あの電話以来、和樹は意識的に凛子を避けていた。
エレベーターや廊下で偶然すれ違う以外、彼女の存在を感じることはほとんどなかった。
顔を合わせれば、凛子はいつも先に挨拶してきたが、和樹は目もくれず、無言でその場を離れた。
彼の冷淡な態度に、凛子の目に浮かぶかすかな陰り――それを背に見ながらも、和樹の足は止まらなかった。
そんなふうにして、距離を保った日々が続いていた。
インターンもそろそろ終わりを迎え、新学期の準備も始まり、和樹は多忙な毎日を送っていた。
日々は充実していた。
唯一、頭を悩ませていたのは、向かいの部屋に住む“元カノ”の存在だけだった。
その夕方――秋風が少し肌寒く感じ始めた時期、和樹は一人でショッピングモールへと出かけた。
新しいジャケットを何着か選び、会計を済ませたあと、路地を抜けてタクシーを拾おうとした。
キャップを目深にかぶり、イヤホンを耳に差し、音楽に没頭していた彼は――自分の背後に迫る二人の大柄な外国人の存在に、まったく気づいていなかった。
狭い路地の奥へ進んだところで、突如、目の前にギラリと光る刃物が現れた。
和樹が気づいたときにはすでに遅く、彼は強盗に遭っていた。
人通りのない薄暗い道、冷たいナイフの先端が皮膚をかすめる感覚に、抵抗する気力など湧くはずもなかった。
無言で財布とショッピング袋を差し出すと、二人の強盗はそれをひったくり、そのまま背を向けて走り去っていった。
寒さで冷えた石壁に背を預け、和樹の背中は汗でぐっしょり濡れていた。
足元から崩れそうになる体を支え、呼吸を整えようとしていたその時――視界の端を、一陣の風のように誰かが駆け抜けた。
――また何かあったのか!?
不安が胸をよぎり、顔を上げる。
目に映ったのは――凛子だった。
彼女は、強盗を追っていた。
落ちこぼれた一人に追いつくと、肩をつかみ、和樹の財布を力づくで取り戻した。
罵声を上げる強盗に、凛子は抵抗した。
そこへ仲間が戻ってきて、三人が乱闘状態となった。
和樹はその光景に凍りつく。
二人の手には、まだあの凶器が握られていた。
――危ない!
とっさに、彼は巷口の方向へ向かって叫んだ。
「 Police ! Par ici !(お巡りさん、こっちです!)」
その大声に、強盗たちは一瞬たじろいだ。
視線を交わし、逃げる気配を見せた。
だが、凛子はなおも手を離さなかった。
ナイフを持った男の腕を必死で掴み、食らいついていた。
パニックに陥った男は、ナイフを振りかざし――その刃は、彼女の腹部に深く突き刺さった。
凛子の全身から力が抜け、手が離れる。その隙に強盗たちは彼女を蹴り飛ばし、逃げ去っていった。
目の前で、凛子が倒れ込む。
和樹の心臓が、重い音を立てて胸を打った。
駆け寄ると、彼女の両手は腹を必死に押さえていた。
だが、指の隙間から溢れ出る血が、止まることなく染み出していた。
「……っ」
意識が遠のきかける中で、彼は震える手でスマホを取り出し、救急番号を押した。
彼女の顔は真っ青で、唇すら青白い。
必死に目を開けようとする彼女の表情に、息が詰まる。
――絶対に眠らせちゃダメだ!名前を何度も呼ぶ。
叫ぶようなその声は、恐怖で震えていた。
彼女のカバンに入っていた新しいスカーフを取り出し、傷口に押し当て、止血を試みる。
時が止まったようだった。意識は、冷たい闇に沈んでいく。
そのとき――サイレンの鋭い音が響いた。
和樹は飛び起き、サイレンの方向に向かって全速力で駆け出した。
腕を大きく振り、必死に救急車を誘導する。
彼の姿が遠ざかっていく、凛子の意識は薄れていく。
耳の奥で、自分の心音が聞こえる。
ドクン、ドクン。そして――すべての力が抜けていった。
最後に、ほんのわずかに唇が動いた。
まるで、微笑んだかのように。
そして彼女は、そっと目を閉じた。