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第32話

 シリウスの地下要塞に来て、一ヶ月ほど経っただろうか。リーゼリットは喜ばしい知らせを受け取った。

 長らく身を隠していた叔父のエドモンド卿が養生を終え、家族と共に侯爵領へ戻ってくるというのだ。

 シリウスが手配した隠密部隊が彼らを護衛し、安全に別邸へ送り届けたという報告に、リーゼリットは安堵の息をついた。



 翌日。

 リーゼリットとシリウスは、修復されたばかりの侯爵別邸を訪れた。

 門をくぐると、エドモンド卿と、その妻、そして二人の子供たちが、満面の笑みでリーゼリットたちを迎えた。


「リーゼリット様! よくぞご無事で……!」


 エドモンド卿は感極まった様子で、リーゼリットの手を握りしめる。

 彼の瞳には、これまでの苦労と、故郷に戻れた安堵が混じり合っていた。


「叔父様、お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」


 リーゼリットもまた、温かい気持ちで叔父を迎えた。

 広間では、別邸の執事や使用人たちが、彼らの帰還を心から喜んでいる。

 使用人たちも、エルシー一族が退き、エドモンド卿が戻ると知ってあちらこちらから舞い戻ってくれた。

 エルシー一族の支配から解放され、侯爵領にようやく穏やかな空気が戻ってきたようだった。


 リーゼリットは、エドモンド卿に侯爵領の現状と、今後の改革について詳しく説明した。

 不正に塗れた帳簿の整理、荒廃した農地の復興計画、そして領民への支援策など、多岐にわたる課題があったが、エドモンド卿は真剣な眼差しで耳を傾け、時折質問を挟みながら、熱心にメモを取っていた。


「なるほど……リーゼリット様がここまで周到に準備を進めてくださっていたとは。感謝の念に堪えません」 


 エドモンド卿は深く頭を下げる。

 リーゼリットは、彼ならばきっと領民のために尽力してくれると確信した。

 引き継ぎは滞りなく進み、和やかな雰囲気の中で話はまとまった。



 その日の夕食は、侯爵別邸で開かれたささやかな歓迎の宴だった。

 食卓には、質素ながらも心のこもった料理が並び、エドモンド卿の子供たちが楽しそうに笑い声を上げる。

 リーゼリットもシリウスも、久々に訪れた穏やかな時間に、心からの安らぎを感じていた。


 食事が終わり、一同で暫し談笑を楽しんだ後、暇乞いをすることにする。


「もう帰られてしまわれるのですか、リーゼリット様? つもる話もあります。今夜は泊まっていかれては?」


 失礼しようとソファーを立つリーゼリットとシリウスを、エドモンド卿が引き止めた。

 しかし、あまり長居はできない。シリウスが不審な視線を感じると、リーゼリットに耳打ちしたのだ。

 『浄化の光』もしれないと。

 リーゼリットが視察したり、領地改革を進めている間も、何度か不穏な気配を感じていた。

 側にシリウスや隠密部隊が控えているので、手を出せないでいる様子だ。

 しかし、今、ここで襲われては、せっかく復旧できた別邸と、養生を済ませたエドモンド卿に迷惑がかかってしまう。 

 リーゼリットは用事がある、また来ると、エドモンド卿の誘いを断り、シリウスと別邸を後にするのだった。



 シリウスは裏路地に詳しく、秘密の地下通路も覚えきれないほどに張り巡らしている。

 リーゼリットには到底覚えられない複雑さだ。

 おそらく常人では不可能だろう。

 地図を見せて貰ったが、まるで電子回路のように複雑で、見方もよく解らなかった。

 まず、現在地をみつけられない。

 それをシリウスは地図無しで歩き回るのだ。

 シリウスの頭の中は一体、どうなっているのだろうか。

 リーゼリットは毎日シリウスに驚かされ、感心させられている気がする。



 シリウスは上手く追手を交わして地下通路に逃げ込んだ。


「隠密部隊が追っていったが、捕まらんだろうな……」


 向こうもなかなかの手練れである。毎回この追いかけっこだ。


「この通路は何なんですか?」


 狭い通路は広い空間に続いただけで、他の道には繋がっていなかった。


「フェイクの穴だ。身を隠すには十分だっただろ?」


「そうですね」


 フェイクもあるのか。本当にこの通路全部をシリウスは理解しているのかしら……。


 第三王子にしておくのは隣国にしても勿体ないだろう。

 優秀すぎる第三王子である。



「そろそろ安全だろう。外に出るか」


 そうシリウスが広間を出ようとした、その時だった。


「あら、ご歓談の最中でしたかしら? お邪魔いたしましたね、リーゼリット様、シリウス王子」


 明るい声が聞こえ、振り向く。

 そこに立っていたのは、他でもないマダム・ビビアンだった。

 彼女はいつもの豪華なドレスを身につけ、不敵な笑みを浮かべている。

 唐突な出現に、リーゼリットは目を丸くした。


「マダム・ビビアン!? いままでどこに行っていたんですか!」


 リーゼリットは、積もり積もった苛立ちと、安堵が入り混じった感情で、思わず声を荒らげてしまう。

 自身の身に起こった数々の出来事、そして『魔女の血』の覚醒の兆候を知りながら、何一つ教えてくれなかったマダム・ビビアンへの不満が募っていたのだ。


 マダム・ビビアンは、リーゼリットの怒りを受け止めるように、ふわりと微笑んだ。

 いつもの尊大で余裕綽々とした態度とは異なり、どこか物悲しげな、そして殊勝な雰囲気を漂わせている。


「ごめんなさいね、リーゼリット様。お辛い思いをさせたわ。でも、『魔女の力』は、自ら気づき、自ら求めなければ、真に覚醒することはないの。余計なことを言って、あなたの覚醒の妨げになるわけにはいかなかったのよ」


 マダム・ビビアンの言葉には、確かな真摯さが込められていた。

 彼女の瞳の奥には、リーゼリットには計り知れない、長年の苦悩と責任が宿っているように見えた。

 その真剣な、そして哀しげな表情に、リーゼリットはそれ以上何も言えなくなる。

 怒りが、静かに胸の奥へと沈んでいった。


 マダム・ビビアンは、リーゼリットの隣に静かに歩み寄ると、彼女の目をじっと見つめた。


「さあ、リーゼリット様。あなたは、全てを知る準備ができたようね。これからは、私があなたを導きましょう。まずは……あなたが『火の魔女』として、どのようにその力を制御し、未来を切り開いていくか。そのために、何をすべきかをお話ししましょうか」


 リーゼリットは、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 ようやく、真実への扉が開かれる。

 彼女は、マダム・ビビアンの言葉に、これからの自身の運命が大きく左右されることを予感していた。

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