「……大丈夫だ。さっき荷物を片付けていて、うっかりぶつけただけ。」
雅子が現れると、未沙は慌てて顔を背け、唇のキス傷を手で隠した。
「未沙、良助が亡くなって、あなたが悲しんでいるのはわかっているわ。でもね、亡くなった人はもう戻らない。残された人間は、これからも生きていかなきゃいけないのよ。」
雅子の声はいつも通り穏やかで、感情の起伏は感じられない。
だが未沙には、その静けさの中に渦巻く怒りがはっきりと見て取れた。
「ご心配、ありがとう……」
「家族なんだから、そんな他人行儀なこと言わないの。今日は早く休みなさい。私たちも自分の部屋に戻るわ。」
「どうぞーー。」
扉が閉まった瞬間、未沙はこらえていた涙をついにこぼした。
唇のキス傷から血がにじんでいるが、心の中の血はとっくに流れ尽くしていた。
さっきの一瞬、彼女は思わず良助に詰め寄り、なぜ私にこんな仕打ちをしたのか問いただしたくなった。
雅子が夫を亡くして辛いのは当然。でも、未沙だって同じように胸が引き裂かれるほど苦しい。
彼女だって、感情のある人間であり、心を痛める女なのだ。
修司の葬儀が終わると、清水家の日常は一見、落ち着きを取り戻したように見えた。
未沙は少し外に出て気分転換をしたかったが、雅子に止められてしまた。
「未沙、今日はゆっくり休んで。明日、私と修司で湖に連れて行ってあげるから。」
未沙は反射的に断りたくなった。もう良助と少しでも関わるのが怖かった。
昨夜の気まずさが繰り返されるのも嫌だった。
それに、自分が感情を抑えきれず、彼の前で問い詰めてしまうのも怖かった。
けれど、雅子の「思いやり」に満ちた視線を前に、結局口をつぐみ、しぶしぶうなずいた。
「お気遣い、ありがとう。先に部屋に戻る。」
未沙が部屋に入ると、すぐ雅子も後から入ってきた。
「なにか……」
未沙が言いかけた瞬間、鋭い平手打ちが頬を打った。
「未沙!普段はおしとやかに見えたけど、まさかこんなに下品だったなんて!」
「自分の夫が死んだばかりで、もう修司を誘惑するなんて、恥知らずにもほどがあるでしょ!」
未沙は熱くなった頬を押さえた。
「根も葉もない噂を立てないで!私が兄さんを誘惑したなんて、そんなこと絶対にない!」
「まだ白々しいこと言うの?昨日のこと、私が気づいていないとでも?言っておくけど、私はあなたを哀れんでるからじゃないわ。すべては夫の面子を守るためよ!」
「あなたに羞恥心がなくても、彼にはあるの!」
雅子の目には憎しみが宿り、今にも未沙を食い殺さんばかりだった。
……
未沙は自分でも呆れるほど、すべてが滑稽に思えた。
良助は本来、自分の夫。夫婦が親しくするのは当然のことなのに、それが今や、寂しさに耐えきれず兄を誘惑した女だと罵られる。
そして、最も滑稽なのは、自分が被害者でありながら、他人の家庭を壊す悪者にされていることだった。
「このビンタ、忘れないね!次に同じことをしたら、顔に泥を塗ってやるから!」
翌朝、未沙が洗面所で身支度をしていると、雅子が出入口を塞いでいた。
「未沙、今までそんな男をたぶらかす女だとは思わなかったわ。ほら、その色っぽい目元、まるで狐みたい。男を惹きつける匂いがぷんぷんするね!」
未沙は歯ブラシを静かに置いた。
「もう一度だけ言うが。私はあなたの夫を誘惑していない。」
「ふーん?私が信じると思う?」雅子は冷たく笑う。
「口では否定しても、その唇のキス傷は何?自分で噛んだって言うの?」
……
未沙は言葉を失った。
今ここで真実を話したところで、雅子が信じるはずもない。
説明すればするほど、余計に疑われるだけだ。
「もういいわ、さっさと着替えなさい。私と“仲良しの兄さん”と一緒に湖に行くんだから。派手な服でも着て、また男を誘惑するチャンスでも狙ったら?」
「そうだ、前に買ったタイトなワンピースがあったでしょ?あれを着ていきなさいよ。清楚ぶってるけど、男が一番好きな雰囲気なんだから。」
雅子は笑みを浮かべていたが、未沙の胸には不吉な影が広がっていった。
「体調がすぐれないので、今日は遠慮する。お二人で行ってきなさい。」
雅子は踵を返しかけたが、急に足を止めた。
「本当に行かないの?あなたのご両親って、湖の景色が一番好きだったんじゃなかった?」