「はぁ、はぁ、はぁ……」
「少し休もうか」
「申し訳……ありま……せん……」
息を切らした彼女を気遣い、俺は徐々にスピードを緩めて立ち止まった。
相変わらず地下通路は暗いので顔色まではうかがえないが、かなり苦しそうだ。俺に出会う前から逃げてたんだろうから、疲労も蓄積してるか……。
「どこか休めるところは……」
単なる通路はとっくに過ぎて商店街になっているが、人の姿はない。店も、例外なくシャッターが閉まっている。終電で帰るときに、よく見る光景だ。
……終電での帰宅って、現代ファンタジーなのか?
なんて――こと――。
あれ以来、ゾンビっぽい敵に遭遇していないのは、幸いと言っていいだろう。
けれど、不気味な気配というか、重圧のようななにかを度々感じていた。さらに、時折、足音らしきものまで耳朶に触れるものだから、なかなか立ち止まれなかったのだ。
追い詰められている。
そんな不安を抱きながら、結局、通路の隅に身を隠すことにした。気休めだが、道の真ん中よりはマシだろう。
「とりあえず、ここで一休みしよう」
「でも……」
コツコツコツ。
タイミング悪く、足音のような音が響いた。
完璧とも言える造型の顔を引きつらせ、彼女は周囲を見回す。
とはいえ、限界は限界だ。無理をしちゃいけない。無理をしたらこうなるっていう、見本が目の前にいるんだよ?
「逃げるのは重要だけど、いざというときに疲れてちゃ意味がないし……って、ごめんっ」
というか、手をつないだままだった。
ヤバイな……。
カイラさんのお陰で、他人とのお肌の触れ合い通信へのハードルが下がっている。いつか、致命的な失態を起こしかねない。気をつけないと。
さすがに、社会的に死亡して異世界へ移住という展開は避けたい。
「あのいえ……私こそ、たぶん、汗をかいていたとおもいますので、すみませんすみません」
彼女は、謝りながらハンカチで手を拭う。
周囲が薄闇に包まれているのは、今だけは幸運だった。
「ふふふ」
「ははは」
二人して笑い声を上げて、目を見合わせた。
いい具合に、体が弛緩してくれた。
それに、彼女の笑顔は一服の清涼剤だ。
まあ、俺のほうはキモイだけだと思うけど。暗くて良かった。
「少し、休ませていただきます」
そう言って彼女はしゃがみ込むが、完全に座ろうとはしない。
汚れを気にしている……というよりは、やっぱりまだ気を抜かないようにしているんだろう。
俺は通勤鞄から未使用のハンドタオルを取りだして、床に敷いた。
「座ったほうがいい」
「……ありがとう、ございます」
少しためらった彼女だったが、俺の配慮を無駄にしてはと座ってくれた。
俺も座ろうとしたが、マントが邪魔だった。代わりに、壁に体重を預けて息を整える。
だけど、本来なら息切れするほど走る必要自体がないはずだ。
本当なら、もうとっくに地下の商店街なんて通り過ぎて、駅の改札に到着していなくちゃならない。
まったく、なんに巻き込まれたんだが……。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。生まれつき体が弱く、体力がなくて……」
「社会人だって、深刻な運動不足さ。まあ、お互い様かな」
実際、《レストアヘルス》で健康を取り戻し、異世界で動いていなかったら今頃座り込んでいるのは俺のほうだ。賭けてもいい。
昔は体育なんか面倒くさいだけだったが、アラフォーになると強制的に運動をする意味というのがよく分かる。
学校って大事なことを教えてるけど、その大事さが理解できる頃には遠い過去になってるんだよね。
これって、構造的な欠陥では?
「あの……。私は、
頭ひとつ分身長の低い彼女へ、俺は気にしなくていいと首を振る。
もちろん、それは俺の頭だ。彼女――本條さんの顔は小さすぎて、物差しには向かない。
「ああ、俺は
怪しい者じゃないと、名刺も渡しておいた。100枚単位でもらったけど、ほとんど使う機会もなかったものだ。
稀に見る有効活用と言えるだろう。
「
「うぇ?」
「上ですか? なにもありませんよ。もう、驚かせないでください」
「驚かすつもりはなかったというか、まあ、別に良いけど……」
つい、ごまかすようにうなずいてしまった。
すると、薄闇の中で彼女は花が咲いたような笑顔を浮かべる。
……これは、普通に拒否できなかったかもしれない。
会社のシステムに入るためのIDに使われる程度で、最近はほとんど呼ばれる機会のなかった名前。
それをいきなり呼ばれることになったのだ。びっくりして挙動不審になっても仕方がないだろう。カイラさんやエクスからも、名前では呼ばれていないんだから。
……俺の名前って、なんのために存在していたんだろうな?
「これが、お名刺ですか。頂くのは初めてです。ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして……」
本條さんにつられ、思わず俺も笑顔を浮かべた。
あ、この娘天然だ。天然の人たらしだ。
俺は唐突に理解した。このまま接してたら、
本人に悪気がないだけにあれなんだが、大人の俺がしっかりと線を引かないとやばいことになるぜ……。
「私のことも、綾乃とお呼びください」
「いや、それは止めておこう」
気軽に言ってくれたが、大人としてうなずくわけにはいかない。
死ぬ。
迂闊に距離を詰めると、社会的に死ぬ。
だって、これ彼女が俺に好意を持ってるとかじゃなくて、ごく普通の対応なんだもん。安易に乗っかると、いろいろヤバイやつだよ。
失うことからすべては始まらない。失ったら、それで終わりなんだぜ。
「おかしいです。本だと、ここは名前で呼び合う場面なのですが……」
たぶん、その本は若い子同士のボーイミーツガール的なあれだと思うんだ。アラフォーには荷が重たい。
「というわけで、本條さん。これからのことなんだけど」
反論を許さず、俺は話を進める。
「キミも、ちょっと
「はい。言い方は悪いですが、ゾンビのような感じでした」
思い出してしまったのか。本條さんが恐怖に肩を震わせる。
「学校へ行く途中、なんとなく嫌な気配を感じていたのですが、気付いたら周囲に誰もいなくなっていました」
「待った」
学校へ行く途中?
今は10時過ぎだぞ。俺が、真っ当な通勤通学時間に行ったり帰ったりできるはずがないだろ。
「そうなると、二時間近くも逃げてたことになるけど?」
「え? そんな。30分も経っていないはずでは……」
と、本條さんが腕時計を見て絶句する。
「ぐるぐる回っています」
「ぐるぐる回ってるね」
しかし、これで学園異能バトルルートが確定したようだ。
四半世紀遅かったな……。
どうしたもんかな、これ。
今、手元にタブレットがあれば、いっそ《ホームアプリ》で異世界へ逃げ込むこともできたんだけど……。
となると、カイラさんをこっちへ連れてきちゃったのが痛い。あっちに戻っても、増援を呼べるわけじゃない。
いやいや。エクスがいないんだから、その仮定自体が無意味だ。
……ヤバいな。徹夜明けに運動したもんだから、思考が支離滅裂になりかけている。
そもそも、彼女を異世界へ連れていけるかも分かんないしな……。
「となると、噴水の向こうの改札に行っても、外に出られるとは思えないな」
「駄目です! 噴水へ行かないと!」
「……さっきも思ったんだけど、どうしてあの噴水のことを?」
そう。一緒に逃げるときも、行き先が分かっているようなことを言っていた。
それに、俺のことを見てびっくりしていた。
今にして思えば、あの状況で人に出会ったという驚きではなく、本当に俺に出会うとはという驚きだ。
「あの……。信じてもらえないとは思いますけど……」
「それは、俺が判断することだから」
信じてもらえないと思うんですけど、各種経費を引いた俺の手取りって世間の初任給とそこまで違いないんですよ……。アラフォーなんですけど。
これ、親にも信じてもらえなかったんです……。
というわけで、世の中には信じられないことも、信じたくないことも山ほどあるのだ。それを頭ごなしに否定してはならない。
「私、実は未来予知の能力があるんです」
たとえ、それがあり得ないぐらい荒唐無稽でも。