「鉄のイノシシが、猛烈なスピードで走っているわよ!?」
「あはは。いいリアクションだなぁ」
カイラさんの地球滞在記は、お約束で――
「しかも、中に人が囚われているじゃない!」
「ちょっ、マフラーしまって!?」
――始まらなかった!
ギルシリスという名のマントを伸ばして、鉄のイノシシに捕まった人の救出を試みようとするカイラさん。
普通に使いこなしてるなぁ。
……ではなく、ニンジャの動体視力舐めてたな……でもない。
正面に回り、抱きつくようにしてカイラさんを押さえる。
大型犬をなだめているような気分だ。
「あのミナギくん……?」
「あれは、ああいう乗り物で、食べられてるわけじゃないんで大丈夫」
夜の住宅街なので、幸いにして人目はない。というか、今、車とすれ違うまで他人にはまったく出会わなかった。
それでも人に聞かれたい会話ではないので、自然耳元で小声になった。
「いえ、あのね……」
「落ち着いて。お願いだから」
「分かった。分かったから、離してちょうだいっ」
余裕をなくした様子で、カイラさんが俺を突き飛ばすようにする。抵抗もできず……というか、カイラさんのほうが強いので、自然と離れることになる。
耳はぺたんとしてるけど、尻尾はぶんぶん揺れていた。
珍しい状態だ。
勘違いしたのが、恥ずかしかったのかもしれない。
とにかく、暴走は止まったようでほっとする。
「音声だけしか聞こえませんが、楽しいことになっているようですね!」
「愉悦を感じられても困るんだが」
ブルートゥースのヘッドセット越しに聞こえるエクスの声に、俺は対照的に無愛想に答える。
正直、そんな余裕はなかった。
「とりあえず、カイラさん。こっちのルールに従って動けば、危険はない。このことは、憶えておいて」
「ええ……。英雄界は、モンスターのいない平和な世界なのよね……」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
それから深呼吸をし、表情をきりりと引き締めた。
うん。いつものカイラさんだ。
「ごめんなさいね、買い物に行くというだけでこの様で」
「買い物なら、ある意味konozamaは当然だけど……」
「オーナー、そのネタは通じないと思いますが」
だよねー。
地球に戻って気が緩んでるのかもしれない。ちょっと自重しよう。
「それでね、ミナギくん」
「ん? なに?」
手袋の上から指輪を嵌めた左手を、そっと差し出す。
「さっきのようなことがないように……ね?」
「あ、うん」
手を。
手を握れと……?
こういうときに限って、エクスが無言だ。
ええいっ。
このまま躊躇していると、お姫さまだっことか言われかねない。もちろん、俺がされるほうだ。
うろたえない。
アラフォーにもなって、この程度でうろたえないっ。
「それでカイラさんが落ち着くのなら」
「べ、別にそういうことではないのだけど?」
と言いつつも、カイラさんは一歩距離を詰めてきた。
そして、俺が翻意する前にとぎゅっと手を握る。
向こうから言ってきたんだから、セクハラじゃないよね?
「それじゃ、買い物を続けましょう」
大丈夫みたいだ。
カイラさんの言葉に従い、俺たちはゆっくりと歩き出す。
「それにしても、道路は完全に舗装されているし、家も全部立派なのね……」
今では夕闇に包まれている住宅街。
静かだけど、対照的に家々からは明かりが漏れている。
カイラさんにとっては、それこそ異世界ファンタジー。いや、SFにも等しい光景だろう。
同時に、さっきまでは、周囲を見回す余裕もなかったということなのかもしれない。
「俺は、あの里も好きだけどな」
「それは嬉しいけれど、不便なところだらけよ」
隠れ里だもんな。
最低でも、本来の取り分ぐらいは貢献できるといいな。
「あ、先に言っておくけど、料金は全部俺が払うから。変な遠慮はしないで、好きな物を買うようにして」
「それはさすがに……」
勝手についてきてしまって、そのうえ……ということなんだろうが、それじゃ市場調査にならない。それに、こっちへ来たことを気にする必要もない。
その辺を説明し、渋々納得してもらったけど……どうなるかまだ分からないな。
こっちから、積極的にかごへ入れていくぐらいのつもりでいたほうが良さそう。オペレーション田舎のおばあちゃん、スタートだ。
というわけで、ようやくコンビニに到着した。前に水を仕入れたのは別のコンビニだ。
「随分と……見通しのいい店ね」
「そりゃ、ガラス張りは珍しいか」
売り物リストにひとつ加わったが……さすがにこのサイズのは仕入れが難しいな。運ぶのは《ホールディングバッグ》で楽々なんだが。
「それじゃ、入るよ」
手を離し、先に自動ドアをくぐる。
店の中に一歩入って振り返ると……カイラさんが妙に真剣な表情をしていた。
「重さ……。いえ、ある程度の大きさの物が所定の位置についたら扉が開く仕組みかしら。どんな魔法を使っているのか、ちょっと想像もつかないわね……」
魔法じゃないんだよなぁ。
まあ、この辺は俺が夜勤してる間に、エクスから聞いてもらおう。
「今、オーナーから仕事を押しつけられた気配がしました」
鋭いな。
「承認欲求が満たされます!」
喜んでしまわれた。
どうしよう? だからって全面的に任せると、俺が堕落してしまう。
いやでも、代わりにSNSとかやられても困るよな……。
「それで、ミナギくん。買い物はどうすれば?」
「ああ、食べ物はこっちだから」
コンビニに入ってすぐ左に曲がり、雑誌とサプリの類はスルーしておにぎりや弁当の棚へ。
「意識を集中すると、文字の上に重なるみたいな感じで意味が分かるようになるから」
近くに誰もいないのを確認してから、ささやくように伝える。
「ええ。やってみるわ」
真剣な表情でおにぎりのパッケージを凝視するカイラさん。
かわいい。
実際、今後ろを通っていった男子高校生もちょっと見とれてたし。
とりあえず、普通に見えているみたいだ。
知り合いには《リフレクティブディスガイズ》の効果がないから、今、カイラさんがどんな姿に見えているのか分からないんだよな。
スマフォで写真撮っても、俺やエクスじゃ駄目みたいだし。
ファンタジーだよな。
「読めたのだけど……梅干しって、どういう食べ物なのかしら?」
「梅の実を塩とかで漬けたもの……かな? 酸っぱくて、ご飯に合うよ」
「そもそも、米というものを口にしたことがないのよね……」
そういえば、そうだったな。
「おかかというのは?」
「かつお節……魚を干した……わけじゃないんだけど、加工したものに醤油という調味料で味付けしたものだな。しょっぱくてご飯に合うよ」
「明太子というのも、魚かしら?」
「それは魚の卵を辛味のある調味液につけたもの……で良かったはず」
「濃いめの味付けの物が多いのね」
一応納得はしてくれたが、味が想像できず決め手に欠けているようだ。
「じゃあ、もう、全部買おうか」
フィルム包装のおにぎりは避けて、それ以外のおにぎりを一種類ずつかごへ入れていった。
「ミナギくん、そんな手当たり次第に……」
「残ったら、帰ってから俺も食べるから」
ちょっと高いけど、気にしない気にしない。なにせ、まだ石は3万個以上あるんだし。金貨も一杯あるし。
ついでに、ハンバーグ弁当とスパゲッティも買っていこう。ナポリタンだし、パスタじゃなくてスパゲッティでいいだろう。
「音しか聞こえませんが、オーナーが暴走している気配がします」
エクスのツッコミに理性を取り戻しかける……が。
我に返った時間は短かった。
「これは読まなくても分かるわ。シュークリームね?」
「うん。こっちのほうが種類は多いよ」
道順に進んでいくと、次はスイーツコーナー。いつからだろう、デザートではなくスイーツと呼ばれるようになったのは。
そんなどうでもいい疑問は、シュークリームを手にして天使のように微笑むカイラさんの前に雲散霧消した。
尊い……。
なので、シュークリーム以外にもエクレアとかプリンとかゼリーとか手当たり次第に購入。そろそろ、かごがいっぱいになってきた。
だが、俺の買い物フェイズは終了してないぜ。
というわけで、ペットボトルのお茶やコーヒーなんかも買い、より馴染み深いだろうパンもいくつかかごへ追加してレジへ。
「ミナギくん、ちょっと買いすぎではない……?」
「あと、からあげも。プレーンとチーズで」
ホットスナックのコーナーで目に付いたからあげも、ついでに購入。店員さんには悪いけど、これも仕事と諦めてもらおう。
それにしても、これだけ買っても課金カード一枚分にもならないとはな!
「ミナギくん、私が持つわよ」
「それはさすがに世間体が」
「じゃあ、ひとつずつね」
大量すぎて、ふたつになってしまった買い物袋。ドリンクが入った重いほうの袋を持とうとするカイラさんをなんとか押しとどめる。
「私のほうが適任だと思うのだけど」
「それはさすがに世間体が」
意地があんだよ、男の子にはな!
なんとか重たいほうは死守し、代わりにからあげを出してもらった。
紙パックに入っていて、爪楊枝が付いていて歩きながらでも食べられるのだ。
買い食いなんて、いつ以来だろうか。
そんなことを考えながらひとつ口に放り込むと、チープだけど強烈な味が口いっぱいに広がった。
うん、こうでなくっちゃな。
「カイラさんも、ひとつどう?」
どこの部位だか分からないからあげを、爪楊枝に刺してお裾分け。
一瞬驚いたような表情を浮かべたけれど、尻尾を揺らしてぱくっと
「あら、美味しい。さっきご飯を食べたばかりなのに、いくらでも食べられそうよ」
「暗いから、脳が時間が経ったって誤解してるのかな?」
今さらながら、時差ぼけとか大丈夫だろうか? 海外行ったことないから分かんないな。《ホームアプリ》を使うときには気をつけないと。
「ふふっ。こうして歩きながら食べるのも楽しいわね」
「…………そうですね」
「もう、ミナギくん。また口調が戻っているわよ」
俺は答えず、ふと空を見上げる。
星が瞬き始めていた。
「英雄界にも星はあるのね」
「この辺は空気が綺麗じゃないから、そんなに見えないと思うけど」
「そんなことはないわよ。月も綺麗だわ」
カイラさんに月が綺麗と言われ、どきり……とはしなかった。
夏目漱石がI Love Youを月が綺麗ですねと訳したという逸話は、明確なソースのない単なる都市伝説だと知っていたからだ。
それっぽいからと、無条件に信じてはいけない。少しでも怪しいと思ったら、調べてみよう。ネットリテラシーはかくあるべし。
「荷物を置いたら、すぐに仕事に出るから。なにかあったら、エクスに言って連絡させて」
「分かったわ。いってらっしゃい、気をつけて」
「ああ、うん」
以前のちょっと距離のある口調も忘れて、素でうなずいてしまった。
誰かにいってらっしゃいなんて言われたのは、もう思い出せないぐらい前のことだったから。