冷たい湖水が一瞬にして未沙の手足を包み込み、見えない手が抗うことも許さず、彼女を暗い深みへと引きずり込んでいく。
未沙はそっと目を閉じ、抵抗をやめた。水は目元を覆い、唇にしみ込み、額をも沈めていく。冷たい水が、彼女を静かに呑み込んだ。
ドレスの裾が水中で広がる。
恐怖はなかった。
むしろ、湖底へ沈んでいくその瞬間、彼女は生きているよりも遥かに軽やかな解放感を感じていた。
彼女の頭に浮かんだのは、あの冬の記憶。
高熱にうなされて病院のベッドで意識がぼんやりとしていた時、良助が忙しい中駆けつけ、そっと耳元で「未沙、僕はここにいる」と囁いてくれた。
その瞬間、寒さが一気に消え去った気がした。
また、結婚式の夜のことも思い出す。彼は未沙の手をしっかり握りしめ、夜空に咲く花火の下で「これからは、僕が君を守る」と誓ってくれた。
けれど今、未沙はひとりきり。冷たい静寂の中で、ゆっくりと沈んでいく。
涙さえも湖の水に溶けて消えていった。
彼はかつて未沙のために全てを投げ打ったというのに、今は別の女性のために、自らの手で未沙を絶望の淵へ突き落とした。
昔の誓いが深かった分だけ、今の裏切りは骨の髄まで冷たかった。
肺が焼けつくように苦しくなり、意識が朦朧としていく。指先は凍えるほど冷たく、耳に残るのはかすかな心臓の鼓動だけ。
いっそ――このまま沈んでしまっても、いいのかもしれない。
もう誰にも強いられず、騙されることもなく。
だが、意識が完全に消え去るその瞬間、暗闇を切り裂くように、ひとつの影が彼女の脳裏に浮かんだ。
琉生――
あの男は、未沙が苦しみ、孤独だった日々、ずっと黙ってそばにいてくれた。
決して無理強いせず、押し付けたりもしなかった。
彼は未沙の瞳からすべての光が消えたときでさえ、「君が苦しみから抜け出して、もう一度歩き出せる日を待っている」と、静かに言い切ったのだ。
そして、両親のことも――!
まだ行方不明の両親を見つけ出せていない、安否も分からない。
もしここで死んでしまったら――
琉生の想いも、優しい待ち続ける時間も、すべて無駄になってしまう。
両親は、誰に助けを求めればいいのか。
――だめだ、死ねない!
もう誰にも人生を操られるつもりはない!
未沙は思い切り目を見開いた。冷たい湖水が目にしみて痛む。
しかし、その瞳には、今までにない強い意志が宿っていた。
鉄のような重い足を必死に動かし、麻痺した腕を振り絞るように動かす。彼女を絡め取り、湖底へ引きずり込もうとする見えない鎖を断ち切るため、持てる力のすべてを振り絞った。
ひとつひとつの動きが命を削るほど苦しかったが、未沙は歯を食いしばり、胸の奥から湧き上がる生きたいという強い思いだけを頼りに、水面に浮かぶわずかな光を目指して必死に上へと進んだ。
彼女はもう、裏切った人間のために生きたりしない。
自分のまだ咲かせていない人生のために、本当に待ってくれている人たちのために生きていく。
清水家のためでも、良助のためでも、あの滑稽な結婚のためでもない。
水面の上、太陽の光がきらめく波に反射し、ついに未沙の顔を明るく照らした。
「ばしゃっ――!」
彼女は勢いよく水面を突き破り、痛む肺に新鮮な空気を貪るように吸い込んだ。
濡れた髪が頬に張り付き、雫が顎から滴り落ちる。彼女は湖のほとりにある冷たい石にしがみつきながら、激しく咳き込み、荒く呼吸した。
背後の湖は静まり返っている。
未沙はついに、目を覚ましたのだ。
この瞬間から、ひと言の愛の言葉のために世界を捧げるような未沙は、もう湖の底に沈んだ。
――これからは、自分を大切にしてくれる人にだけ、優しさを差し出そう。
岸辺――
雅子は修司の胸にすがりつくように身を縮めていた。
濡れた髪が青白い首筋に貼りつき、息も絶え絶えで、今にも消えてしまいそうな様子だ。
「あなた……もう、だめかも……」
力なく修司の胸元を握りしめる手、青白い唇、虚ろな瞳は今にも消え入りそうだった。
その姿に修司は胸が締めつけられ、他のことなど気にせず、すぐに人工呼吸をしようとかがみ込んだ。
しかし、彼が顔を近づけたその瞬間、弱々しかったはずの雅子が突然顔を上げ、蛇のように両腕を修司の首に絡めた。唇が強い執着を込めて、彼の唇を激しく塞いだ。
それは決して命を救うためのものではない。
絶望と冷たさ、そして支配欲を帯びたそのキスは、修司を深い闇へと一緒に引きずり込もうとする、そんな激しさがあった。