美弥がお使いをすませて帰ると、門の外で辺りを見回していたおまつが目を吊り上げて駆け寄ってきた。
「やっと戻ってきた! お使いに何時間かかってんだい。奥様と桃華お嬢様がお怒りだよ。何であんたを行かせたのかってあたしまで叱られて、とんだとばっちりだよ」
「すいません、おまつさん。色々ありまして」
「いいから、さっさと桃華お嬢様の部家に行きな」
おまつに急かされ、両手いっぱいに抱えた複数の風呂敷を桃華の部家まで運んでいった。長い廊下を真っ直ぐ進んで途中右に左に曲がったりしながら、ようやく部屋の前までたどり着いた。風呂敷をおろして、室内に声をかけようとした瞬間、襖が勢いよくピシャッと開いた。
「やっと戻ってきたのね。亀よりのろまじゃない」
桃華が不機嫌な顔で上から見下ろしてきた。
「遅くなってしまってごめんなさい」
頭を床につけて平謝りをする美弥を、桃華と一緒に部屋にいた佳江が睨み付ける。
「おまつから、あんたが使いにいったって聞いて嫌な予感はしてたんだよ。簡単な使いも満足にできないなんて」
「霊力だけじゃなくて、全てにおいて能無しねえ。こんなのが姉だなんて信じられないわ。まあ、あんたを姉と思ったことは一度もないけど」
桃華はふっと蔑む笑みを浮かべると、扇子で扇いでいる佳江を振り返る。
「お母様、何でお父様はこの役立たずを家に置いとくのかしら? 理解できないわ」
「懐が深いのよ」
「あの、お使いの物を」
美弥は頭を上げ、床に置いてある風呂敷を部屋内に入れようとする。桃華は懐から扇子を取り出し、風呂敷に触れている美弥の手の甲を叩いた。
「いたっ」
「汚い手で触らないで」
美弥は赤くなった手の甲をさすり、あかぎれとすり傷だらけの手に目を落とした。
桃華は自分で風呂敷を部屋の中に入れながら、溜め息をついた。
「婚約して結納したらあんたの顔見ずにすむわ。清々する」
「あなたはいいわね。私はずっとこれと一緒。嫌になるわ。旦那さまに追い出してって言おうかしら」
「どんくさくて、のろまで、簡単な仕事もできない、家畜以下だもの。お父様だって許して下さるわ」
「桃華ったら。本当のこと言ったらかわいそうよ」
「あら、お母様は優しいのね」
アハハハハと高笑いする桃華と佳江を前に、美弥は何も言わず俯いて押し黙る。
「さあ、桃華、早く準備しないと。こののろまのせいで時間がおしてしまったわ」
「そうよね、急がなくちゃ。晴磨様、この帯気に入ってくださるかしら」
風呂敷を全て部屋の中に入れた桃華は、廊下でじっとしている美弥に目もくれず、後ろ手でピシャッと襖を閉めた。
屋敷中が寝静まった深夜。土間の後片付けを終えた美弥は、行灯の心許ない明かりの下で寝間着に着替え、着ていた着物を行李に入れる。
「今日も1日ありがとう」
着物に手を触れてお礼を述べる。
「なんだか長い1日だったわ」
ふうっと溜め息をつき、行李の隅にある深緑色の風呂敷を取り出して行灯の傍に置いた。風呂敷を開き、朱色を基調にした螺鈿の小物入れを見つめる。所々ひびが入り、左側の角は欠けて土台の足が折れている。蓋の蝶番が外れているので、美弥はそっと蓋を持ち上げて横に置いた。中は黒い漆塗りが施されており、手のひらサイズの切れ端を集めて縫った巾着袋がひとつだけ入っている。巾着袋の中には、小物入れが壊された時に懸命に拾い集めた細かい破片と足の土台、蓋の蝶番などがある。美弥は巾着の中身を確認してから紐を結んで小物入れの蓋をした。螺鈿で描かれた美しい桜の木が行灯の明かりの下でもキラキラ輝いている。桜の花びらを指で撫でながら、美弥は小さく呟いた。
「ごめんね。直してあげられなくて」
思い出の中の母はほとんど布団の上にいて、青白い顔で咳き込んでいたが、常に優しい笑みを浮かべていた。母はよく美弥に小物入れを見せてくれた。陽の光を受けてキラキラと虹色に光る螺鈿の桜に目が奪われた。蓋を開けると、飴色の玉のように丸い琥珀がついた簪と、蝶が舞う金蒔絵が施された漆塗りの櫛、牡丹の花が彫られた木製の手鏡がある。美弥は母の膝の上でひとつひとつじっくり眺めながら、母の話を聞く時間が何よりも好きだったのを覚えている。
「これはね、お母様の、お母様やおばあ様、そのもっと前から、お嫁に行く娘に受け継がれてきた大切な嫁入り道具なの」
「そんなに前から?」
「ふふっ。そうよ。大切にされてきたから長く生きられるの。人から長い間大切にされてきた物には命が宿るのよ」
「そうなのね。じゃあ、この子たちも生きてるの?」
「そうねえ。美弥が大切にし続けてくれたら、命が宿って、美弥のことを守ってくれるかもね」
「すごーい! ずっと大切にするね!」
小さな美弥の頭を、母は微笑みながら優しく撫でてくれた。そして母は、枕の下から翡翠色の勾玉を取り出し、美弥の首にかけた。
「美弥、これはお母様が作った首飾りよ。小物入れと同じように大切にしてね。絶対に首から外してはだめよ。湯浴みの時も、寝る時も、いつも首にかけておくと約束してちょうだい」
いつになく真剣な母の表情を見た美弥は、幼いながらも母との約束は絶対に守らねばと悟り、力強く頷いた。
「うん。約束するわ」
それからすぐに母との別れが訪れた。7歳で行う霊力を計測する儀式で、力がいっさい無いことが分かったその日に、母は息を引き取った。
「この役立たずめ。これからは親子だと思うな。お前は使用人として暮らせ。売りに出されないだけましと思え」
当主である父の言うことは絶対。幼い美弥は否応なく使用人として働くこととなった。
その後、父は霊力を継ぐ母の親戚筋で、妾として囲っていた佳江と、美弥のひとつ下の娘の桃華を屋敷に連れてきて住まわせた。翌年、7歳になった桃華が行った霊力計測の儀式で上級の力があることが分かり、桃華は後継ぎとして教養を身に着け、霊力を引き出す修業を行ってきた。
それから2年後、母の三回忌で、おまつに許可をもらって仕事を抜け出し、野花と小物入れを持って1人墓参りに行ってきた帰り、庭の大きな岩に隠れていた桃華と鉢合わせてしまった。
「桃華さん?」
「しーっ。今隠れてるの」
「どうしたんですか?」
「修業したくないから、お父様から逃げてきたのよ。修業なんてしなくても、私の霊力は高いんだから、妖怪だって逃げてくわよ。あなたこそ仕事中なんでしょ? さぼってるの?」
「おまつさんには許可をもらって、お墓参りに行ってきたんです」
桃華は美弥が抱えている小物入れを見つけてじーっと覗き込んだ。
「これあなたの? きれいね」
「お母様が代々受け継いできた物なんです」
「見せて」
「え、でも、大事な物で」
「見るだけならいいじゃない」
桃華が強引に小物入れを引っ張った拍子に蓋が開いて、櫛と手鏡と簪が飛び出した。小物入れを手に持っている桃華が、地面に散らばったそれらを見て鼻を鳴らし、草履で蹴飛ばした。
「ふん。何よ、大した物じゃないわね」
「あっ!」
草むらの中に入った櫛と手鏡と簪を探そうと美弥が地面に膝をついた時、桃華の悲鳴が聞こえた。振り返ると、尻もちをついて着物が汚れるのもお構いなくじりじりとお尻で後退りをしながら、何もない宙を涙を流しながら怯えた顔で見つめている。
「キャーッ! こっちに来ないで!」
桃華は泣き叫ぶと、小物入れを宙に向かって放り投げた。小物入れは大岩にぶつかり、蝶番が外れ、土台の足が粉々になってしまった。美弥が息を吞んで小物入れを拾いに行った時、ピカッと雷のような閃光が桃華の周辺を包みこんだ。桃華は倒れこみ、何が起きたのか分からない美弥は呆然と立ちすくむ。分厚い黒雲に覆われた空からポツポツと雨が降り出した。
「どうした!」
「桃華!」
父と佳江が家の中から駆けてきて庭に飛び出し、倒れこんだ桃華を抱き起した。
「桃華、大丈夫? しっかりして!」
「早く中へ連れていけ」
父に言われ、佳江はきっと美弥を睨みつけた後、騒ぎを聞きつけて駆けて来た使用人たちと一緒に部屋の中へ戻って行った。
父は美弥に目を向け、問いかけてきた。
「何があった?」
「わ、分かりません。突然桃華さんが悲鳴を上げて、光ったと思ったら、倒れていて」
壊れた小物入れを持つ手を震わせながら、美弥は見たままのことを伝えた。父は舌打ちをして、美弥の持つ小物入れを睨みつけ、低い声で呟いて部屋の中に入って行った。
「あいつの怨念でも出たか」
「え? 怨念?」
美弥は小物入れに目を落とし、病床の母の笑みを思い浮かべ、首を横に振った。雨で濡れた髪から水滴がパタパタと跳ねた。
次第に強くなってきた雨足の中、美弥は大岩の辺りを探し、小物入れの破片を見つけた。その周りに散らばっている破片も集めて小物入れの中にしまう。簪、櫛、手鏡を探すが、いくら探しても見つからない。その内おまつが探しに来て、雨に打たれてびしょぬれになっている美弥に声をかけた。
「あんた、何やってんだい」
「お母様からもらった簪と櫛と手鏡が見つからないんです」
おまつは眉を下げて地面に膝をつき、美弥と目線を合わせた。
「物っていうのはね、いつか壊れて無くなるものさ。大事にとって何度修理しても、限界はあるんだよ。執着しすぎるのはよくないよ」
「そんなことありません! お母様は、大事にしていれば命が宿るって言ってました!」
「そんなの妄想だよ。いつまでもお母ちゃんの思い出にしがみついていたら、この先生きていけないよ」
おまつの言葉に、これまで抑えてきた悲しみや苦しみがあふれ出し、美弥は小物入れを抱え、雨音をかき消すような大声で泣きじゃくった。
行灯の明かりが弱まり、小物入れが陰る。美弥は零れ落ちそうになる涙をこらえ、行灯のろうそくに息を吹きかけた。