目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第6話 未沙はついに、目を覚ましたのだ。

冷たい湖水が一瞬にして未沙の手足を包み込み、見えない手が抗うことも許さず、彼女を暗い深みへと引きずり込んでいく。


未沙はそっと目を閉じ、抵抗をやめた。水は目元を覆い、唇にしみ込み、額をも沈めていく。冷たい水が、彼女を静かに呑み込んだ。


ドレスの裾が水中で広がる。


恐怖はなかった。


むしろ、湖底へ沈んでいくその瞬間、彼女は生きているよりも遥かに軽やかな解放感を感じていた。


彼女の頭に浮かんだのは、あの冬の記憶。


高熱にうなされて病院のベッドで意識がぼんやりとしていた時、良助が忙しい中駆けつけ、そっと耳元で「未沙、僕はここにいる」と囁いてくれた。


その瞬間、寒さが一気に消え去った気がした。


また、結婚式の夜のことも思い出す。彼は未沙の手をしっかり握りしめ、夜空に咲く花火の下で「これからは、僕が君を守る」と誓ってくれた。


けれど今、未沙はひとりきり。冷たい静寂の中で、ゆっくりと沈んでいく。


涙さえも湖の水に溶けて消えていった。


彼はかつて未沙のために全てを投げ打ったというのに、今は別の女性のために、自らの手で未沙を絶望の淵へ突き落とした。


昔の誓いが深かった分だけ、今の裏切りは骨の髄まで冷たかった。


肺が焼けつくように苦しくなり、意識が朦朧としていく。指先は凍えるほど冷たく、耳に残るのはかすかな心臓の鼓動だけ。


いっそ――このまま沈んでしまっても、いいのかもしれない。


もう誰にも強いられず、騙されることもなく。


だが、意識が完全に消え去るその瞬間、暗闇を切り裂くように、ひとつの影が彼女の脳裏に浮かんだ。


琉生――


あの男は、未沙が苦しみ、孤独だった日々、ずっと黙ってそばにいてくれた。


決して無理強いせず、押し付けたりもしなかった。


彼は未沙の瞳からすべての光が消えたときでさえ、「君が苦しみから抜け出して、もう一度歩き出せる日を待っている」と、静かに言い切ったのだ。


そして、両親のことも――!


まだ行方不明の両親を見つけ出せていない、安否も分からない。


もしここで死んでしまったら――


琉生の想いも、優しい待ち続ける時間も、すべて無駄になってしまう。


両親は、誰に助けを求めればいいのか。


――だめだ、死ねない!


もう誰にも人生を操られるつもりはない!


未沙は思い切り目を見開いた。冷たい湖水が目にしみて痛む。


しかし、その瞳には、今までにない強い意志が宿っていた。


鉄のような重い足を必死に動かし、麻痺した腕を振り絞るように動かす。彼女を絡め取り、湖底へ引きずり込もうとする見えない鎖を断ち切るため、持てる力のすべてを振り絞った。


ひとつひとつの動きが命を削るほど苦しかったが、未沙は歯を食いしばり、胸の奥から湧き上がる生きたいという強い思いだけを頼りに、水面に浮かぶわずかな光を目指して必死に上へと進んだ。


彼女はもう、裏切った人間のために生きたりしない。


自分のまだ咲かせていない人生のために、本当に待ってくれている人たちのために生きていく。


清水家のためでも、良助のためでも、あの滑稽な結婚のためでもない。


水面の上、太陽の光がきらめく波に反射し、ついに未沙の顔を明るく照らした。


「ばしゃっ――!」


彼女は勢いよく水面を突き破り、痛む肺に新鮮な空気を貪るように吸い込んだ。


濡れた髪が頬に張り付き、雫が顎から滴り落ちる。彼女は湖のほとりにある冷たい石にしがみつきながら、激しく咳き込み、荒く呼吸した。


背後の湖は静まり返っている。


未沙はついに、目を覚ましたのだ。


この瞬間から、ひと言の愛の言葉のために世界を捧げるような未沙は、もう湖の底に沈んだ。


――これからは、自分を大切にしてくれる人にだけ、優しさを差し出そう。


岸辺――


雅子は修司の胸にすがりつくように身を縮めていた。


濡れた髪が青白い首筋に貼りつき、息も絶え絶えで、今にも消えてしまいそうな様子だ。


「あなた……もう、だめかも……」


力なく修司の胸元を握りしめる手、青白い唇、虚ろな瞳は今にも消え入りそうだった。


その姿に修司は胸が締めつけられ、他のことなど気にせず、すぐに人工呼吸をしようとかがみ込んだ。


しかし、彼が顔を近づけたその瞬間、弱々しかったはずの雅子が突然顔を上げ、蛇のように両腕を修司の首に絡めた。唇が強い執着を込めて、彼の唇を激しく塞いだ。


それは決して命を救うためのものではない。


絶望と冷たさ、そして支配欲を帯びたそのキスは、修司を深い闇へと一緒に引きずり込もうとする、そんな激しさがあった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?