「結局要らなかったなぁ、《水域の自由者》」
「落ちずに崖を登れたからと言って、命綱が不要なんて言う人間はいないわ」
優しく下ろしてもらい、俺は久方ぶりに地面を踏みしめた。
その足跡は乾いているが、カイラさんのはもちろん違う。全身ずぶ濡れ……というわけではないが、膝から下を中心にぐっしょりと水分を含んでいた。
水中で自由に行動はできるが濡れないわけじゃないらしいな、《水域の自由者》。しかし、《水行師》として見たらアフターフォローは万全だ。
「カイラさん、ちょっとそのままで……《踊る水》」
マクロを実行すると服や肌から水滴が飛び出し、念じるだけで動かせるようになる。一方、余剰な水分を抜かれたカイラさんは元通りだ。
「これは……すごいわね。ありがとう」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
普通に対応しつつ、一瞬、『くノ一水』というフレーズが頭をよぎる。だが、慌てず騒がず脳内でBackSpaceキーを連打。同時に、操った水は崖下へと送り込む。
ふう……。
「オーナー、今、変なことを考えていましたね?」
「弁護士が来るまで、なにも答えないぞ」
「この場合、黙秘した時点で罪を認めているのと同じことになるのではないでしょうか?」
「こんなところにいられるか! 俺は帰るぞ!」
と、あえて死亡フラグを立ててみた……が。
「しかし、これはどういうことなのかしらね?」
カイラさんには通用しなかった。だよね、知ってた。
それでも往生際悪く、俺は圧縮水を解き放った後のことを頭の中でまとめていく。
お姫さまだっこされたまま、地下道から地上の神殿部分へ。
下ろしてくれるはずもなく、背負子に乗せ替える時間もなく、神殿の壁の隙間から外へ出て崖を駆け上った。カイラさんが。
俺は、ほぼ荷物。
それなのに、そんな状況に慣れつつある。
そんな自分が恐ろしい。荷物であってもお荷物ではないのが、唯一の救いだ。
やっぱり、最大の敵は自分自身だな。なにしろ、自分よりも信じられないものなんて他にない。
「オーナー、現実逃避もそのくらいにしません?」
「嫌だ! 現実が俺たちに、いったいなにをしてくれたって言うんだよ!?」
「落ち着いてくださ~い。現実あっての二次元ですよ~」
そんな優しく言ったって騙されないぞ。やっぱり、現実なんてクソゲーだ。
「
「あ、はい」
崖の上で下ろしてもらった俺は、嫌々。不本意ながら、崖下の様子をうかがう。
水が見えた。
崖の下――見渡す限り、たゆたう水が。
幻覚か。
「……いつから、水があると錯覚していた?」
「錯覚じゃないです。現実です」
「そこに気づくとは……大した奴だ」
俺たちは、押し寄せる水からいち早く逃げおおせた。
それはカイラさんの速さが足りまくっていたので、世界を縮めてくれたお陰。
要するに、水は止まらないどころか、さらに勢いを増して渦巻き……。
そして俺たちの眼下には、湖が出現していた。
って、いやいやいやいや。ないないない。それはない。
100トンとか、そんなレベルじゃないじゃん。神殿とか水没して見えなくなってるよ? マジでどうなってるんだよ、これ。
湖が出現しているというか! 君は!
「どう考えても、幻ではないわよねぇ」
カイラさんが、赤い瞳でいたわしそうにこっちを見る。
ほんとにね、なんでこうなったんでしょうね?
ここまでの事態は予想も望んでもいなかったので、推測ぐらいしか言えない。
「もしかしたら、地下水脈をぶち抜いちゃったのかも……?」
「こんな岩だらけの山中に、水脈なんてあるんですか?」
その推測も、
しばし、あーでもないこーでもないとろくでもない思考が渦巻くが、結論は出ない。というか、どうしようもない。
「とりあえず、オーガたちは出てこられないでしょうし、帰ります?」
「そうね。そういえば、そんな話だったわよね……」
地図に残る仕事をしてしまい、本来の目的を一時的に忘却してしまったようだ。
「驚きが強すぎて、冷静さを欠いてしまいそうだわ」
「分かります」
俺は、キリンのようにうなずいた。
「でも、長老に説明して納得してもらえるかしら……?」
「あれなら、実際に見てもらうしか――」
「おまえ、すごいな! やるな!」
ショートカットで、耳の先が尖った二頭身の妖精? 精霊?
そんなファンタジー生物が、目の前に現れた。
カイラさんですら反応できないほど、唐突に。
「今度は、いったいなに!?」
それよりも、これは……。
「エクスとキャラ被りしてる……だと……?」
「ええっ? なにを言ってるんですか!?」
エクスが、なぜか驚いたように抗議する。
「全然これっぽっちもまったくパーフェクトに別キャラですよっ」
早口で言い募るエクスだが、それはほぼ認めてるってことじゃないかな?
だって、新しいほうのエクスも渦っぽい水の衣を着てて、髪も青いぞ。
「おー。もしかして、アタシの親戚かー?」
「全然っ、パーフェクトに赤の他人ですよっっ」
「だよなー。おまえ『領域』の匂い、全然しないもんなー」
休めの姿勢で天真爛漫に、それでいて豪快に笑い飛ばした。
それでも、サイズがサイズなので可愛らしい。
「もしかして、ウンディーネ……水の精霊……なの?」
「おー、そうだぞ! よく知ってるな」
なるほど、ウンディーネ。
ある意味で定番と言えば定番だが……いったいどこから?
「こんなにたくさんのお供えをして、偉いぞ。お陰で、昔の姿を取り戻せたぞ」
「お供え?」
「うん。綺麗な水だったぞ。アタシたちの水と一緒だな! ポーションの材料にしたりしたら、すごいことになるぞ!」
へー、そうなのかー。
圧縮水……というか、一度にあり得ないほど特別な水が流れ込んだことで、力を取り戻したってこと?
もう、驚きすぎて脳が働かない。
ここって、昔はカルデラ湖みたいなものだったんだろうか? そして、その湖底に神殿は存在していた……?
ファンタジーかよ。
ファンタジーだよ!
「つまり、元はこんな状態だったと?」
「そうだぞ。昔はアタシ以外にもいっぱいウンディーネがいて、おもしろおかしく過ごしてたんだ!」
「ミナギくん、恐らく過去に発生した邪神戦役で」
「だなー。湖の水がポーションの原料になるんで、まっさきに呪われてなー。慌てて逃げたんだけど、水が足りなくてずっと出てこられなかったんだー」
災害を引き起こしたわけじゃないこととか、意図せず救うことができたこととか、いろんな良かったがない交ぜになって、気が抜けそうだ。
でも、めでたしめでたし……には、ちょっと早いか。
「時間はかかるけど、昔みたいに楽しくなるぞ。100年ぐらいで!」
「あー。なんか、地下に穴空いてるんだけど、そこは大丈夫?」
ずっと
水不足が解消されたら攻めてこなくても済む? いや、地下が水不足かどうかはしらないけど。
「そうか。じゃあ、その辺に渦でも作って漏れないようにするぞ!」
できんのかよ。すごいね、精霊。
「でも、それには魔力が足りないなー」
「えええええぇぇぇぇっっっ……?」
「オーナー、今、死にそうな声が出てましたよ?」
出すよ。そりゃ、出すよ。
魔力と言えば、石。石と言えば、イノセンスぐらいそれは命。いや、それ以上。石は、命よりも重たい……ッッ。
「魔力水晶がなければ、なんかマジックアイテムでもいいぞ」
「マジックアイテム……。無限シュークリーム?」
「剣ですよ、《雷切》!」
律儀にツッコミを入れてくれるエクスが愛おしい。
それはともかく、《雷切》。《雷切》かぁ……
「エクス、とりあえず出して」
「ミナギくん、いいの?」
「まあ、さすがにヴェインクラルも生きてはいないでしょうし」
仮に万が一もしかしたらあり得ないことだが生きていたとしても、オーガの侵攻路は潰した。もう、あいつと出会うことはない。
ないのだ。
「《ホールディングバッグ》、ディスペンサーモードで起動します」
エクスが俺の求めに応じて、《ホールディングバッグ》からグレートソードを取り出した。虚空から刀身が伸びて、地面へと突き刺さる。
「おー。こいつは業物だな! もらっていいのか?」
キラキラと瞳を輝かすウンディーネ。
これは、ダメとは言えない……。
「ああ。持ってっていいよ」
「オーナー、最後に《初級鑑定》を……」
「捨てたカードに未練を持つな」
かつてない強い口調で、エクスの言葉を遮った。
気持ちはありがたい。
だけど、ここで金額を知ったら決意が鈍る。
「じゃあ、もらっていくぞ。ありがとな!」
俺の逡巡を知ってか知らずか、二頭身のウンディーネはうんしょとグレートソードを引き抜くと崖下――湖へと消えていった。
「恐らく、金貨2万枚はするはずのマジックアイテムをあっさりと手放すなんて。さすが、
「ま、まあね。ははははは……」
金貨2万枚を日本円換算とかしないぞ。
絶対にしないぞ。
……最低でも、1億かぁ。
「あ、オーナー。実績解除の通知が来てますよ」
「……なんか、上手いことやっといて」
でも、あれだよな。
売却する伝手もなかったし、ここまで高額だとコネがあっても面倒くさそうだし。
里の安全が買えるんなら安いものだよな。
……最低で、1億かぁ。
「あー。ここのような土地を“精霊の聖地”と呼ぶそうですが、そこを復興させた報酬に宝箱が贈られるそうです」
「宝箱……?」
「はい、出しますね」
恐らく、《ホールディングバッグ》に贈られてきたのだろう。そこから出すときと同じように、崖の上に宝箱が出現した。
赤いなにかの金属製で、金銀宝石で装飾されている。これだけで一財産じゃないだろうか?
「宝箱は、一定時間で消えるようです」
「ちっ」
「いったい、なにが入っているのかしらね」
「気になるなー!」
「あなたには、これっぽっちも関係ないです! というか、湖に消えたはずでは!?」
電子と水の精霊がわちゃわちゃやっているが、それはともかく。
思えば、異世界で初の宝箱。
というか、リアルで宝箱を開ける機会があるなんて思わなかった。
ごくりと、思わず喉が鳴る。
「オーナー。罠とか鍵とかはないですから、どうぞ」
「あ、ああ……」
かすれた声で返事をし、俺は震える手で宝箱に手を伸ばした。