「死ぬ覚悟はできたようだなぁ、嬢ちゃん」
「戯れ言を。
「その意気や良し……ってやつだな。いいぜ、せめて末期の祈りを捧げる時間ぐらいは待ってやる」
目の前で大剣を誇示し、剣歯をむき出しにするオーガ。
嗜虐的な笑みを浮かべ、本当に祈りを捧げる時間を待っているようだ。
カイラは、その地上派遣軍の斥候と遭遇し、大部分は倒すか引き離すかできた。
そこまでは良かったが、このオーガは例外であり計算外。
死。
それがちらつく中、山を下り、森を抜け、ここまでやってきた。
里からも、かなり離れている。
これ以上、逃げる理由も意味もない。わずかな可能性に賭ける。
白皙の美貌と赤い瞳に決意を宿し、狼の耳をぴんと立てて飛びだそうとした――その瞬間。
カイラの目の前を、不思議な男が落下していった。
いったい、なにが起こったのか。
命懸けの、この状況で。
なぜ?
カイラは言葉を失う。男が普通の格好をしていたならば、ここまでではなかっただろう。
神秘的な水の衣をまとって天から現れた男は、奇妙な。けれど、仕立ての良さそうな服を身につけ、魔道書の類だろうか。薄い銀板を抱えていた。
しかも、肩には妖精のような少女が乗っている。
カイラの耳と尻尾が、無意識に動いた。わけが分からない。
着地の様子から一目で分かる。戦闘の素人だ。
それなのに、カイラが連想したのは、世界が魔に満ちるとき神が遣わすという
かつての邪神戦役に参戦したことから、月影の里にはその伝承が残っている。
其は天から降臨し、見慣れぬ衣装を身につけ、この世界に存在せぬ言葉を操るのだという。
その通り、伝承だ。ただの言い伝え。おとぎ話。
「やべぇ。今、攻撃されたら死んでたんじゃ? 石500個も払ってるのにステージ復帰するとき無敵時間がないとか、ゲームバランスどうなってるんだよ!」
「そのための《渦動の障壁》ですよ!」
それなのに、まったくわけの分からない話までしていた。
おかしい。
感情の振幅が激しすぎて、カイラは危機的状況を一瞬忘れた。
だが、総じて優れた武人であるオーガがこの機を逃すはずがない。なおも、がちゃがちゃと言い合っていた石板の男へ得物を振り回す。
「なにをしているの! 逃げて!?」
これから確実に訪れるだろう惨劇に、カイラは
「やべぇ。今、攻撃されたら死んでたんじゃ? 石500個も払ってるのにステージ復帰するとき無敵時間がないとか、ゲームバランスどうなってるんだよ!」
「そのための《渦動の障壁》ですよ!」
上手い具合に落下の衝撃も緩和してくれたし、《渦動の障壁》様々だな!
タスクキルされた《セーフティゾーン》から放り出された俺は、なんとか即退場を免れることができた。
それもこれも、突然過ぎて誰も反応できなかったから。
動くなら、今しかない。
「エクス、鑑定!」
「ええ? 鑑定ですか!?」
「まずは情報だろ!」
言い争っている場合ではないと、妥協してくれたのか。タブレットのカメラをオーガへ向けた俺に従い、肩の上のエクスがホームズみたいな格好に着替えて《初級鑑定》を実行。
カシャリとシャッター音がして、結果を告げる。
「鑑定終了。――26,000GPです」
「は?」
「あの仮称オーガの市場価値は、金貨2万6千枚だそうです! オーナーのバカ!」
結構高そうということしか分からない……って、《初級鑑定》って、そういう!? 初級じゃ、物の値段しか分からないってことかよ!
便利だけど、違う違う。そうじゃない。
バカって言うエクスがちょっと可愛かったけど、そうでもない。
やべえ……。
「黒髪の
ようやく我に返ったのか、オーガが渋い声でつぶやいた。
つぶやきだ。俺と話をしたいわけじゃないらしい。
「二兎を追う者は一兎をも得ずってな」
その証拠に、たった一人であっさりと決断を下した。
路傍の石でも見るような。つまり、なにひとつとして価値を見いだせないという瞳と口調で、オーガはグレートソードを振りかぶる。
「とりあえず、死んどいてもらおうか」
無造作で、手慣れた。
単純作業のような暴力が生まれる。
「なにをしているの! 逃げて!?」
背後から、ケモミミくノ一さんの悲鳴が聞こえてきた。
その声に突き動かされるように、全力で後退。トラックに轢かれた経験が生きたのか、学生時代以来の反応と速度が出せた……けど、無理っ。アラフォー社畜に求めすぎないで!?
気付けば、巨大な鉄塊はもう目の前。
偶然も奇跡も起こることはない。
俺を粉みじんにするグレートソードが、シャボン玉のような《渦動の障壁》に衝突。そのまま貫き通す……ことは、できなかった。
「……あれ?」
渦の流れにグレートソードが跳ね返され、オーガは大きくバランスを崩す。
「なんだぁ? 見かけ以上の強度じゃあねえか」
「あっぶなぁーーー」
衝撃までは完全に消しきれなかったようで何メートルか吹き飛ばされたが、無傷と言っていいだろう。
「だが、無敵ってわけじゃあ、なさそうだ」
見れば、《渦動の障壁》にはひびが入っていた。ぱりんって割れるタイプのバリアだったかぁ。
「俺の国には、完璧な物はいつか壊れるって信仰があるんだよ」
「そいつは至言だ。まどろっこしいがな」
オーガのタゲは、完全に俺へと移っていた。まあ、あれだけヘイト稼げば当然だよね。
それなのにというかなんというか、俺がどうするか分からず手出しもできないようだが、ケモミミくノ一さんは逃げようとはしなかった。
ありがたい……と言っていいのか、どうなのか。
「《渦動の障壁》を最大強化したエクスに感謝しつつ、オーナーは次の手を考えてください!」
「そりゃあ、もう……」
エクスにはパッシブで感謝してるから、省略。
「こうなったらやるしかねえだろ! エクス、《吹雪の|飛礫《つぶて》》を5割強化で!」
「
俺とエクスの目の前。ひびの入った《渦動の障壁》の向こうに、野球ボールぐらいの氷が10……20……無数に出現した。
プラス50%でこれか! やれる!
「なんて……魔力量なの……」
「行けっ!」
驚愕の声がきこえているが、それどころじゃない。
オーガはその巨体からは想像できない俊敏さで、咄嗟に回避行動を取る。
「させませんよっ」
「曲がっ、ぐっ、がああっっっ!!」
雪女風の衣装に変わったエクスがなにかしたのか、それともそういう機能があるのか。こぶし大の氷塊が、すべてオーガに着弾した。
盛大に靄がかかり、その向こうから苦鳴が聞こえた。
動画サイトで見た、マシンガンの試写動画を遙かに超える迫力。この威力に対抗できる生物なんているはずが……。
はずが……。
「うげぇ……」
マジか……。マジか……。
「あの魔力量で倒しきれないなんて……」
ケモミミくノ一さんが、俺の気持ちを代弁してくれた。あ、魔力とか分かるんですね。さすが、耳と尻尾が生えてるだけのことはある。
「いえ、今ならっ」
靄の向こうに見えるオーガのシルエットへ、ケモミミくノ一さんが疾走した。ほとんど四つん這の低い姿勢で。
白い綺麗な髪が踊り、同じ色の装束がはためく。
無謀とは言えない。ダメージの程度は分からないが、オーガも決して軽傷ではないはず……。
「ああ……。生きてる、生きてるな、オレは」
なのに、普通に喋ってやがる。
化け物かよ。化け物だったよ。
その怪物へ向かって、ケモミミくノ一さんが跳躍。
「キエェェイッッ」
両手で構えた忍者刀を、オーガの角の間に突き刺した。
「邪魔だ、女」
しかし、角度が悪かったのかなんなのか。額の肉を浅く削っただけ。オーガはハエでも相手をするみたいに、軽く振り払った。
ケモミミくノ一さんは、空中で華麗に一回転して着地。怪我はしていないようだが、整った顔は悔しそうに歪んでいた。
「逆境のオーガを舐めるなよ」
「くっ……。これがオーガの
死にかけに強いとか、そういうスキルみたいなのがあったの!?
「オーナーが、微妙にけちるから……」
「でも、そんなに派手にばらまけないだろ! さっきので5万だぞ。一発でほぼ家賃じゃねえか」
「命には代えられないって、さっき言ってたばかりじゃないですかぁ!」
「悪かったよっ」
しかも、俺の金じゃなくてエクスの配布石だった。生涯年収稼ぐという目標に囚われて、損得勘定を見誤ったか。
だが、後悔しても遅い。
「咆哮しな、《雷切》」
血塗れになったオーガが振り上げた、グレートソードの切っ先。
そこから、眩い光が放たれた。
雷光が大気を斬り裂き、一直線に迫り来る。
「オーナー? どうします!?」
「大丈夫。雷ならシミュレート済みだ」
若い頃に妄想でな!
「エクス、《覆水を返す》を」
「ええっ? あ、はい!」
対象は、《渦動の障壁》。
エクスも途中で気付いたようで、俺の意思をしっかり反映させてくれた。
水のシャボン玉が淡い光を放ち、完全に浄化された水と雷光が衝突する。
しかし、不純物がなくなった水は電気を通すことなく、雷光は地面へと吸収されていく。
靄が晴れ、静寂が戦場を支配した。
それを破ったのは、傷だらけオーガの楽しげな声。
「カカカ。兄ちゃん、地上の呪い師かい。どんな手管で、オレの《雷切》を防いだのやら。皆目見当もつかねえな」
「純水は電気を通さないんだよ」
恐らく通じないだろう知識を披露しつつ、内心舌を巻いていた。
全身傷だらけなのにこれとか。どんだけレベル高いんだよ、このオーガ。やっぱ、ゲームバランスおかしいって。
「それで、次はどんな手品を見せてくれるんだ、呪い師?」
「まだやるつもりかよ」
「あったりめえだろ? こんな中途半端なところで終わらせてたまるかよ」
「もう充分です。オーガ! あなたの相手は、この――」
「女は、すっ込んでろ!」
突然の大喝。理不尽な憤怒に、ケモミミくノ一さんが思わず首をすくめる。いや、それは俺も同じだ。
そういうの止めろよ。俺まで怒られてるみたいじゃないか。
そう思っていたら、勝手に体が動いていた。
「まったく水を差しやが……って、あぁ?」
無造作に、オーガの傷だらけの懐へ入り込む。なんでもないように。そうするのが当たり前かのように。
「エクス! 《渇きの主》を全ぶっぱで!」
「あっ。はい! 《渇きの主》、《渦動の障壁》を解除して実行します!」
え? 解除しなきゃいけないの? そういう仕様?
俺の戸惑いを置き去りにして、渦の壁は消え去った。オーガ相手に、無防備な体を晒す羽目になる。
だが、混乱しているのは、俺だけじゃない。
オーガも、厳つい顔をぽかんとさせている。そりゃそうだ。普通、敵の目の前で防具脱いだりしないよな。
ダメージチャートのあるTRPGだと、たまに脱ぎたくなるけど。
「ええいっ。やるしかねえ!」
大剣を握ったオーガの腕に、右手で触れた。流れる血のぬめりと、岩のように堅い筋肉の感触。改めて、やばい相手だと身震いする。
だが、もう、準備は整った。俺の意思とは関係ない。
直後、俺の掌に青い光が点る。でも、魔法を使ってるような感覚はなかった。当然だ。エクスにチャージされた石を消費しているだけなんだから。
だから、結果を見ることでしか実感は湧かない。
そして、それはすぐに訪れた。
一瞬で丸太のようだったオーガの腕が老人のように萎れ、枯れ木同然になる。その範囲は、どんどん広がっていった。保持しきれず、大剣が地面に突き刺さる。
「やりやがッ」
オーガは、一瞬悩んだ。
距離を取るか、俺を殺すか……ではない。障壁を解いた俺は、本当に無防備なのか。なにか、切り札を隠しているのではないか。
悩んで、無事な左手で脱水され続ける右腕を引っこ抜くことを選んだ。
血が舞った。
「ある意味予想通りだけど、本当にやるかよっ」
それを見届け、俺は全力で後退った。逃げたんじゃない。戦略的撤退だ。嘘だ。ガチで逃げた。やべえよ、こいつ。
「……ちっ。こいつは失態だな」
距離を取った俺と、足下のグレートソードに視線を向けてオーガは顔をしかめた。
最初に追っていたケモミミくノ一さんを完全スルーしているのは、いいことなのかどうなのか。
「地上の呪い師、名は?」
「
「ミナギか。オレは、ヴェインクラル。こいつを預けとくぜ」
と言って、突き刺さっていた《雷切》を残った手で引き抜いて放り投げる。
は?
グレートソードは地面から抜けてくるくると宙を舞い、俺の足下に再び突き刺さった。
え? え?
やべえ。まったく反応できなかった……。あっぶねえぇぇぇっっ……。
「次やるときに、
「俺の首は、俺のものなんだけどな。いや、首だけじゃないけど」
「はははっ。違いない!」
鬼の厳めしい顔にさわやかな笑顔を浮かべ、そのでかい体からは連想できない俊敏さで姿を消した。
ラグビーとかアメフトやったら、億単位で稼げそうな身体能力だった。
えええ……? 《吹雪の飛礫》と《渇きの主》でダメージ与えてこれ?
ただ、まあ、最初はこっちが逃げ出せればいいなと思ってたのに、相手を追い払えた。最高ではないけど、悪くない結果ではないだろうか。
……ん? 逃げ出せば……?
「あっ……」
「オーナー、どうしました? どこか怪我を?」
「体はなんともない……けど……」
しまった、今さら攻略法を思いついてしまったぞ。完全に舞い上がっていたらしい。
「初手でオーガ……ヴェインクラルに《渦動の障壁》を使って閉じ込めてたら、その間に逃げられたなって……」
「それは……」
倒れそうになったのでグレートソードに寄っかかりながら言った言葉に、エクスが絶句する。
「発動した瞬間に避けられるリスクはありますが……決まれば一発でしたね……」
少なくとも時間稼ぎにはなったよなぁ。
「ああ……。石もったいねえ……」
こうしてなんとか異世界……どころか人生初の戦闘は終わり。
俺は助けたケモミミくノ一さんのことなど完全に忘れて、赤字にうめいていた。