図書室の暗闇の中、リーゼリットは膝を抱えていた。
破滅エンドが避けられないという絶望が、冷たい水のように全身を蝕む。
前世の記憶が、再び彼女を苦しめていた。
アークス王子に婚約破棄され、断罪され、修道院に幽閉され、そして炎に包まれて死んだあの日々が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
――また、同じ運命を辿るしかないの? どう足掻いても、私はこの地獄から逃れられないの?
リーゼリットの思考は、無限のループに囚われたかのように堂々巡りする。
頭の奥で、微かな声が響いた。
――助けて。誰か、私をここから連れ出して。
その声が、誰に向けられたものなのかも分からないまま、リーゼリットは涙を流した。
しかし、涙は一滴たりとも地面に落ちることはなかった。
乾ききった心の証拠のように、頬を滑り落ちる途中で蒸発していく。
その時、図書室の重厚な扉が、ギイと音を立てて開いた。
月明かりが逆光の中に人影を浮かび上がらせる。
リーゼリットは顔を上げることもできず、ただひたすら恐怖に身を縮めた。
――きっと、私を捕まえに来たのだ。修道院へ連れて行かれる。
しかし、その人影はリーゼリットに近づくと、静かに膝をついた。
そして、優しく、しかし確かな声がリーゼリットの耳に届いた。
「リーゼリット」
それは、シリウス王子の声だった。
リーゼリットははっと顔を上げた。
そこにいたのは、いつも通りの飄々としたシリウスではない。
彼の顔には心配の色が浮かび、その瞳はリーゼリットを深く見つめていた。
「なぜここに……」
リーゼリットは掠れた声で呟いた。
彼もまた、あの写真を信じ、自分を悪役令嬢だと思っているはずだ。
なぜ、こんな場所にまで追いかけてくるのか。
「君が突然飛び出していったから、心配でね。探したんだ」
シリウスはそう言って、リーゼリットの隣に静かに座る。
彼の体温が、冷え切ったリーゼリットの心にじんわりと染み渡る。
「私、あの写真の通りじゃないわ。信じてくれる?」
リーゼリットは藁にもすがる思いで尋ねた。喉の奥が震え、声がかすれる。
「ああ、もちろん。信じているよ」
シリウスは迷いなく答えた。
その言葉に、リーゼリットの瞳から、今度こそ温かい涙が溢れ出した。
頬を伝うその涙は、蒸発することなく、ポタポタと膝の上に落ちていく。
「だって、あの写真の君は、厳しい中にも優しさが滲み出ていた。それに、ロザリア嬢も必死に庇っていただろう? それが真実だと俺は知っている。あの後、ロザリアも君を追いかけようとしていたしな」
シリウスは少し困ったように笑いながら、そう続けた。
彼の言葉は、リーゼリットの心を覆っていた重い雲を、少しずつ晴らしていくようだった。
――シリウスは、信じてくれた。
私を、悪役令嬢なんかじゃないって、信じてくれた。
リーゼリットは、嗚咽を漏らしながらシリウスの胸に顔を埋めた。
シリウスは何も言わず、ただ優しくリーゼリットの背中を撫でてくれた。
その温かい掌が、リーゼリットの心の奥底に染み込んだ絶望を、少しずつ溶かしていく。
「それにしても、魔女はどこに行ったんだ? 君へのドレスアップの腕前は素晴らしいが、どうも後始末が苦手なようだな」
シリウスはふと、茶化すような口調で言った。
リーゼリットは、その言葉に思わず吹き出した。
「本当にそうよ! あの魔女め!」
少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
シリウスは、リーゼリットの涙が止まるまで、ただ黙って寄り添ってくれた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
リーゼリットが落ち着きを取り戻した頃、シリウスはゆっくりと口を開いた。
「さて、リーゼリット。この状況をどうする?」
シリウスの問いに、リーゼリットは再び顔を曇らせた。
「破滅エンドは回避できない」という絶望は、まだ彼女の心に深く根を張っていた。
「私、もうどうすればいいのか分からないわ。また、あの忌まわしい運命が繰り返される気がして……」
リーゼリットは絞り出すように言った。
シリウスは、その言葉に静かに耳を傾けていた。
そして、ゆっくりと、リーゼリットの手を握りしめる。
「君は、一人じゃない。俺がいる」
その言葉は、リーゼリットの胸に、確かな温かさを灯した。
シリウスの瞳は、月明かりを反射して、強く輝いていた。
その輝きは、リーゼリットの心に、微かな希望の光を差し込む。
彼がそばにいてくれるなら、もしかしたら。
この閉鎖的な運命を、打ち破ることができるのかもしれない。
リーゼリットは、シリウスの温かい手のひらをぎゅっと握り返した。
その時、図書室の扉が勢いよく開いた。
「お姉様!! こちらにいらしたのですね!」
「リーゼ!! 僕のリーゼ!!」
ロザリアとアークス王子が同時に図書室に駆け込んでくる。
「ごめんなさい、お姉様。あのクソ女の魔の手から救うことができませんでした!」
ロザリアは泣きながらリーゼリットに抱きつく。
「僕はロザリアとなんて結婚したくないよ〜!」
アークスも泣きながらリーゼリットに抱きついてくる。
「ちょっと、ドサクサに紛れてお姉様に抱きつくのはやめなさいよ、変態王子!」
「ドサクサに紛れて抱きついたのは君だろ、変態妹!」
二人はリーゼリットに抱きつきながら喧嘩をはじめてしまう。
ロザリアとアークスが仲良さそうで、リーゼリットは何だか和む。
「お姉様、笑ってる場合ではありません! お母様はお姉様を修道院送りにするつもりです。それだけは絶対に避けなければ!」
ロザリアもリーゼリットの悲劇を知っている。
彼女の修道院送りを免れるために、嫌々ながらアークス王子との婚約関係を解消させずに、同担である彼を傍に居させてあげているのだ。
ロザリアは元々同担拒否である。
リーゼリット推しは私だけで良いのだ。
それが水の泡になろうとしている。
こんなことが許されてたまるかだ。
「僕はロザリアと婚約するつもりはないし、今夜君にプロポーズしようと思って指輪も用意しているんだ!」
アークスはリーゼリットに指輪の入った箱を見せる。
「こうなったら強行突破しかない。僕と会場に戻って、プロポーズを受けて欲しい!」
アークスはリーゼリットの手を掴む。
アークスもまたリーゼリットの悲劇を知っている。
このまま修道院送りにされてはまた悲劇の繰り返しだ。
それだけは絶対に避けなければならない。
それはもう、僕との結婚しかないだろう。
「そうね、お姉様。それしかないかもしれません」
ロザリアもアークスとリーゼリットの結婚には反対だが、今はリーゼリットの修道院送りを何としてでも回避したかった。
時間をかければリーゼリットが冤罪である証拠を集めて皆を納得させることもできるかもしれないが、それが間に合わずリーゼリットが修道院で火事に巻き込まれて死ぬ方が早かったら悲劇すぎる。
「リーゼリット、俺は君に婚約を申し込みたい」
シリウスはおずおずと、ネックレスを差し出す。
それは隣国の婚約を申し込む正式な方法である。
「えっ……」
リーゼリットは困惑した。
アークス王子の申し出を受けたら良いのか、シリウス王子の申し出を受けたら良いのか解らない。
「リーゼ、僕を選んで!」
「リーゼリット、俺を選んでくれ!」
二人に迫られ、リーゼリットは頭がパンクしそうである。
本当にパンクしたのかもしれない。
意識が遠のくのがわかった。
「お姉様!!」
「リーゼ!!」
「リーゼリット!!」
三人の自分を呼ぶ声を最後に、リーゼリットは完全に意識を手放すのだった。