目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第9話 祓の舞

 馬に揺られて延々と。

 なんだかんだ結構な時間が掛かった。

 住吉社は思ったよりも遠かったわけだが――。


「さて。くだんの池に着いた訳ですが……」


 住吉社の池は、目にはあきらかに見えはしないけれど、確かにどんよりとした空気が澱んでいる。


はらえ読経どきょうも毎日上げているそうなのだがな。――頼めるか?」


 重隆の言葉に、周囲に居た検非違使けびいし下部しもべだろう者たちが無遠慮に卯の花に目を遣った。


 遊びが何の用だとも言いたげな視線であった。

 江口えぐち神崎かんざきの遊女も確かに内教坊ないきょうぼうの管轄であるから、全く的外れとも言えないが。

 こちらは大内裏勤めであるという矜持きょうじが、いささかなりともある。


 だが卯の花は表情には何も出さず、ただ池の面だけを見つめた。


 この池で、何十人もが溺死したという。

 目にはさやかに見えねども。


 風が池面に小波さざなみを立てる。

 その音は形にならない何かを、伝えてくる気がする。


 卯の花は池に向かって手を合わせ、黙祷した。

 かずきを近くの木の枝に掛け、息を吸い、ゆっくりと吐く。


つづみ拍子ひょうしも無くていいのか?」


「無用です。まあ、男装してきた方が舞い易かったかなとかは思っていますけど」


 女舞以外の舞衣装は、大抵男装である。

 修練の際もくくり袴に水干すいかんなどで、男装するのがならいだ。


 今日の修練は主に女舞だった為に皆、うちぎ姿で踊っていたが、普段は男装で、髪も下げ髪やみずらに結っている者が多い。

 五節舞姫のように宝髻ほうけいに結ったり、卯の花のように高髻だったり色々だが。



 すっと卯の花の表情が変わった。

 舞人まいにんの顔だ。


 辺りの温度が下がった気がする。


 供養舞なら獅子しし菩薩ぼさつ迦陵頻かりょうびん胡蝶こちょう

 ――菩薩にしよう。


 卯の花はゆっくりと息を吸い、吐いた。

 清浄でおかがたい何かが、あった。


 表は皆白くて。裏は、蘇芳すおう・紅・紅梅・青き濃き薄き、白きひとえの、白撫子のかさね

 袖が静かに上がる。


 さあ、一歩。



 舞っている間は何も気になりはしない。

 無遠慮な視線も、野次も、何も。


 思うことはただ、心安かれと。

 苦しみと悲しみとが、少しでも薄らぐようにと。



 ゆるりゆるりと袖が翻る。

 大仰ではない動きだが、目を惹かれる。


 卯の花の視線は、この世ならぬ所を見ているようで、澄み切って少し怖いくらいだった。



 いったいどれくらいったのだろうか、重隆には判別がつかなかった。




 その場の誰もが、卯の花の舞に見入っていた。


 魅入られていた。


 光が散り、花が咲き零れる。

 そんな幻を見た者も居た。



 無音。


 呼吸いきさえひそめて。



 ゆっくりと卯の花の手が下りて。

 舞が終わった。


 張り詰めていた空気が、ゆるやかにほころびる。


「――さて。気休めくらいにはなりましょうか」


 軽く汗を拭きつつ、卯の花は重隆を振り返った。

 その顔はただの少女のものだ。


 幽玄な雰囲気は何処どこへやら。


 だが、池のよどんだ空気は、確かに消し飛んでいる様に思えた。

 重隆は視えない者なので、何となくの感覚ではあるけれど。


「助かった。これがはらえの力か。すごいな」


「大したものではありません。せいぜい場の空気を整えるくらいで。――わたしでは鬼も祓えませんし」


 養父の玄明に比べれば、何ということも無い小技だ。

 指をぱちりと鳴らせば、弱い怪異などちりの如くに吹き飛ばしてしまう玄明と、比べる方が間違っているとは思う。


 肩を竦める卯の花に、重隆は苦笑した。


「鬼と来たか。百年前ならいざ知らず、今のこの世には、もはや居ないだろう。源頼光みなもとのらいこう一派や安倍晴明あべのせいめいらに滅ぼされて久しいと聞くぞ」


 卯の花は小首を傾げて見せる。


「そうでしょうか。ものやら化生けしょうの者やらが居て、怪異が有って。――にも関わらず、鬼だけが居ないということがありましょうか。土蜘蛛つちぐも末裔すえだって、ほら。国栖くずに居ますし」


 先日の踏歌とうかの節会の際も、踏歌の前に国栖ががくを奏している。


 大江山おおえやま酒呑童子しゅてんどうじと配下の四天王は討ち取られたが、茨木童子いばらきどうじは逃げ延びたという話だ。

 腕を取られて取り返し――、その後の話は聞かないが、また出てくるかもしれないではないか。

 酒呑童子は鬼のかしらと目されるが、それに限らず、他の鬼の末裔すえやら、親類縁者やらが、まだまだ何処かに居ないとも限らない。


 真面目な顔をして見せる卯の花に、重隆はぞっと背筋を凍らせた。


「怖いこと言うな」


「まあ、百鬼夜行ひゃっきやぎょうなども、養父ちち様方も見たことは無いとは言ってましたけど」


「ほら」


 ほっとしたように笑う重隆に、卯の花はこっそりと思う。


見たことが無い、とは言ってない)


 羅城門らじょうもん跡辺りからは、鬼の噂が消えることはないだろうし、隠れる場所には事欠かない京の都であることだし。


 えん松原まつばらにも昔、鬼が出たそうな。

 大内裏に出るくらいなら、当然都にも出るだろう。

 内裏こそ魑魅魍魎ちみもうりょう巣窟そうくつだ、と誰かが言っていた。

 今は里内裏だが、そういう問題でもないだろうし。


(居そうだな。人に化けた鬼とか)


 普通の人のふりをして、気付かれないままに紛れこんでいるものたち。

 人のふりをしている、人ならざるものの知り合いは、多い。

 玄明の邸が良い例だ。

 櫛笥小路邸の使用人は皆、玄明の式神か、人の形をとった怪異である。


(でも人の方が鬼より怖いって、養父様方も言ってるしな)


 うらつらみを積み重ね、人は鬼になるという。

 加えて今は末法まっぽうの世。

 世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその末法の到来に怯えている。


 本来、末法というのは釈尊しゃくそん入滅にゅうめつから二千年を経過した次の一万年のことで、教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代とされている。


 釈尊の入滅は五十数説あるが、末法元年を永承えいしょう七(1052)年とする説が主だろうか。

 当時関白であった藤原頼通ふじわらよりみちが宇治の平等院に、阿弥陀堂を建立した年でもある。

 遠い遠い雲上人うんじょうびと。そして養父実高の、祖父に当たる人。


 義理ではあるけれど、自分の曾祖父にあたるのか。

 そう考えると凄いなと、卯の花はぼんやりと思った。


 それはさておき、今や末法も四十四年目。

 京の都は世界の滅亡を前に、貴賤きせんの別なく、不穏な空気が重くし掛かっている。


 穢れは都の彼方此方あちこちに、自然と溜まってゆくような有様で。


(澱んでるなあ)


 まるで渦を巻くような。

 蜷局とぐろを巻く大蛇おろちのようだと、卯の花は思った。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?