未沙はしばらく玄関で立ち尽くした後、ゆっくりとベッドのそばに腰を下ろした。
この部屋は、彼女が清水家に嫁いでから、屋敷の中で唯一ぬくもりを感じた場所だった。
清水家の人達が心を込めて整えてくれた部屋で、そのひとつひとつの配慮が、未沙に大切にされているという実感を与えてくれた。
良助――あの頃の彼は、どんなに忙しくても毎晩必ずミルクを温め、「おやすみ」と優しく声をかけて、未沙を眠りにつかせてくれた。
雅子も、よく未沙の手を引いて一緒にアクセサリーを選びに行き、「未沙、これからは家族なんだからね!」と満面の笑みで言ってくれた。
兄の修司も、無口で距離を保つ性格ではあったが、未沙が迷っているときはさりげなく助け舟を出して、陰ながら守ってくれた。
あの頃の未沙は、何も疑っていなかった。
この家に嫁いだことで、本当の愛と温かい家庭を手に入れたと信じていた。
だが、今振り返れば、それはすべて巧妙に仕組まれた罠だった。
優しさの裏には、彼女をこの金色の檻に閉じ込めるための計算があった。逃げ場を失わせ、最後にはすべてを奪い尽くすために。
未沙は仰向けになり、静かに天井を見つめた。
焦ってはいけない、隙を見せてはいけない――そう自分に言い聞かせる。
彼女は、周囲に自分がまだ騙されていると思わせ、その油断の中で、少しずつ彼らの仮面を剥がしていくつもりだった。
そして、最後には自分の手で、その偽りを一つずつ暴いてやるのだ。
窓の隙間から吹き込む風がカーテンを揺らし、静かに落ち着いた。
未沙は横向きに寝転び、無意識に指先で布団の端を何度もなぞる。
不思議なくらい、心は穏やかだった。
自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえるほどに、静かだった。
まさか、こんな形で再び良助を「知る」ことになるとは、夢にも思わなかった。
いや、むしろ――兄の名を奪ったこの男の正体を、改めて知ることになるとは。
未沙は、海外から届いた「訃報」が嘘だとは一度たりとも疑わなかった。
あの時期、泣きすぎて目は腫れ、薬に頼らなければ眠ることもできず、何度も後を追おうとさえ思った。
それほどまでに、彼女は愛する人の死を信じて疑わなかった。
だが、骨壺の中にいたのは、本物の良助ではなかった。
彼女が愛した夫は、生きて戻り、兄の名前を名乗って、未沙の人生に入り込んできた。
しかも、未沙が絶望の淵でもがいていたことを知りながら、何も言わずその様子を見ていた。
そして今でも、「兄」として平然と彼女の前に現れる。
その冷酷さは、死よりも耐え難いものだった。
未沙は目を閉じる。
頭の中には、車内での出来事が何度もよみがえる。
良助――いや、修司の名を騙るその男が、そっくりな顔で「弟の遺志」などと言い出し、未沙に手を差し伸べてきた。
彼は、完璧な演技で、目線ひとつまで巧みに偽ってみせた。
だが、未沙は誰よりも本当の良助を知っている。
目の前のこの男は、兄の名前を語り、見せかけの優しさを振りまく偽善者に過ぎない。
本当の良助は、決して大げさなことはせず、さりげない優しさを見せてくれる人だった。
冬の夜、そっと コーヒーを手渡してくれたり、風邪をひいた時は温かいお湯を差し出してくれたり――それが彼の本当の思いやりだった。
だが、今の「良助」は、何もかもが不自然で、計算ずくの偽りに満ちている。
彼が何をすればするほど、本物の「良助」とは似ても似つかないことが、ますます浮き彫りになるのだった。