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第15話 彼女から始めればいいじゃない

「未沙……」母はかすれた声で呼びかけ、戸惑いを浮かべたままこちらを見つめた。「どうして私たち、病院にいるの?」


「何も覚えていないの?」未沙はそっと母の手を握った。


「湖に行って、食事をしたのは覚えてる……」母は眉をひそめた。「そのあと、急にものすごく眠くなって、どうしても目が覚めなかったの……」


「その時、女の人が私たちにお茶を勧めてきたんだ」父が続けた。「どこかで会ったことがあるような、親しみやすい人だったよ。あなたの友達だと言われて、警戒しなかった……」


未沙の胸が重くなる。


雅子だ。


彼女は目を上げ、黙って立ち尽くす修司に視線を送った。


「これはかなり悪質な事件だ」修司は眉をひそめた。「必ず調べ上げて、犯人を突き止めてみせる」


「本当に?」未沙はふいに口を開いた。


「もちろんだ」


「じゃあ――」彼女は声を落とし、「もしもその犯人が、雅子だったら?」


修司の体がピクリと固まった。


彼は未沙を見つめ、驚きと戸惑いを隠せない。


「何を言ってるんだ?」


「ただの仮定よ」未沙の目は静かだった。


「馬鹿なことを言うな!」修司は遮るように声を上げ、眉間に深いしわを寄せる。


「未沙、そんなこと言ってはいけない!雅子がそんなことするはずがない。彼女はずっと両親のことを気遣ってくれてた。あんな人じゃない!」


「でも、湖に連れて行ったのは彼女よ」


「それは君のためだった。気分転換させようとしただけだ!」


「雅子は私と一緒に川に落ちた。でも、最初に助けを呼ぶんじゃなくて、私を水に沈めようとしたの」


「やめろ!」


「本気で調べるつもりなら、彼女から始めればいいじゃない」未沙は冷たく微笑んだ。


「雅子は俺の妻だ、家族なんだ!」修司の声が強くなる。


「私の両親も、私の家族よ」未沙の声は静かだが、その一言一言が修司の心に突き刺さる。


「俺は絶対に雅子を疑わせたりしない!」彼は一歩下がり、頑なに言い切った。


「君は神経質になりすぎだ。俺は調べるけど、雅子を信じている」


未沙は、ふと滑稽に思えてきた。


そうだ、修司が雅子を疑うはずがない。


本当の家族は彼らだった。


かつて自分も、清水家の一員だと無邪気に信じていたのに。


未沙は見慣れたその顔をじっと見つめながら、心の中で静かに呟いた。


「じゃあ、調べてみて」


「本当のことが明らかになった時、裏切られたのは私が雅子を疑ったからじゃない。あなたたち全員が、私を騙していたということよ」


病院を出ると、窓の外は徐々に暗くなっていた。


未沙は車窓にもたれ、黙って流れ去る街並みを見つめる。


運転席の修司も無言だ。普段よりも険しい表情で前を向いている。


車内は沈黙に包まれ、見えない嵐が渦巻いていた。


修司はハンドルを強く握りしめ、指先が白くなっている。


呼吸も乱れがちで、その瞳には複雑な迷いと動揺が入り混じっていた。


今日の未沙は、どこかおかしい。


彼女の目はあまりにも静かで、冷たく、そして――あまりにもはっきりしている。


記憶の中の未沙とはまるで違う。


あの頃の未沙は、無邪気で素直で、ただ自分を信じ、決して疑わず、どんな決断にも従順だった。


だが、今の彼女はまるで殻を脱ぎ捨てて生まれ変わった蝶のようだ。


その視線はすべてを見通し、心の奥底まで突き刺さるようで、修司は思わず身震いした。


彼女は、すべて気付いたのか?


まさか。


自分は完璧に隠し通してきたはずだ。


未沙は、何も知らない。


知っているはずがない。


いや、絶対にありえない。


疲れて情緒が不安定なだけで、変なことを考えているだけだ。


すべては、まだ自分の手の内にある。


そう自分に言い聞かせながら、修司の目には、どこか自分を欺くような強い確信だけが、再び宿っていた。

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