「未沙……」母はかすれた声で呼びかけ、戸惑いを浮かべたままこちらを見つめた。「どうして私たち、病院にいるの?」
「何も覚えていないの?」未沙はそっと母の手を握った。
「湖に行って、食事をしたのは覚えてる……」母は眉をひそめた。「そのあと、急にものすごく眠くなって、どうしても目が覚めなかったの……」
「その時、女の人が私たちにお茶を勧めてきたんだ」父が続けた。「どこかで会ったことがあるような、親しみやすい人だったよ。あなたの友達だと言われて、警戒しなかった……」
未沙の胸が重くなる。
雅子だ。
彼女は目を上げ、黙って立ち尽くす修司に視線を送った。
「これはかなり悪質な事件だ」修司は眉をひそめた。「必ず調べ上げて、犯人を突き止めてみせる」
「本当に?」未沙はふいに口を開いた。
「もちろんだ」
「じゃあ――」彼女は声を落とし、「もしもその犯人が、雅子だったら?」
修司の体がピクリと固まった。
彼は未沙を見つめ、驚きと戸惑いを隠せない。
「何を言ってるんだ?」
「ただの仮定よ」未沙の目は静かだった。
「馬鹿なことを言うな!」修司は遮るように声を上げ、眉間に深いしわを寄せる。
「未沙、そんなこと言ってはいけない!雅子がそんなことするはずがない。彼女はずっと両親のことを気遣ってくれてた。あんな人じゃない!」
「でも、湖に連れて行ったのは彼女よ」
「それは君のためだった。気分転換させようとしただけだ!」
「雅子は私と一緒に川に落ちた。でも、最初に助けを呼ぶんじゃなくて、私を水に沈めようとしたの」
「やめろ!」
「本気で調べるつもりなら、彼女から始めればいいじゃない」未沙は冷たく微笑んだ。
「雅子は俺の妻だ、家族なんだ!」修司の声が強くなる。
「私の両親も、私の家族よ」未沙の声は静かだが、その一言一言が修司の心に突き刺さる。
「俺は絶対に雅子を疑わせたりしない!」彼は一歩下がり、頑なに言い切った。
「君は神経質になりすぎだ。俺は調べるけど、雅子を信じている」
未沙は、ふと滑稽に思えてきた。
そうだ、修司が雅子を疑うはずがない。
本当の家族は彼らだった。
かつて自分も、清水家の一員だと無邪気に信じていたのに。
未沙は見慣れたその顔をじっと見つめながら、心の中で静かに呟いた。
「じゃあ、調べてみて」
「本当のことが明らかになった時、裏切られたのは私が雅子を疑ったからじゃない。あなたたち全員が、私を騙していたということよ」
病院を出ると、窓の外は徐々に暗くなっていた。
未沙は車窓にもたれ、黙って流れ去る街並みを見つめる。
運転席の修司も無言だ。普段よりも険しい表情で前を向いている。
車内は沈黙に包まれ、見えない嵐が渦巻いていた。
修司はハンドルを強く握りしめ、指先が白くなっている。
呼吸も乱れがちで、その瞳には複雑な迷いと動揺が入り混じっていた。
今日の未沙は、どこかおかしい。
彼女の目はあまりにも静かで、冷たく、そして――あまりにもはっきりしている。
記憶の中の未沙とはまるで違う。
あの頃の未沙は、無邪気で素直で、ただ自分を信じ、決して疑わず、どんな決断にも従順だった。
だが、今の彼女はまるで殻を脱ぎ捨てて生まれ変わった蝶のようだ。
その視線はすべてを見通し、心の奥底まで突き刺さるようで、修司は思わず身震いした。
彼女は、すべて気付いたのか?
まさか。
自分は完璧に隠し通してきたはずだ。
未沙は、何も知らない。
知っているはずがない。
いや、絶対にありえない。
疲れて情緒が不安定なだけで、変なことを考えているだけだ。
すべては、まだ自分の手の内にある。
そう自分に言い聞かせながら、修司の目には、どこか自分を欺くような強い確信だけが、再び宿っていた。