外から控えめなノックの音がして、続いて聞き慣れた足音が近づいてきた。
未沙は慌ててアルバムを閉じ、涙の痕を拭って背筋を伸ばした。
「未沙、生姜湯を作ったよ。風邪ひかないようにね。」修司が入口に立ち、意識して優しく明るい声を響かせる。その声は明らかに廊下の人にも聞かせるためのものだった。
「体が大事だから、お母さんに心配かけたらダメだ。」
湯気の立つ生姜湯を手に、修司は敷居のところで立ち止まり、いつものように穏やかで親しみやすい表情を浮かべていた。
未沙はそっと目を伏せ、口元にかすかな皮肉の笑みを浮かべる。
この芝居、ますます板についてきたものだ。「未沙」という名前も、すっかり自然に口にするようになった。
「入って。」彼女は淡々と答えた。
修司は部屋に入り、静かにドアを閉めた。無意識を装いながらも、彼の視線は未沙の手元のアルバムを一瞬かすめた。
「さっき……昔の写真を見てたの?」
「ええ。」未沙は頷き、どこか意味ありげな微笑を浮かべる。「兄さん、私の過去、よく覚えているのね。」
「もちろんだ。」修司はいつもの調子で椅子に腰かける。「君はうちの大切な人だから、知っていて当たり前さ。」
「そう?」未沙は片肘をつき、薄く笑いながら修司を見つめる。
「じゃあ覚えてる?私が良助と付き合い始めた頃のこと、ある誕生日に葛切りが食べたいって言ったの。家に砂糖がなくて困っていたら——」
彼女の語り口はあくまで日常の会話のように穏やかだった。
「あの晩、良助が隣の家に砂糖を借りに行って、戻ってきたら鍋を焦がしちゃってね、部屋中焦げ臭くなったの。」
「そのとき、彼がなんて言って私をなだめたか分かる?」未沙の目元にほんのりと懐かしい温かさがよぎる。
「『甘いものは食べ損ねたけど、焦げた匂いはたっぷり味わえたね。でも未沙、物は焦がしても人はダメだよ』って。」
「私がその言葉に腹が立って、思わず彼を叩いたの。」
修司の顔から笑みが消え、表情がこわばる。
手にした茶碗が不意に滑り落ち、カランと甲高い音を立てて床に落ち、熱い生姜湯が飛び散った。
「どうしたの?」外から声が聞こえるよりも早く、雅子が駆け込んできた。
「修司!」彼女は散らかった床を見て、鋭い目で修司の腕を支えた。
修司の顔色はひどく悪く、何か深いところで裂け目が生じたかのようだった。しばらく俯いたまま、ようやく絞り出すように言った。
「大丈夫、手が滑っただけ。」
「夜にそんなに手が震えるなんて。」雅子は一瞬眉をひそめたが、すぐに笑顔を作る。
「もういいわ。お手伝いさんにもう一杯作ってもらうわね。あなたは外に出ていなさい。」
修司は小さく頷き、未沙に目を合わせることなく、足早に部屋を出て行った。
雅子はその背中が見えなくなるのをじっと見送り、ゆっくりと扉を閉める。
「カチャ――」
鍵がかかった瞬間、それまで無理に作っていた笑顔は消え、剥き出しの悪意と冷たさだけが顔に残った。
「本当にしぶとい女ね。」雅子はゆっくりと未沙に歩み寄り、歯の隙間から毒のような言葉を吐き出す。「あんな冷たくて深い湖から、自分で這い上がってくるなんて……まったく、しぶとい犬じゃないの?」
未沙はじっと座ったまま、澄んだ瞳で雅子を見据える。
「夢でも見てるの?彼が助けてくれるとでも?」雅子は鼻で笑い、目には嘲りしか浮かべていない。「彼は“兄さん”よ。」
「勘違いしないで。」
「自分で這い上がったからって、何もなかったことにはならないわよ。」雅子の視線は容赦なく未沙を上から下までなぞる。
「水から上がったあんたの姿、どう見ても汚らわしいだけ。」