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第6話 四条邸での宴

「お帰り、 卯の花。疲れただろう。初舞台はどうだった?」


 にこにこと出迎えてくれたもう一人の養父、実高さねたかに、卯の花は微妙に引きつった笑みを返した。

 実高は玄明はるあきらなど遠く及ばぬ程に、優しくいたわりに満ちているのだが、その善意が眩しすぎるのだ。

 卯の花の目には、後光すら差して見える。


「只今戻りました。養父ちち上」


 実高は養父上、玄明は養父様だ。


「私はちらとしか見えなかったのだけれど、美しかったよ。流石は卯の花だ」


「はあ、畏れ入ります」


「さあさあ、奈用竹も乙姫もお前を心待ちにしているよ。早く奥へ」


 実高の言葉も終わらぬ内に、御簾みすを跳ね上げて、満面の笑みで童女わらわめが駆けてくる。


「あねさま!」


乙姫おとひめ様、走ってはなりませんよ。転んだら大変です」


 嬉しそうに抱き着く義理の妹を、優しく抱き上げて、卯の花は微笑む。


「ご無沙汰していますね。お変わりないですか、乙姫様」


「わたくし、すこしせがのびました! あのね、あねさまに、おあいしたかったです」


「少し忙しくしていましたからね。今日はたくさんお話しできますよ」


「うれしゅうございます。いっぱい、いっぱいおはなし、いたしましょうね」


 すり、とほおずりしてくる乙姫に、卯の花はとろけそうな笑みを浮かべた。


 麗しい姉妹愛に実高は優しく、玄明は冷めた様子で目を細める。

 似た表情だが温度が違うのだよなあと、卯の花は横目で養父らを見遣った。


「おかえりなさい、大姫おおひめ


「ご無沙汰しております、義母はは上」


 奈用竹が柔らかく微笑んだ。


 卯の花は奈用竹からは大姫と呼ばれている。

 実高の一の姫だから大姫。二の姫だから乙姫だ。

 無論のこと、真名は別にある。


「畏まらずともよいのですよ。貴方の家ですもの」


 奈用竹はそう言ってくれるが、やはり遠慮はしてしまう。

 卯の花は奈用竹にとって夫の連れ子――それも血の繋がらない拾い子である。

 そんな素振りすら見せないが、やはり煙たい存在ではないのだろうかと、どうしても思ってしまうのだ。


 そんなことを思っているのが申し訳ないくらい、奈用竹は良い北の方で、良い義母である。

 それが却って、卯の花には重く感じられてしまう。

 気付いていないはずもないのに、奈用竹は本当に卯の花によくしてくれる。


 だからこそ――


 暗雲に呑み込まれそうになった頭をぶんぶんと振って、卯の花は余計な考えを、彼方に追い遣った。


「玄明様もよくお越しくださいました」


「邪魔をする」


 本来なら有り得ないことだが、奈用竹も乙姫も玄明の前では御簾から出て顔を合わせる。

 家族でさえ御簾越し、几帳越しが当たり前の世の中だが、玄明は特別である。

 実高と玄明の仲は乳兄弟よりも深い。らしい。


 卯の花が記憶する限り、最初からこうだったので、馴れ初めなどは知らない。

 そして聞いても教えてはくれない二人だ。



「さ、ご一献」


 銀の提子ひさげを持ち、奈用竹は微笑む。

 実高はにこにこと杯を受ける。



 酒もいろいろな種類のものがある。

 御酒ごしゅ御井酒ごいしゅ醴酒れいしゅ三種糟みくさのかす擣糟つきかす頓酒とんしゅ熟酒じゅくしゅなどだ。


 御酒は四度熟成を繰り返す、甘口で酸味の少ない澄んだ酒。

 御井酒は濃厚甘口の澄んだ酒。

 三種糟は三種類の米を麦芽・米麹を併用して酒で仕込む、味醂系の甘い濁り酒。

 擣糟はもろみを臼で磨り潰して、水を加えて濾した甘い酒。

 頓酒は早く造る濁り酒。

 熟酒は長期間熟成させる、アルコール度数の高い酒。


 ――だったのではないか、と推測されている。


 唐菓子からくだものは米粉や小麦粉を練ってから、蒸すなどして形成し、油で揚げたものだ。

 甘味料であるあめ(糖)や、甘醴あまざけ肉桂シナモンなどが混ぜてあるものもある。


 飴は、蒸した糯米もちごめに砕いた麦芽を混ぜて、五十度ほどを保って一晩おき、絞った汁を煮詰めれば完成という製造が容易なものである。

 当時の代表的な甘味料であった。

 他にも甘味料には、甘葛煎あまづらや蜂蜜がある。



 膝に乙姫を抱いた卯の花が、唐菓子からくだものかじる。

 横の玄明が、澄ました顔で杯をす。

 風変りだが、それが卯の花の家族の「当たり前」の姿でもあった。


「あねさま、あーんしてください」


「はい」


 乙姫が唐菓子を、卯の花の口に突っ込む。

 勢い余って口が歪み、実高が笑う。

 奈用竹も乙姫も笑う。

 玄明は唇を少し歪めただけだが、それが微笑みであることを、この場の皆が知っている。


「幸せだなあ」


 実高がじんわりと染みるように呟く。

 奈用竹が頷き、玄明が鼻で笑う。


「お前はいつも幸せそうで、結構なことだ」


「うん、そうだね玄明。お前も居てくれるからこその幸せだ。神仏に感謝せねば」


「……本当に相変わらずだな」


 実高は杯に口を付け、そうっと笑った。


「この末法の世で、こうして家族と親友と酒が飲める。これ以上の幸せがあろうか」


「昨今、物騒でございますから……」


 奈用竹がふと思い出したように小首を傾げた。


「そういえば、恐ろしい噂を耳にしたのです。なんでも、延暦寺えんりゃくじが関白様を呪詛なさっておるとか」


「事実だ」


 あっさりと玄明が肯定した。

 まあ、と奈用竹が口許を袖で覆う。


「先年の神輿振みこしぶりの際に死人が出てね。延暦寺が相当に怒って」


「後二条関白に鏑矢かぶらやを射当て給え、と祈ったところ、翌朝、関白の寝所に、今採ってきたばかりのようなしきみの枝が刺さっていたそうだ」


 その後、関白藤原師通ふじわらのもろみちは病に倒れ、その母君源麗子みなもとのよしこが七日七夜の祈願を立てたことで、どうにか命を長らえた。

 だが、それは三年ばかりのことだという。


 残りは二年。


「――どこまでが本当だかは知らぬがな」


 寺社による大々的な呪詛など、全く迷惑千万である。

 末法の世で揺らいでいる炎に、勢いよく油を注ぎこんでどうする。

 世の安寧を祈ることこそ寺社の本分であろうに。


 酒を乾し、実高が吐息した。


「お前が言うと、すべて本当のような気がするよ、玄明」


「俺は本当のことしか言わぬぞ、実高」


 ぱん、と卯の花が手を叩いた。


「養父上様がた、そのお話はそこまでで。乙姫様が怖がってしまいます」


 乙姫は目をまんまるに見開いて、固まっていた。

 口の端からはかじり損ねた唐菓子が、ぽろりとこぼれる。


「すまないね、乙姫。父が悪かった。怖くは無いよ。そういったものは玄明と姉上がすべて祓ってくれるからね」


 乙姫を卯の花の膝から抱き上げて、自分の膝に座らせると、実高はそっと乙姫の髪を撫でる。


「おい。俺にも出来ぬことは出来ぬぞ」


「出来ることなら何でも出来るだろう、お前。――例えばそうの琴とか」


 あまりに突拍子もない実高の台詞に、玄明は眉を寄せた。


「今か?」


 玄明は筝の名手でもある。実高は笛と琵琶だ。

 卯の花は内教坊ないきょうぼうの者として当然ながら、楽も舞も見事にこなす。

 今上帝は音楽に優れ、特に笛に於いては並ぶもののない腕前である。

 お傍にはべる者は当然のこと、貴族たるものはすべて音楽に励むべし。

 ……などと、言われているわけではないが。

 とにかく、ことあるごとに音曲を求められる世である。


「折角だ、卯の花も楽を何か」


「ここでですか?」


「うん。奈用竹も乙姫も聞きたいだろう?」


「はい!」


「勿論ですわ」


 玄明は眉間を抑え、長く吐息する。


「卯の花、春鶯囀しゅんのうでん柳花苑りゅうかえんどっちがいい」


「景気付けに酒胡子しゅこうしでも致しましょうか」


 ひそひそと会話を交わす二人の間に、乙姫がぐいと顔を突っ込んだ。

 零れ落ちそうなほどの、満面の笑みだ。


「りゅうかえん、ききたいです!」


「……だそうだ」


「畏まりました」


 酒肴が片付けられ、筝と琵琶とが運ばれる。


「養父上も笛を是非。義母上、変則ですが和琴は如何いかがですか」


「まあ、わたくしには荷が勝ちすぎますわ。大姫こそ和琴をどうぞ。でしたらわたくしも琵琶を致しましょう。我が殿には遠く及びませぬけれど」


「それもいいね。 卯の花、和琴を」


「はい! はい! わたくしも、わたくしもことをひきたいのです!」


 弦楽器を総称して「こと」「き物」という。

 きん和琴わごんそう琵琶びわなどが主である。


「乙姫は、もう少し練習してからに致しましょうね」


「……はあい」


 奈用竹にさとされ、乙姫は残念そうに座り直した。


 爪をはめ、玄明はちらりと卯の花に視線を遣った。

 いつでも、と 卯の花はうなずく。

 右手の琴軋ことさき(へらのような形のもので、これを使って弦を掻き鳴らす)も、左手の構えも万全だ。

 既に楽人がくじんの顔つきである。


 悪くない、と玄明は薄く唇に笑みをく。

 凛々しく緊張感に満ちた、卯の花のこの表情を、玄明は気に入っている。


 一つ。

 玄明が弦をはじいた。

 実高が高く笛を鳴らす。

 琵琶が、和琴が加わり――


 そこからは夢のような時間。



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