「何を
ぺしんと後頭部を扇で叩かれて、
卯の花は、邸の主が帰ってきたことに気付いた。
「お帰りなさいませ、
気付いた時には、日はとっぷりと暮れている。
月明りが清らかに差し込んでいた。
気付けば肩には
気配もなく、
ありがとう、気付かずごめん。
と何もないように見える空間に、卯の花は声を掛ける。
ひらりと几帳が返事のように揺れた。
◆
卯の花には二人の父が居る。
二人とも養父だ。
一人は
かの有名な
玄明曰く、あまりに遠い縁であるので、
晴明を知らぬ人はいないであろうが、平安中期の陰陽家、
なお玄明と、晴明直系の
いま一人は
玄明は優秀な陰陽博士として名高く、実高は、なにより
摂関家とは、摂政・関白に任じられる家格のことで、藤氏長者(藤原氏一族全体の氏長者)に就く藤原氏嫡流の家である。
誰もが知る藤原氏の氏長者といえば、
故修理大夫俊綱は、その頼道の次男にあたる。
俊綱は正室の子では無い上に橘家に養子に出され、官位も
実高は道長の
◆
「灯も
四条邸は実高の邸で、奈用竹は実高の北の方である。
卯の花にとって、義理の母にも当たる女性だ。
卯の花は困ったようにこめかみを掻いた。
奈用竹は嫌いではない。嫌いなどころか、寧ろ好きだ。
だが、血の繋がらない家族の
実高と奈用竹の実の娘である
そんな訳で、卯の花は気楽な一人暮らしの玄明の邸に入り浸っているのだが、実高も奈用竹も四条邸に共に住もうと誘いは引っ切り無しだ。
玄明の邸は一人暮らしとはいえ、
気楽で便利な邸宅である。
玄明は少々邪魔に感じていそうだが、気にしたら負けだと卯の花は思っている。
「土産も、ありませんが」
もじもじと落ち着かない卯の花に、玄明は白っとした視線を投げた。
いつものこととはいえ、毎度毎度。
よくも飽きずに同じことを繰り返すものだ、と思っている。
「お前の話を
一緒に住んでいる玄明はともかく、実高は卯の花に会うたびに細かく様子を聞いて来る。
玄明に言わせれば、実高は過保護に過ぎる。
卯の花もいい
玄明はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「何せ娘の初めての踏歌だ。存分に聞かせてやれ」
実高は根掘り葉掘り、あれこれと聞きたがるだろうから。
卯の花は唇を尖らせた。
そういう仕草はまだまだ子供である。
「養父様は、何かないんですか。娘の初舞台について」
何か言ってほしそうな表情に、玄明は頷いた。
「ご苦労だった」
「いや、それだけかい」
思わず突っ込む卯の花。
想定してはいたが、流石にもう少し何か欲しい。
そういう思いが
玄明はひらひらと袖を振った。
「
役割分担ではないけれど。
飴と鞭ならば、実高が飴で、鞭が玄明だ。
勿論、玄明とて、叱るばかりでは無いのだけれど。
「たまには
可愛い子ぶって小首を傾げてみせた卯の花に、玄明は鼻で笑って見せた。
「抜かせ」
「ケチ」
玄明はまた、ぺしんと卯の花の頭を扇で叩いた。
「聞こえている」
「聞こえるように言ったんです」