凛子の腹部を刺した刃は、幸いにも致命傷には至らなかった。
加えて迅速な救急搬送のおかげで、命に別状はないと医師から伝えられたとき、
和樹の全身から一気に力が抜け、思わずその場に膝をつきそうになった。
両親に状況を電話で伝えた後、病室へ戻る。
ベッドに横たわる彼女はまだ昏睡状態のまま、血の気の引いた顔が布団に埋もれていた。
彼は静かに息を吐き、深く胸を撫で下ろした。
机の上には、血の付いた財布とショッピングバッグが置かれていた。
その鮮やかな赤が目に飛び込み、路地裏でのあの凄惨な光景が鮮明によみがえる。
そして、いま目の前にいる生気のない彼女の姿が、それと重なって胸を強く締めつけた。
――どうして彼女が、あの路地裏にいたのか?
あの夜、自分が買い物帰りに強盗に遭ったのは偶然だ。
だが、どうして彼女が、そんな人通りの少ない場所に現れた?
――まさか、ずっと自分のあとをつけていた……?
まったく気づかなかったことに、彼はぞっとした。
その疑問が頭を離れぬまま、時間だけが過ぎた。
やがて、父と母が急ぎ病院へ到着。
話し合いの末、母が病室に残って凛子の看病を続け、父が和樹を連れて警察へ赴き、被害届を出すことになった。
事情聴取と書類手続きを終えた帰り道、彼らは病院から、凛子が目を覚ましたとの連絡を受けた。
急いで戻り、病室の前で一度立ち止まる。
母が和樹に目配せし、「あなたが行きなさい」と促す。
父はついて行こうとするが、母に袖を引かれて思いとどまり、無言のまま、不安げに息子を見送った。
病室の扉を開けたその瞬間――凛子の視線が、一直線に彼へ注がれた。
まるで、その瞬間をずっと待っていたかのように。
その熱のこもった目に、和樹は居心地の悪さを覚え、視線を床に落とす。
黙ったまま、ゆっくりとベッド脇まで歩を進めた。
「……ありがとう」
低く、真摯な声だった。
彼が立ち去ろうとしていると感じたのか、凛子は反射的に体を起こそうとし、横の椅子に手を伸ばした――その瞬間、腹部の傷が引き攣れ、顔が歪み、鋭い痛みに息を飲んだ。
「……っ!」
苦悶の表情に、和樹はギョッとして振り向いた。
「大丈夫か!?傷が開いたのか?今、看護師呼ぶ――」
「待って!」
凛子がかすれた声で制した。
「大丈夫……ちょっと動かしただけ。
痛いだけで……」
その言葉に、和樹は戸惑いながらも動きを止めた。
「……本当に大丈夫か?」
彼女は小さく頷き、再び身を沈め、息を整える。
指先でベッド脇の椅子を指し示すと、和樹はしぶしぶ座った。
自然と彼の目が彼女の腹部へと向く。
シーツの下に血がにじんでいないかを確認し、ようやく胸をなで下ろす。
命の危機を乗り越えた凛子。
再び彼に“見てもらえる”という事実だけで、心の奥にわずかな満足が生まれていた。
それがどれほど愚かでも、今の彼女には、それだけで十分だった。
その時、不意に目が合う。
彼の顔に、戸惑いの表情が浮かんでいた。
「……死にかけたってのに、よく笑えるな」
彼の皮肉に、凛子は心の奥の本音を隠し、穏やかに答えた。
「だって……和樹がようやく、私を見てくれたから。
……この数日、一度も目を合わせてくれなかった。
すごく、悲しかったんだよ」
それを聞いた和樹は、言葉を失った。
「……たかが財布や服だよ?
なんで……あんな奴らを追いかけたりしたんだよ。
あの刃物が、ほんの数センチ違ってたら……君は……」
その声には、自分でも気づかぬほどの動揺と恐れが滲んでいた。
だが凛子にとっては、それすらも温もりに感じられた。
その口調に、愛された過去が重なる。
彼女の唇に、微かな笑みが戻る。
「……それって、心配してくれたってこと……?」