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第29話

 リーゼリットの意識は、深い闇の中を漂っていた。

 しかし、それは決して不快な闇ではなかった。

 むしろ、胎内を思わせるような、温かく、柔らかな空間。

 その中で、彼女は断片的な光景と、声を聞いた。


 ――『力を恐れるな。汝は、我らの希望』


 それは、どこか懐かしい、優しい女性の声だった。

 光景は目まぐるしく変わる。美しい森、清らかな泉、そして、人々の穏やかな暮らし。

 だが、次の瞬間、それらは炎に包まれ、悲鳴と絶望が響き渡る。


 ――『浄化の光……偽りの正義……』


 声は怒りに震え、光景は暗い牢獄へと変わる。

 鎖に繋がれた人々、その瞳には光がない。


 ――『覚醒せよ……真の光を……』


 その声が響いた瞬間、リーゼリットの意識は強烈な光に包まれた。 


 リーゼリットが意識を取り戻すと、そこは嘆きの修道院の薄暗い地下室だった。

 シリウスに抱きかかえられている。

 その顔には深い心配の色が浮かんでいた。


「リーゼリット! 大丈夫か!? 意識が飛んだんだぞ!」


 シリウスの声は、安堵と焦りが入り混じっている。

 隠密部隊の兵士たちも、不安げな表情でリーゼリットを見つめていた。


「私……大丈夫……」


 リーゼリットは、まだ朦朧とした意識の中で答えた。

 身体に異常はない。

 しかし、頭の中には、先ほど見たばかりの光景と、聞いた声が鮮明に残っていた。


「今のは……」


 リーゼリットは、自分が体験したことをシリウスに伝えようとしたが、言葉に詰まった。

 あまりにも現実離れしすぎていて、どう説明すれば良いのか分からなかったのだ。


「何か見えたのか? 聞こえたのか?」


 シリウスは、リーゼリットの異変を敏感に察知していた。

 彼の真剣な眼差しに、リーゼリットはゆっくりと頷いた。


「はい……誰かの声と、たくさんの光景が……」


 リーゼリットは、見たもの全てを、懸命にシリウスに説明した。

 森、泉、炎、牢獄、そして「力を恐れるな」「浄化の光」「覚醒せよ」という言葉の断片。

 シリウスは、その話を真剣な表情で聞き入っていた。


「『魔女の血』が覚醒する過程で、過去の記憶や、血に刻まれた情報がフラッシュバックすると君の父の手記にあったな」


 シリウスの言葉に、リーゼリットは愕然とした。

 自分の身に起こったことが、本当に『魔女の力』の覚醒だというのか。


「しかし、なぜ、私にそんな力が……」


「君の父上の手記にあった紋章……古い文献で見たことを思い出したんだが、それは、かつて『森の民』と呼ばれた、王家とは異なる血筋の者たちが用いていた紋章だ。彼らは自然の力を操る能力を持ち、人々からは『魔女』と呼ばれ、恐れられていた。だが、同時に彼らは、真の平和を望み、人々と共存しようと努めていたという記録だ。作り話だと思っていたんだが……」


 シリウスはその古い文献を重要なものとは捉えず、斜め読みし、頭の片隅に追いやっていた。

 今、必死にその内容を思い出している。

 もう少し、真剣に読めば良かった、と彼は後悔した。

 シリウスは読書家であり、勤勉なため、たくさんの蔵書を読んでいた。

 その中の一つである。題名すら思い出せない。


「父の手記によれば、『浄化の光』は、彼らの力を『邪悪なもの』とみなし、根絶しようとした。嘆きの修道院は、その過程で彼らが捕らえられ、幽閉された場所の一つだと、印されていましたよね」


 リーゼリットは、父の手記を思い出す。修道院の壁画に描かれた異形の存在が、実は『森の民』と呼ばれる人々であり、彼らが『浄化の光』によって虐げられていた光景だと理解した。

 やはり、前世で自分が送られた修道院の火事も、この『浄化の光』による、彼らの「浄化」の一環だったのだ。リーゼリットはそう確信した。


「私に流れているのは、その『森の民』の血……」


 リーゼリットは独り言のように呟いた。


「その可能性が非常に高いな。そして、君の父上は、そのことを知り、君を守ろうと動いていた。もしかしたら……彼もまた『浄化の光』に阻まれたのかもしれないな」


 シリウスの言葉に、リーゼリットは父の死の真相に思いを馳せた。

 父は不治の病だったと聞かされていたが、もしかしたら、その死も『浄化の光』が関わっていたのかもしれない。


 リーゼリットは立ち上がり、壁画に描かれた紋章に手を触れた。

 温かいような、冷たいような、不思議な感触がした。

 そして、その瞬間、彼女の脳裏に、再び声が響く。


 ――『光は汝の内に。希望を灯せ。』


 今度は、明確に聞こえた。

 その声は、リーゼリットの心に迷いを断ち切らせた。

 恐怖ではない。これは、自分に与えられた使命だ。

 父が守ろうとしたもの、前世で失われた命。そして、今もどこかで苦しむ『魔女の血』を持つ者たち。

 彼らを救うために、自分にできることがあるはずだ。


「シリウス。私、この力を使えるようになりたい」


 リーゼリットは、まっすぐにシリウスを見つめて言った。

 その瞳には、かつての不安や迷いはなく、強い光が宿っていた。


「この力を使って、父が守ろうとしたものを守り、そして……『浄化の光』を、止めたい」


 シリウスは、リーゼリットの決意に満ちた表情を見て、静かに頷いた。


「分かった。俺も、君の力になろう。俺の地下要塞で、君の力を制御する方法を探そう。そして、彼らがこの修道院の奥に隠したであろう、真実を突き止めるんだ」


 リーゼリットは、シリウスの力強い言葉に、深く頷いた。


 彼女の戦いは、侯爵領の立て直しだけでは終わらない。

 自身のルーツを巡る、より大きな戦いが、今、まさに始まろうとしていた。

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