雅子の目に、一瞬だけ戸惑いの色が浮かんだが、すぐに笑顔で手を振った。
「未沙の言う通りよ、私が余計な心配をしてただけ。でも、これからは外出する時は本当に気をつけて。特に、まだ体が本調子じゃないんだから!」
雅子は未沙の耳元に顔を寄せ、意地悪く甘い声でささやく。
「今度また湖に連れて行ってあげる時は、絶対にいい日を選ぶわ。」
その口調は、秘密を共有しているようでありながら、どこか無言の脅しのようでもあった。
未沙は何も答えなかった。
そっと自分の手を引き、穏やかな目で雅子を見返す。
「少し疲れたので、部屋で休ませてもらう。」
そう言い残し、未沙は誰にも振り返らずにそのまま階段を上がっていった。
場にいた人々は顔を見合わせ、しばらく言葉を失った。
未沙の背筋は真っすぐ伸び、歩みは穏やかだが、どこか近寄りがたい孤高さが漂っていた。
そのとき、和子がようやく口を開いた。
「もう皆、解散して。未沙はまだ驚いたばかりで、静かに休ませてあげて。修司、後で生姜湯でも未沙に持っていってあげなさい。体を冷やさないように。」
修司は小さく頷き、心配そうに階段の先を見つめたが、結局その場を動かなかった。
夜が更け、清水家の屋敷には静けさが戻る。
ただ、閉ざされた寝室の中だけは、夜風がレースのカーテンを揺らし、ランプの光と影を乱していた。
未沙はベッドの端に腰かけ、無意識に衣服の端を握りしめていた。
雅子の「ご両親も行ったんじゃない?」という、あの微笑ましい一言が、錆びた刃のように未沙の心をゆっくりとえぐる。
涙は出なかった。
ただ、静かに小さく息をついた。
もう、この清水家の茶番を、ただ見ているだけの愚かな観客にはならない。
待っていて。
あと三日。
琉生が両親を見つけてくれれば、それが自分と清水家の決着をつける時だ。
彼女は視線をスマートフォンの画面に落とす。通話履歴が表示されたままだ。
「待ってるから……」
未沙は小さくつぶやき、唇にかすかな笑みを浮かべる。
感動でも、期待でもない。
死地から戻った今、ようやく自分の進む道が決まったのだ。
夜は深まり、風が窓の隙間から入り込み、カーテンの影を切れ切れに裂いていく。
柔らかな灯りの下、部屋には時計の針の音だけが響いていた。
未沙は分厚いアルバムを抱え、指先で一枚一枚ページをめくる。それは、死んだ心の奥底を探るような感覚だった。
最初の数ページは、婚約の記念写真。
淡い色のドレスに身を包み、静かに微笑む未沙。その隣で良助が、そっと背後から手を伸ばして彼女の指先をやさしく包み込んでいる。
さらにページをめくると、結婚式の写真が現れる。
夜空に咲いた花火が、未沙の無邪気な笑顔を照らしていた。ステージの上、良助はタキシード姿で、最初から最後まで未沙だけを見つめている。
あの夜、彼は未沙を腕に抱き寄せて、そっとささやいた。
「未沙、これからどんなに泣いても笑っても、絶対に君のそばにいる。絶対に離さない。」
あの時、未沙は信じてしまった。
この人は、本当に一生自分を守ってくれるのだと。
今となっては、その誓いも、水面に映る月のように儚く、思い出すことすら苦しい。
指先が一枚の写真で止まる。白いシャツを着た良助が、澄んだ笑顔で未沙の耳元に何かを囁いている。
その瞬間は写真に閉じ込められているが、声までは封じ込められなかった。未沙ははっきり覚えている。
「この写真、大事にしておいてよ。もし君が僕をいらなくなったら、これを持って迎えに行くから。」
未沙は小さく笑い、次の瞬間、温かな涙が頬に流れた。
「残念ね……」
写真の中の優しい笑顔に向かって、かすかな声でつぶやく。
「あなたは、自分自身さえも守れなかったのに。」