大内裏の北東の端。茶園の南、左近衛府の北。内教坊は在る。
――いや、現在内裏は焼けてしまって、今は閑院が里内裏であるのだが。
さておき。
内教坊は女楽、踏歌などを掌るところで、別当は納言以上で音律に通じたものが兼帯した。
その下に頭預、伎女、女孺がある。
雅楽寮と内教坊は、宮廷での儀式、神事、仏事、外交、武技など種々の行事に欠かせない、儀礼の花形とも言うべき部署であった。
しかし平安も中頃を過ぎると雅楽寮、内教坊共に徐々に衰退。
大歌所も規模を縮小。
楽所がそれらに代わる機関として機能し始める。
楽所に補任された楽人は近衛、衛門、兵衛などの府生を以て補した。
後に特定の家による独占化が進み、専門の楽家が形成されることとなった。
楽家は各々担当が定まっていた。
それから後、内教坊は表舞台に立つことが稀になり、今や昔の源氏物語の頃には、内教坊の者たちは見目から振る舞いから、既に古臭いとされていた。
隆盛を誇った頃と違い、今や内教坊は主に老女の溜まり場と化しているとさえ言われる始末で。
とはいえ、正月十六日に行われる踏歌の節会は、現在も内教坊が主役である。
正月七日の白馬の節会の女楽も晴れ舞台ではあるが、壮麗さでは今日の日には及ばない。
◆
嘉保三(1096)年、正月十六日、丁未
閑院内裏、南庭。
三献、立楽まで終了し、今は内教坊別当が舞伎奏――舞伎の名を記した目録――を奏上している。
己の名が呼ばれる度、其処彼処で吐息が零れる。
この場で緊張しない伎女が居ようか。
「卯の花の君、息してる?」
居た。
「藤袴の君は、大変お元気そうですね。何よりです」
卯の花の君、と呼ばれた老女は真っ白な頭を揺らして吐息した。
否、老女と見たのは間違いだ。
白に薄墨色の混じった色だが、まだ若い。
幼ささえ見てとれる容貌は十七、八だろうか。
卵形の小さな輪郭に、切れ長で黒檀の様な目、形の良い鼻、真っ赤な唇が丁度良く収まっている。
眉は柔らかな弧を描いていて黒く、長い睫毛はやはり黒い。
そう、この卯の花こそが。
十年前に呪詛の贄にされ掛け、危ういところで命拾いした、あの女童だ。
血の気のない白い顔で返答すると、藤袴はひょいと肩を竦めて見せた。
仕草が軽やかだ。
「四十年踊ってますのでね。慣れるわ」
小声ながらも弾んだ調子が、耳に心地良い。
「流石です」
ふくよかで明るい藤袴は、皺くちゃの顔を楽し気に綻ばせる。
「卯の花の君は今年が初めてね。楽しんで」
「残念ながら余裕ありません」
げっそりと卯の花が答え、周囲の伎女らがくすくすと笑いを零す。
「こら、静かに」
ぴしりと山吹が言い放つ。
一気に場が緊迫した。
「毎年新しい気持ちで舞うのですよ。慣れなどと、とんでもない」
「すみません山吹先輩」
藤袴はぺこりと会釈した。
「さあ、出番ですよ。卯の花の君、いつも通りに」
「はい」
声は掠れて震えていたが、息は吐けた。
膝は笑っているが、舞えない筈がない。
卯の花はこの踏歌の為にこそ、内教坊に居るのだと言っても過言ではない。
本来舞台は紫宸殿南庭。校書殿の東廂板敷上より入場。
だが里内裏の為、今回は閑院内裏中殿の南庭。
舞台が変われど、内容は変わらない。
さあ、一歩を。
色鮮やかな衣装を纏った、四十人の舞伎が静々と現れる。
唐衣を身につけ、髪を宝髻に結い上げ櫛を挿し、右手に檜扇、左手に畳紙を持ち。堂々と。
老女ばかりとはいえ、着飾った舞伎は目を瞠るほど華やかだ。
列は二手に分かれ、ゆるりと円を描くように庭を一周。
〽
明々聖主億千齢「千春楽」
高く低く、響き渡る歌声。踏み鳴らされる足音。
踏歌は字音のまま歌うのが常だ。続いて囃子言葉が朗々と響く。
〽
無事無為唯賞予「千春楽」
凝施端拱任群賢「千春楽」
網踈刑措還千古「天人感呼」
治定功成太平年「千春楽」
明々聖主億千齢「千春楽」
深仁潜及三泉下「千春楽」
鴻徳遐荒六合中「千春楽」
悦以使民々悦服「天人感呼」
二周目。二列の輪が段々と大きな一つの円となる。
花が咲き零れるが如く、ゆっくりと広がる。
〽
明々聖主億千齢「千春楽」
上月韶光早先春「千春楽」
階前細草緑初新「千春楽」
南山雪尽春峰遠「天人感呼」
北闕煙生瑞気淳「千春楽」
明々聖主億千齢「千春楽」
君王暁奏旒蘇帳「千春楽」
春日芳菲遠興催「千春楽」
暁光偏著青楼柳「天人感呼」
寒色金舞玉砌梅「天人感呼」
三周目。一列が東西に分かれ、軽やかに。
〽
明々聖主億千齢「千春楽」
宮女春眼常嬾起「千春楽」
被催中使絵粧成「千春楽」
雲鬟尚恨無新様「天人感呼」
霧殿還嫌色不軽「聖主億千齢」
内に折れて、一周。
〽
明々聖主億千齢「千春楽」
春歌清響伝金置「千春楽」
双踏佳声繞玉堂「千春楽」
借問曲中何億有「天人感呼」
仙齢延祚与天長「千春楽」
早年愛光華「千春楽」
春遊不知厭
暮景落朱顔
猶恨韶光短
徘徊不欲還城「聖主億千齢」
帝の徳を褒め称え、宝祚の永遠なることを願い、南庭を三周。
天女の如く。
迦陵頻伽の如く。
老女ばかりとは言え、それはその道に通じて長い伎女らな訳で。
その舞は荘厳で美しい。
ふわふわとした心持ちで、けれど足取りはしっかりと。
卯の花は、まるで大きな流れに揺蕩う魚のような気持になった。
しっかりと自分を保って置かねば、瞬く間に水泡になって消えてしまいそうだ。
それでも。
引き込まれる。
◆
控に戻っても、卯の花はまだ雲を掴むような心許ない表情だった。
「お疲れ様、卯の花の君。ちゃんと舞えてたわよ」
頭預が軽く卯の花の肩を叩いた。
「頭預……」
「次は中宮さまにお目に掛けるのよ。しゃんとなさい」
跳ね上がった鼓動を静める間もなく、西の対に定められた中宮御所へ。
そして再びの踏歌。
喉はカラカラ。汗は額から滴り落ちている。
だというのに、どこか自分の身体ではないようで。
この足は確かに地面を踏みしめているのだろうか。
手遊びに扇を開いたり、閉じたり。意味のない動きをしてしまう。
目の前はうっすらと霞が掛かっているように見える。
「ぼんやりしているわね。酒肴を頂いて人心地つきなさい」
「はい、頭預」
何を飲んだのか食べたのか、正直記憶にはない。
始終ぼうっとしたまま、卯の花は帰路に着いたのだった。