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第8話 そばにいてほしかっただけ

電話の向こうから、低くて心地よい声が、わずかに震えを帯びて聞こえてきた。


「未沙、大丈夫か?」


未沙は携帯を握る手に力が入り、指先が白くなっていた。喉が詰まり、涙を必死にこらえている。


小さく「うん」と答えながらも、目元はすっかり赤くなり、鼻の奥がつんと痛む。


その瞬間、長い間閉じ込めていた記憶が波のように押し寄せてきた。


...


子どもの頃、未沙は路地裏でアリの行列を観察するのが好きだった。他の子どもたちは、いつも無口で冷たい表情をした琉生を避けていた。


でも、未沙だけは違った。三色団子を手にしてのんびりと彼の隣に座った。


「ねえ、喋るの好きじゃないの?」と顔を上げて尋ねた。


少年は何も答えなかった。


未沙は竹串ごと団子を差し出して、「じゃあ……団子食べる?」と言った。


彼はようやく顔を横に向け、未沙を一瞥した。その瞳は冬の静けさを湛えていた。


その日を境に、未沙が下校する道にはいつもひとつの影が寄り添っていた。


いじめられるたび、必ず未沙の前に立ちはだかって守ってくれた。


ある日、未沙が職員室の飾り皿をうっかり割ってしまい、焦って震えながら謝った。


翌日、クラスでは「琉生がやった」との噂が広まった。


未沙は慌てて彼を探し、教室の一番後ろで静かに座っている彼を見つけた。琉生の目には、どこか切なさが漂っていた。


「馬鹿じゃないの?なんで私の代わりに……」


「じゃあ、どうすればいいの、私にやってほしいことは何?」彼は淡々と答えた。


「そばにいてほしかっただけ!」


それから何年もの間、琉生は未沙のそばにいてくれた。幸せはそのまま続いていたーーー琉生が転校するまで。


その日の朝、彼は静かな口調で言った。


「必ず戻ってくる」と。


それからは長い期間の別れで、未沙は琉生がこの世から消えてしまったのではないかと思うほどだった。


それが、ほんの少し前の深夜のこと。


病院からの帰り道、突然、母からのメッセージが届いた。


「未沙、琉生が帰ってきたよ!それでね……君と結婚したいって!」


未沙は街角で立ち尽くし、スマホの画面に映る懐かしい名前を見て、心臓が激しく跳ねた。


けれど、そのとき彼女の心には、良助しかいなかった。


未沙は何も答えなかった。


今になってやっと分かった。良助への想いは、結局作られた幻想にすぎなかったのだと。


「未沙、大丈夫か?」


電話越しに、琉生の声がもう一度聞こえる。低く落ち着いた声に、焦りと優しさがにじむ。


「……両親が見つからないの。湖まで来てるはずなのに、どこにもいないし、電話もつながらない。たぶん……雅子の仕業だ!」


未沙は唇を強く噛み、泣き声を押し殺した。


「未沙!」琉生の声が急に強くなり、重みとなって未沙の不安を包み込んだ。「よく聞いて。必ず見つけ出す。三日間以内に、無事に君の元に届けるから!」


「……本当に?」未沙の声が震える。


「約束する!」琉生はきっぱりと言い切り、さらに続けた。「たとえ東京中を探してでも、必ず見つける。」


未沙の頬に、静かに涙が流れた。


けれどその瞬間、胸にこびりついていた孤独は、不思議と消えていた。


電話を切る前、未沙はかすかに呟いた。


「ありがとう……琉生。」


電話の向こうで、琉生は黙ったまま、しばらく動かなかった。ようやくゆっくりとオフィスの窓際に歩み寄る。


外は夜の闇が広がり、星がまばらに輝いていた。


ふと、遠い記憶が蘇る。


蝉の声がうるさい、あの夏の日。


喧嘩が原因でクラスから疎外され、神社裏の石段にうずくまって池を眺めていた。


照りつける日差しの中、未沙が小さなカラフルな風車を握りしめて走ってきた。


「はい、これやる!元気出して!」


琉生は、そのくるくる回る色とりどりの風車を見つめ、胸が熱くなった。


そのときはっきりと分かった。この世には、どんな闇も貫く、純粋な光をくれる人がいるのだと。


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