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第5話 二人の養父

 櫛笥小路くしげこうじの自宅に帰ってからも、暫くは簀子縁すのこえんに座り込み、ぼんやりと庭を眺めて。


「何をうつけている」


 ぺしんと後頭部を扇で叩かれて、ようやく。

 卯の花は、邸の主が帰ってきたことに気付いた。


「お帰りなさいませ、養父ちち様」


 気付いた時には、日はとっぷりと暮れている。

 月明りが清らかに差し込んでいた。


 気付けば肩にはうちぎが掛けられていて。

 気配もなく、式神しきが世話を焼いてくれたのだろう。炭櫃すびつ――かく火鉢――まで置いてあった。


 ありがとう、気付かずごめん。


 と何もないように見える空間に、卯の花は声を掛ける。

 ひらりと几帳が返事のように揺れた。



 卯の花には二人の父が居る。

 二人とも養父だ。


 一人は陰陽博士おんみょうのはくし安倍玄明あべのはるあきら

 かの有名な安倍晴明あべのせいめいの遠縁にあたるらしい。

 玄明曰く、あまりに遠い縁であるので、ほとんど関係などない――ということだが、詳細は不明である。


 晴明を知らぬ人はいないであろうが、平安中期の陰陽家、土御門つちみかど家の祖である。彼の占いや予言をたたえた説話は今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう宇治拾遺物語うじしゅういものがたりなどにみられる。著書に「占事略決せんじりゃくけつ」がある。

 なお玄明と、晴明直系の玄孫やしゃごである泰長やすながとの不仲は内裏でも有名である。


 いま一人は右近衛権少将うこんのごんのしょうしょう橘実高たちばなのさねたか。故伏見ふしみ修理大夫しゅりだいぶ俊綱としつなの三男である。


 玄明は優秀な陰陽博士として名高く、実高は、なにより摂関家せっかんけの血を引く者だ。

 摂関家とは、摂政・関白に任じられる家格のことで、藤氏長者(藤原氏一族全体の氏長者)に就く藤原氏嫡流の家である。

 誰もが知る藤原氏の氏長者といえば、藤原道長ふじわらのみちながであろうか。その嫡子が頼道よりみち

 故修理大夫俊綱は、その頼道の次男にあたる。

 俊綱は正室の子では無い上に橘家に養子に出され、官位も捗々はかばかしくはなかったが、歴とした血筋なのである。


 実高は道長の曾孫ひまごに当たるというわけだ。



 玄明はるあきらは呆れたように吐息する。


「灯もけずに何をやっている。ともかく四条邸へ行く。用意しろ。奈用竹なよたけの方が宴を催すそうだ」


 四条邸は実高の邸で、奈用竹は実高の北の方である。

 卯の花にとって、義理の母にも当たる女性だ。


 卯の花は困ったようにこめかみを掻いた。

 奈用竹は嫌いではない。嫌いなどころか、寧ろ好きだ。


 だが、血の繋がらない家族の団欒だんらんに交ざるのは、どうにも気構えてしまうというか、落ち着かない。

 実高と奈用竹の実の娘である乙姫おとひめは、 卯の花をあねさまと慕ってくれているのが、余計に身の置き所に困り、どうにもそわそわとしてしまうのだ。



 そんな訳で、卯の花は気楽な一人暮らしの玄明の邸に入り浸っているのだが、実高も奈用竹も四条邸に共に住もうと誘いは引っ切り無しだ。

 玄明の邸は一人暮らしとはいえ、式神しきが諸々世話をやいてくれるお陰で、 卯の花がすることはほとんど何もない。

 気楽で便利な邸宅である。


 玄明は少々邪魔に感じていそうだが、気にしたら負けだと卯の花は思っている。



「土産も、ありませんが」


 もじもじと落ち着かない卯の花に、玄明は白っとした視線を投げた。

 いつものこととはいえ、毎度毎度。

 よくも飽きずに同じことを繰り返すものだ、と思っている。


「お前の話をさかなに飲むのだろう」


 一緒に住んでいる玄明はともかく、実高は卯の花に会うたびに細かく様子を聞いて来る。

 玄明に言わせれば、実高は過保護に過ぎる。

 卯の花もいい年齢としであることだし、これで恋歌を貰ったの、通う男ができたのだのとなったら、大騒ぎするのではないだろうか。

 玄明はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。


「何せ娘の初めての踏歌だ。存分に聞かせてやれ」


 実高は根掘り葉掘り、あれこれと聞きたがるだろうから。


 卯の花は唇を尖らせた。

 そういう仕草はまだまだ子供である。


「養父様は、何かないんですか。娘の初舞台について」


 何か言ってほしそうな表情に、玄明は頷いた。


「ご苦労だった」


「いや、それだけかい」


 思わず突っ込む卯の花。

 想定してはいたが、流石にもう少し何か欲しい。

 そういう思いが表情かおに出たのだろう。

 玄明はひらひらと袖を振った。


いたわりが欲しければ実高に言え。甘やかすのは奴の領分だ」


 役割分担ではないけれど。

 飴と鞭ならば、実高が飴で、鞭が玄明だ。

 勿論、玄明とて、叱るばかりでは無いのだけれど。


「たまにはねぎらってくださってもいいんですよ」


 可愛い子ぶって小首を傾げてみせた卯の花に、玄明は鼻で笑って見せた。


「抜かせ」


「ケチ」


 玄明はまた、ぺしんと卯の花の頭を扇で叩いた。


「聞こえている」


「聞こえるように言ったんです」



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