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第7話 穢れの年の幕開け

 嘉保かほう三(1096)年、三月。


 一日、辛卯かのとう

 院御所いんのごしょ鳥羽殿とばどの和歌管弦わかかんげん御会。


 二日、壬辰みずのえたつ

 関白師通もろみち二条第にじょうだい作文会さくもんえ――漢詩の作成の優劣を競う――を催す。


 三日、癸巳みずのとみ

 御燈ごとう――御燈とは天皇が北斗星をまつって燈火を献じた朝廷の儀式である――、廃務はいむ――廃務は日食や先帝の国忌などのときに、朝廷が一切の政務を停止し、官吏全員が出仕しないことをいう。日数は一日を原則とした――。


 四日、甲午きのえうま

 宇治うじ平等院びょうどういん一切経いっさいきょう――一切経とは釈迦しゃかの教説とかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称――会。太皇太后寛子ひろこ臨御りんぎょあらせられ、関白師通もろみち亦之またこれに臨む。


 六日、丙申ひのえさる

 内御物忌うちのおんものいみ――帝の物忌みのことで、宮中全体が謹んで部屋に籠ることをいう――。

 御悩ごのう――天皇、貴人などの御病気のことをいう――。


 七日、丁酉ひのととり

 春季仁王会にんのうえ――仁王会とは天下太平・鎮護国家を祈願するために、仁王経を講説・讃嘆する法会のことである――、是日このひ、臨時免物めんもつ――免物は、国家的な吉凶の大事が起こった時、特典をもって囚人の罪科をゆるすこと――あり。


 住吉社すみよししゃ神主津守國基つもりのくにもと荘厳浄土寺しょうごんじょうどじを供養す。結縁けちえん――結縁とは仏道に縁を結ぶこと。未来に成仏する機縁を作ること。また、そのために写経や法会を営むことをいった――のやから群集して死者を生ず。


 十日、庚子かのえね

 熊野本宮くまのほんぐう焼失す。

 前関白師実もろざね懺法せんぼう――懺法とは、経を読誦して、罪過を懺悔さんげする儀式作法――を京極殿に行う。


 十一日、辛丑かのとうし

 清涼殿せいりょうでん和歌管弦わかかんげん御会。


 十二日、壬寅みずのえとら

 諸寺別当を補す。


 十三日、癸卯みずのとう

 殿上人等、円融院えんゆういんに観桜詩宴を催す。


 十五日、乙巳きのとみ

 上皇、西院さいいん藤原邦恒ふじわらのくにつね堂に御幸ぎょこうあらせられ、前天台座主てんだいざす良眞りょうしん房に臨御せられて、法華経法文を受け給う。


 十六日、丙午ひのえうま

 触穢しょくえに依りて、石清水いわしみず臨時祭りんじさいを延引す。


 十七日、丁未ひのとひつじ

 前関白師実もろざね、京極殿に管弦会を催す。

 是日、関白師通もろみち作文さくもん――作文とは漢詩を作ること――の会を行う。


  十八日、戊申つちのえさる

 僧慈應じおう、京都の貴賤きせん勧進かんじんして、一切経いっさいきょう一日書写供養くようを行う。ついで、一切経を金峯山きんぷせんに納む。


 十九日、己酉つちのととり

 禁中に法華ほっけ御読経みどきょうを行い、天台座主てんだいざす仁覚にんかくをして、七仏薬師法しちぶつやくしほうを東三条殿に修せしむ。

 是日、法勝寺ほっしょうじ阿弥陀堂あみだどう不断念仏ふだんねんぶつあり。上皇及び郁芳門院いくほうもんいんこれに臨み給う。


 七仏薬師法とは密教で、七仏薬師を本尊として、延命・息災・安産などを祈る修法のこと。

 不断念仏とは、日時を決めて間断なく、弥陀の名号を唱えることである。


 前関白師実もろざね法成寺ほうじょうじ阿弥陀堂あみだどう護摩ごま及び八講はっこうを行う。

 是日このひ、関白師通もろみち法性寺ほっしょうじ座主ざす仁源にんげんをして、二条殿に法華法を修せしむ。


 八講とは、法華経八巻を八座に分け、ふつう一日に朝夕二座講じて、四日間で完了する法会のことである。


 二十日、庚戌かのえいぬ

 弓場殿ゆばどのいて、弓の興あり。


 仁和寺にんなじ覚念かくねん覚行かくぎょう法親王ほっしんのう)、高野山灌頂院かんじょういんに於いて、灌頂かんじょう修行あらせられる。


 二十一日、辛亥かのとい

 上皇、近江甲賀こうがそま――おもに寺社・宮殿の用材伐採地――を法勝寺に寄進し給う。


 二十三日、癸丑みずのとうし

 まつりごと


 二十四日、甲寅きのえとら

 殿上てんじょう賭射のりゆみ――この場合は賞品をかけて弓を射ること――を御覧あらせられる。


 二十五日、乙卯きのとう

 触穢しょくえに依りて、松尾、平野、杜本もりもと当麻とうま、梅宮、大神おおがみ、広瀬、龍田たつた等の諸祭を延引せしむ。

 春季御読経みどきょう

 御書所ごしょどころ――宮中の書物を管理した役所――御作文さくもん


 二十六日、丙辰ひのとたつ

 法成寺八講結願けちがん


 結願とは、日数を決めて行った法会や、願立てなどの予定日数が満ちること。また、その最終日のことである。


 二十八日、戊午つちのえうま

 院文殿ふどの――書物をおさめておく所――作文さくもん御会。


 二十九日、己未つちのとひつじ

 右近将曹うこんのしょうそう下毛野近末しもつけのちかすえを、陸奥みちのく御馬交易使こうえきのしとなす。


 是月このつき、中宮御方に御詩歌合あり。



 三月もおわりの頃のこと。


「ほらほら、その角度では駄目ですよ。もっと膝を曲げて。掌は上。はい、もう一度」


 頭預とうよげきが飛ぶ。

 老いたとはいえ流石の迫力である。


 何度か繰り返し、頭預はやれやれと頭を振った。


「休憩にしましょう。キレが無い。――見苦しい」


 伎女たちはわっと歓声をあげ、思い思いに腰を下ろした。

 汗が滝のように、額を、頬を伝っている。

 ぱたぱたと落ちた汗で、床に水たまりができそうなほどだ。


 優雅さは、努力と根性で手に入れるものである。


 まずは体力。次に体力。更に体力。

 そしてその後に、気力。


 水の上のはくちょうは優美に見えて、その実、水の中では必死に足を動かしているのだ。


 手拭で顔を拭う伎女の内、若いものは極僅ごくわずか。


「老骨にはこたえるわ。頭預せんせい容赦ないから」


 皺くちゃの顔を歪めて、伎女の一人がおどけてみせた。

 五十も半ばだろうか、当時としてはかなりの高齢である。

 ふくよかでつやつやとした肌は健康的だ。

 隣の生真面目きまじめな風な伎女は、顔をしかめて彼女を小突く。


「こら、藤袴ふじばかまの君」


「すみません、山吹やまぶき先輩」


 山吹は老いてなお、ぴしりと背筋を伸ばした、凛とした女性である。

 そこらの伎女ぎじょとは気迫が違う。

 彼女は頭預の下、伎女らの長の様な立場にあった。


「卯の花の君を見習いなさい。あんなに若いのに文句ひとつも言わず、黙々と稽古してるじゃないの」


「体力だけはありますので。一応」


 藤袴が何度か残念そうに頭を振る。


「もう何回も聞くけど、卯の花の君はどうして内教坊うちなんかに来ちゃったの。内侍所ないしどころ辺りに勤めていれば、未来ももっとひらけていたでしょうに。まだ若いし」


 内侍所とは。平安時代前期に、令制の後宮十二司の一つである内侍司が変質した機関のことである。他の後宮十二司の機能の多くも吸収した。通常内裏の温明殿にあり、主殿寮・掃部寮などの女官もここに詰めた。

 また、三種の神器の一つである神鏡を、天皇との日常の同座を避けるようになって以後、安置した場所のことをいう。平安前期以降、蔵司に変わり内侍所に置かれるようになったので、この名がある。その場合、賢所かしこどころともいう。


「そういえば、神祇官かんづかさ御巫みかんなぎの話もあったんじゃなかったかしら。能力を見込んで」


 御巫みかんなぎは令制で、神祇官に置かれた女官である。亀甲きっこうを焼くなどして吉凶を占い、また、神嘗祭かんなめのまつり鎮魂祭たましずめのまつりなどの神事に奉仕した未婚の女性のことを言った。


「お父上の伝手つても。ねえ?」



 女三人寄ればかしましい。

 卯の花は老女たちの興味深げな質問に、ただ苦笑で返した。

 黒髪の美しい伎女がふん、と鼻を鳴らした。


「白髪の醜女しこめじゃあ、どこに行っても駄目でしょう。はらえの力があったところで――」


射干玉ぬばたまの君」


 山吹にぴしゃりと遮られ、射干玉はまた鼻を鳴らした。

 伎女ぎじょになったばかりの彼女は卯の花よりも更に若く、また見目にも自信がある為に、何かと卯の花を敵対視しているのだ。


「卯の花の君と張り合うには、もっと精進してからになさい。貴女の舞は全体的に雑です。すべて、丁寧になすことを心掛ける様に」


 畳み掛けられて、射干玉烏玉はぷうと頬を膨らませた。

 仕草もまた幼い。


「祓の能力はお父上からの伝授なの?」


 藤袴の無邪気な問いに、卯の花は苦笑した。


「前にも申し上げました通り、わたしは拾われ子ですので、養父ちち譲りの能力ですとか、そういったものは、とんと」


 伎女たちは顔を見合わせた。


「そういえば、河原で拾われたのですって?」


「あら、悲田院ひでんいんではなかった?」


 悲田院は仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設で、いわゆる孤児院のような役割も果たしていた。


「素質があったから、る筋から貰われて来たって聞いたわ」


 然る筋とは、陰陽師の大家たいかである、安倍あべ所縁ゆかりのどこからしいと言われている。


 己の出自も、なんとも多岐にわたったものだなあと。

 卯の花は肩を竦めた。


「物心つく前の事ですから、わたしには」


 嘘である。

 卯の花が玄明はるあきら実高さねたか、二人を養父にもつことになった背景に、ある事件があった。

 呪詛じゅそにえとされた 卯の花を、若き二人が救ったのだ。


 知る者は少ない。

 応徳おうとく二(1086)年。もう、十年も前の話である。



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