最終的に、アパートから和樹の痕跡が完全に消えていると知ったとき、
頭の中で鈍い音が鳴り響いた。
呆然とした表情で息を荒くし、
手を机の縁に置けば青筋が浮かぶ。
混乱した視線の先にあったのは、
カレンダーの「0」の文字だった。
だが、それ以上に目を引いたのは、
その日付の下に黒いマジックで書かれた一行――「別れよう」
その言葉を見た瞬間、凛子の目から色が消え、カレンダーをもぎ取り、震える手で握りしめた。
「……別れるって……? 和樹が……?」
胸の奥が激しく痛む。
電話を取り、彼の番号を押す。
長いコール音のあとに返ってきたのは、冷たく無機質な音声。
「電源が入っていないか、電波の届かない場所にいるため――」
まるで冷水を頭から浴びせられたようだった。
彼女は慌てて上着を羽織り、スリッパのまま外へ飛び出す。
タクシーをつかまえ、向かった先は――大学の男子寮。
門限前に滑り込むように到着し、通りがかった男子学生を呼び止めた。
「ごめんなさい、508号室の高橋さん……呼んできてもらえませんか!?」
十分後、寮の扉が開き、凛子の心臓が一瞬高鳴る――だが、出てきたのは佐藤陸だった。
ふだんは堂々とした凛子が、乱れた服に焦った目で立っている様子に、彼は目を見開いた。
「……?どうしたんですか……?」
「和樹を呼んで!今すぐ!」
佐藤はさらに驚いた様子で言った。
「……和樹、いないよ?
今日……フランスに向かう飛行機だったはずだけど……知らなかったの?」
「……飛行機……?」
その言葉に背を向け、彼女は校門を飛び出した。
成田空港へ向かうタクシーの中。
再び電話をかけたその瞬間――つながった。
一気に安堵した彼女の心は、噴き上がる怒りで、燃え上がった。