父の手記を読み進めるにつれ、リーゼリットは自分が生まれ持った宿命と、それが侯爵家に与えてきた影響の大きさを痛感した。
手記には、父が彼女の「覚醒の兆候」に気づき、それを隠蔽するためにいかに苦心したか、そして「浄化の光」と呼ばれる組織の存在を、どこまで深く突き止めていたかが克明に記されていた。
リーゼリットは、自分を危険から遠ざけようとする父の必死なまでの愛情が伝わり、胸が締め付けられるようだった。
「父は、私を守るために、どれほどの苦労を……」
リーゼリットの声は震えていた。
シリウスは彼女の肩にそっと手を置く。
「君の父上は、本当に偉大な人だ。だが、この手記には、もう一つ重要なことが書かれている」
シリウスが指差したのは、手記の最後のページだった。
そこには、一つの紋章と、短い文章が記されていた。
『嘆きの修道院、その奥に眠る真実。我が血族よ、力を恐れるな。』
紋章は、これまで見たことのない、複雑で古めかしいものだった。
しかし、その力強いメッセージは、リーゼリットの心に響いた。
「嘆きの修道院……」
リーゼリットは地図と手記を交互に見つめた。
そこには、父が命を懸けて守ろうとした、そして自分に流れる血の秘密が隠されているのかもしれない。
「明日、嘆きの修道院に行こう!」
リーゼリットは決意を込めて言った。
シリウスは少し驚いた顔を見せたが、すぐに頷いた。
「当然だ。君一人で行かせるわけにはいかない。それに、あの場所には『浄化の光』も関わっている可能性がある」
父の手記には、『浄化の光』という魔女の血が流れる者を根絶やしにしようとする組織が存在すると記されていた。
その組織は、覚醒する兆候のある娘を難癖を付けて修道院に幽閉し、まとめて消し去ると書かれていたのだ。
それが本当ならば許せない。
私が修道院に幽閉され、火事で亡くなったのも、そういうことなのか?
私と一緒に幽閉された娘たちも?
リーゼリットの修道院生活は短いものだった。
それでも仲の良い友だちはいたし、みんな優しくて良い子たちだった。
一緒にお菓子作りをしたり、礼拝堂の掃除をしたり、お祈りをしたり、賛美歌を歌ったり。
リーゼリットは色々教えてもらった。
前世で一番楽しかったのは、その時期かもしれない。
修道院の火事は日にちを知っているし、必ず止めようと思っていたが、そんな裏があっただなんて。
――私は、あの子たちと一緒に殺されたのね。
今世では必ず助けるわ!
マーベル、ユリア、ローラ……
一緒に幽閉されていた少女たちを思い出す。
ローラなんて、まだ10歳だったのに……。
その夜、シリウスの地下要塞に戻り、床についたが、リーゼリットはなかなか眠りにつけなかった。
翌朝。
リーゼリットとシリウス、そして選りすぐりの隠密部隊は、人目を避けて地下要塞を出発した。
嘆きの修道院へと続く道は険しく、馬車では進めない場所も多い。
リーゼリットは、再びシリウスの馬に乗り、彼の背にしがみついた。
昨日の恐怖はまだ残っていたが、父の残した手がかりを辿るという使命感、そして、あの火事で亡くなるはずの友を助けるという気持ちがそれを上回っていた。
何時間も森を抜け、岩だらけの山道を登り続けると、やがて視界が開けた。
断崖絶壁の上に、朽ち果てた石造りの建物。
それが、嘆きの修道院だった。
その姿は、リーゼリットが前世で送られた、海に囲まれた修道院とは全く異なるものだったが、どこか共通する、陰鬱で閉鎖的な空気が漂っている。
「ここが……」
リーゼリットは息を呑んだ。
風が吹き荒れる中、修道院の入り口には、古びた鉄製の扉が、半ば朽ちた状態でぶら下がっていた。
その扉の表面には、父の手記にあったのと同じ紋章が、風雨に晒されながらも確かに刻まれている。
シリウスの隠密部隊が周囲を警戒し、リーゼリットとシリウスは慎重に扉を押し開けた。
内部はひんやりとしていて、カビと埃の匂いがする。
崩れかけた廊下、ひび割れたステンドグラス、倒れた祭壇。長い間、誰も足を踏み入れていない廃墟だ。
「気をつけて進もう。何が潜んでいるかわからない」
シリウスが低い声で指示を出す。
リーゼリットは胸騒ぎを感じながらも、強い気持ちで奥へと進んでいった。
先を歩くシリウスの背中が頼もしい。
最深部へと続くと思しき階段を下りると、そこはさらに暗く、湿った空間だった。
壁には、不気味な壁画が描かれており、それは人間とも魔物ともつかない異形の存在が、何かを崇めているかのような光景だ。
その壁画の一つに、父の手記にあった紋章が、他のものよりも大きく描かれているのを見つけた。
紋章の下には、古語で何か文字が刻まれている。
「シリウス、これ……何かしら? 読める?」
リーゼリットは壁画を指差す。
見たこともない文字だ。
シリウスは眉をひそめ、その文字をじっと見つめる。
「これは……王家の古い文献で見たことがある文字だ。内容は……」
シリウスはしばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「『力を受け入れし者よ、真の光は汝の内にあり。選ばれし血は、闇を払う。』……これは、予言のようなもだろうか?」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼリットの頭の中に、再びあの甲高い不協和音のような声が響き渡った。
同時に、壁画の異形の存在たちが、まるで生きているかのように蠢く幻覚が脳裏をよぎる。
リーゼリットは頭を抱え、その場に膝をついた。
「リーゼリット!? どうした!」
シリウスが慌てて駆け寄る。
しかし、リーゼリットには、彼の声が遠く聞こえるだけだった。
視界が歪み、世界が反転するような感覚に襲われる。
それは、前世の記憶が鮮明に蘇る時とは違う、もっと深く、自身の根源に触れるような、激しい感覚だった。
リーゼリットの意識は、薄れていく。
最後に彼女の目に映ったのは、紋章から放たれる、淡い光だった。