アークス王子とのダンスは、リーゼリットにとって悪夢としか言いようがなかった。
彼のリードは完璧で、流れるようなステップは体の記憶を呼び覚ます。
前世の「悪役令嬢」としての経験が、図らずも彼女を舞踏会の中心へと引き戻した。
しかし、リーゼリットの心は常に悲鳴を上げていた。
――なぜ? なぜ私がアークスと踊っているの? ロザリアはどこに?
彼女の視線は、隙あらば会場の隅へと向けられていた。
前世では、この舞踏会でアークスはロザリアと出会い、一目惚れしたはずだ。
そして、自分が嫉妬に狂って彼らに嫌がらせをし、最終的に破滅を迎える……
そのシナリオが、今のリーゼリットの脳裏を常に過っていた。
アークスは、リーゼリットの困惑した表情など気にも留めない様子で、愛おしげに彼女を見つめ続けた。
その瞳には、前世では決して向けられなかった熱情が宿っている。
――おかしい。あまりにもおかしい。この状況は、私の知る前世とあまりにも違いすぎる。
リーゼリットは、自分が回避しようとしていたはずの「破滅フラグ」とは全く異なる、新たな不穏な予感に包まれていた。
ロザリアの様子も気になった。
彼女は舞踏会を楽しんでいるのだろうか?
そして、シリウス王子は。
あの、同じく舞踏会から逃げ出していた彼は、今どうしているのだろうか。
頭の中は疑問符でいっぱいだった。
「あ、あの……」
一曲と言ったはずなのに、流れるように二曲目に入ってしまったアークスに、リーゼリットは困惑しかなかった。
「駄目だよ、僕の可愛いリーゼ。余所見をしないで。君の瞳が映していいものは今、僕だけのはずだよ?」
アークスはうっとりとした表情でリーゼリットを見つめる。
まるで女神様でも見つめているかのようなアークスに、リーゼリットは軽く引いてしまう。
――アークス王子ってこんな人だったかしら?
もっと刺々しい冷たい方だった記憶だけど。
だんだんとリーゼリットは自分の記憶に自信が持てなくなってきた。
――もしかして、全部私の妄想なんてことはないわよね?
その時、リーゼリットとアークスの間に、救いの女神が現れた。
「アークス王子、お姉様はお疲れのご様子。今夜はもう休ませてください」
三曲目にまで突入しようとした王子を止めたのは、ロザリアだった。
「それとも、私が代わりにお相手いたしましょうか?」
いつもの可愛らしい笑顔でアークス王子を見つめるロザリア。
――これだわ! アークス王子は今、ロザリアに一目惚れしたはずよ!
間違いないわ。
リーゼリットは内心ガッツポーズをとった。
「そうか。そうだよね、リーゼ。君に会えたことが嬉しくて離れたくないよ。婚約なんてすっ飛ばして早く結婚したいな」
しかし、アークスはリーゼリットを強く抱きしめた。
周囲からは「王子はリーゼリット嬢を溺愛しているなぁ」「将来は安泰ね」「良いことだ」などと、無駄に囃し立てる声が聞こえてくる。
――全然安泰ではない!
あまりの怖さに、リーゼリットは思わずロザリアに視線を向けてしまう。
ロザリアはリーゼリットの視線に気づいた。
――お姉様が私に助けを求めている! この雑魚王子、早くリーゼリットお姉様から離れろ!
「アークス王子、お姉様は疲れているのです。離してください」
ロザリアはリーゼリットの手を引いた。
そしてアークスに笑顔を向けるが、アークスはロザリアのこの笑顔には(次はねぇーぞ、タコ)の意味が込められていると知っている。
ガチでタコ殴りにされかねないので、アークスはリーゼリットを離すしかなかった。
――ああ、僕のリーゼリット。早くその凶暴な変態妹から助け出すからね。
「ありがとう、ロザリア。助かったわ」
ロザリアのおかげでアークスから離れることができたリーゼリットは、心から感謝した。
「いえ、お姉様お疲れでしょう? もう、帰りましょう」
ロザリアはぐいぐいとリーゼリットの手を引く。
「でも、お母様は?」
リーゼリットはキョロキョロと継母の姿を探す。
「お母様なら、男の人と奥へ行ったのでそっとしておきましょう」
我が母ながらあまりにもはしたない女で、ロザリアは呆れてしまう。
まあ、母も今は未亡人であるし、好きにしたら良いだろう。
「お母様は新しい良い人を見つけたのね」
リーゼリットはホッとした様子だ。
――あまりにもリーゼリットは純粋だ。
お姉様は知らないだろうが、母は何股もかけている不埒な女である。
「私は二人乗り馬車を呼んできます。お姉様はソファで座って休んでいてください」
ロザリアはリーゼリットをエントランスのソファに座らせ、馬車を呼びに出ていった。
今のロザリアは、家にいるときの彼女より強気ではつらつとしている気がする。
――いつもこんな感じなら良いのになぁ。
リーゼリットは本当に少し疲れて、うとうとし始めてしまう。
「うわっ、大丈夫か?」
顔面から床に激突しそうになったリーゼリットを支えたのは、シリウスだった。
「どうも、すみません……」
リーゼリットは寝ぼけている。
シリウスは大人しくリーゼリットの肩を支えるのだった。
「お姉様…… どちら様ですか?」
馬車を捕まえ、リーゼリットを呼びに戻ってきたロザリアは驚く。
少し目を離しただけだと言うのに、魅力的な姉はまた男を呼び寄せてしまっている。
しかも、こんな無防備に眠ってしまっているなんて。
「随分とシスコンそうな妹だな」
ロザリアに睨みつけられ、シリウスは苦笑してしまう。
「姉はアークス王子の婚約者ですよ」
「存じ上げておりますよ。しかし、床に顔面を強打しそうなのを見過ごすわけにもいかないでしょう」
「そうですか。失礼します」
ロザリアはリーゼリットを抱きかかえると、馬車に運ぶのだった。