第2話 八歳の新帝
応徳二(1085)年、十一月八日。
東宮・実仁親王薨去。
十五歳の若さであった。
母である源氏御息所、あるいは兵部女御と称された源基子――出家し、今は源氏の尼君と呼ばれていた――は勿論のこと、実仁親王を寵愛していた祖母である陽明門院禎子内親王も、ひどく嘆き悲しんだ。
世間からも「いと清らかなる男」と称されて、将来を嘱望されていた東宮の死である。
誰もが嘆き、悲しみ、悼んだ。
だが白河天皇だけは違った。
翌、応徳三(1086)年、十一月二十六日。
白河天皇は、実仁親王の同母弟の輔仁親王ではなく、実子である八歳の善仁親王を東宮に立て、即日譲位した。
実仁親王の後には、当然輔仁親王が東宮に立つべきであり、そうであるものと誰もが考えていたにも関わらずのことであった。
――実仁親王が即位した後には、輔仁親王を東宮(皇太弟)とするようとの、後三条院の遺言があったのだ。
白河天皇、いや、白河上皇にとって、それは待ちに待った瞬間だった。
父、後三条天皇に目を掛けられ、愛されたのは異母弟の実仁親王と輔仁親王。
憎き源基子の子らである。
――源基子は、元は白河天皇の姉である聡子内親王の一女房でしかなかったのだ。
白河天皇の母、藤原茂子は若くして亡くなっていて、基子が後三条天皇の寵愛を受けたのはその後のことだったのだが、白河天皇としては、己がないがしろにされている気持ちだったのだろう。
父・後三条院と姉・聡子内親王、祖母・陽明門院までもが、自分ではなく、基子の子らを寵愛し、帝位を継がせようとしているのだ。
面白いはずがない。
虎視眈々と機を狙っていたのだろう、と基子は考えた。
考えざるを得なかった。
それは悲しみに曇った眼故のことだったのかもしれない。
けれど、基子は決して侵してはならない禁忌に手を染めた。
新帝、堀河天皇の呪詛である。
◆
実仁親王は疱瘡で亡くなった。
それが事実だ。
だが基子は、実仁親王の死は白河天皇の呪詛によるものだと考えた。
我が子である善仁親王を東宮に立てるため、そして即位させるため――
白河天皇は実仁親王を呪詛し、死に至らしめた。
そのような事実は無かった。
少なくとも証拠は何一つ出なかった。
だが、悲嘆に暮れる基子が縋れるものは、それだけしかなかったのかもしれない。
◆
基子は善仁親王、いや、今上(堀河天皇)と同じ年、同じ月、同じ日に生まれた子を卜占によって探し出させた。
そして、その子を生贄に、堀河天皇を廃嫡すべく、呪詛を執り行ったのだった。