「この先は、私も一緒に行くよ。」琉生の声は低く、しかし揺るぎなかった。
未沙は小さく首を振り、疲れたように口元にわずかな笑みを浮かべる。
「気持ちは嬉しい。でも、私はそうしたくないの。」
それだけ言い残すと、「また今度」とだけ告げて、未沙は通話を切った。
しばらくベッドの端に座り、深く息を吸い込む。心の波を無理に鎮めてから、着替えて階下へ向かった。
清水家のダイニングには、朝の光が差し込み、テーブルには丁寧に用意された朝食が並んでいる。湯気の立つ粥や、美しいお菓子が木のテーブルに上品に配置されていた。
昨夜の件などなかったかのように、この家には相変わらず偽りの静けさが満ちている。
未沙がダイニングに入ると、いくつかの視線が彼女に注がれた。
「未沙、座って。何か食べなさい。」和子が優しく声をかける。「昨夜はほとんど手を付けなかっただろう。」
未沙は軽く会釈し、席に着こうとしたが、ふと動きを止めた。
「これから病院に行く。」
「病院?」修司が顔を上げ、わずかに眉をひそめる。「体調が悪いのか?」
「私じゃないの。」未沙の声は淡々としていた。「両親のことだ。」
「見つかったの。」
カタン、と小さな音が響いた。誰かの箸がテーブルに落ち、その音が妙に鮮明に響き渡る。
雅子の顔から血の気が引いた。
手にした茶碗がわずかに震え、白いテーブルクロスにスープが跳ねる。
「み、見つかったの?いつの話?前は……」
「今朝、病院から連絡があった。」未沙は穏やかな口調ながら、視線は冷たく、雅子の蒼白な顔を一瞥する。「両親は眠らされて、湖近くのホテルに閉じ込められていた。でも、無事だ。」
雅子はうつむき、唇を固く結んでいる。
まさか、あの二人が見つかるなんて!
この切り札を握っていれば、未沙をずっと自分の思い通りにできるはずだった。
読み違えた。未沙という女も、その背後にある見えない力も。
「俺も一緒に行く。」修司が突然口を開く。
「いや、大丈夫、一人で行く。」未沙はきっぱりと断る。その声には一切の情がない。
「心配なんだ。」修司は譲らない。「ご両親に何かあった時、僕がいた方が何かと都合がいいだろう。」
未沙は彼を見上げる。その瞳は冷たい湖のようで、何も答えない。
「じゃあ、車を出すよ。」修司はそう言って立ち上がった。
ほどなくして、車が家の前に停まる。未沙は無表情のまま助手席に座った。
二人の間に会話はない。
車窓の外には朝霧が残り、街並みが薄いベールに包まれたようにぼんやりとしている。
未沙はふと修司の横顔に視線を移す。その顔立ちは良助と瓜二つで、朝の光の中ではっきりと浮かび上がっていた。
次々と記憶がよみがえる。
良助はこの顔で、病室のベッド脇に立ち「怖がらなくていいよ、俺がそばにいるから」と優しく言ってくれた。
彼女が泣いた時も、そっと抱きしめて「僕がいるから」と囁いてくれた。
乱れた髪を直し、ほどけた靴ひもを結び直し、雪の夜には、子供の頃の思い出の桜餅を探してくれた。
この世に何があっても、彼だけは失えないと思っていた。
でも今は――
「未沙、何を考えてる?」修司の声が突然、思い出を断ち切る。
未沙は一瞬肩を震わせ、彼を見やる。唇に冷たい笑みを浮かべて「別に」と返した。
「病院に着いたら、僕が医師と話す。」修司は未沙の冷たさに気付かぬ様子で、変わらぬ調子で言う。「大丈夫、僕がついてる。」
車が病院の前に停まると、未沙は修司の動きを待たず、自らドアを開けて降りた。
二人は並んで病室へ向かう。
病室のベッドには、黒崎夫妻がやや青白い顔をして横たわっていたが、呼吸は落ち着いており、特に問題はなさそうだった。