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第12話 郁芳門院の求め

 花の色にそめしたもとの惜しければ衣かへうき今日にもあるかな(和漢朗詠集・更衣)


 花の色に染めた着物が名残惜しいので、衣替えをするのは気が進まない今日であるよ。



 桜も散り終え、若葉萌え、藤も終わりに近付いて。

 空木うつぎが、白く清々しい花を咲かせ始めた。


 古歌には、月光のようとも雪のようとも詠われる、卯の花。

 枕草子にも取り上げられている。


 卯の花は品が劣っていて何ということもないけれど、咲く時期が良い。

 杜鵑ほととぎすがその影に隠れていると思うと、とても趣が深い。

 祭のかえさ――賀茂祭の翌日、斎王が上社から紫野の斎院御所に帰ること。また、その行列――に、紫野のわたり近きいやしい家や、ぼうぼうと草の茂った垣根などに、とても白く咲いているのが素晴らしい。

 青色の衣の上に、白いひとえかさねなどを被いている青朽葉あおくちばなどに似通って見えて、とても趣深い。



 かさねの色目――表地と裏地の二色配色――では、今の時期なら卯花が一番だと卯の花は思っている。

 自分の名に掛かっているからということも、あるのかもしれない。


 表が白、裏が青のこの色目は、春は「柳」、夏は「卯花」、秋は「菊」と呼び方を変え、同じ衣類であっても、季節ごとの風情を楽しんだ。


 かさねの色目――五ツ衣いつつぎぬの多色配色――なら菖蒲しょうぶだろうか。

 青き濃き薄き・白き一・紅梅濃き薄き。白き生絹すずしひとえ


 花橘はなたちばなや藤も良い。

 花橘は山吹濃き薄き二・白き一・青き濃き薄き。白ひとえ。または、青単。


 藤は薄色の匂ひて三・白表二。裏、青き濃き薄き。白き生絹すずしひとえ。または紅の生絹すずしの単。



 今は内教坊ないきょうぼうでの舞の修練に、色々の水干を着こなしている伎女らだが、取り取りの花が咲き乱れるようで麗しい。


 幾多の袖が翻るのが花吹雪のようだ。

 藤に白藤しらふじ、牡丹に苗色なえいろ。そして卯花、杜若かきつばた


管絃かんげん日和ですな」


 いくぶん気が急いている様な仕草で、老齢の男性が現れる。

 五位の深緋こきあけほうに、幾分いくぶん皺が生じている。


「あら別当殿」


「いらっしゃるとは珍しいこと」


「何かございまして?」


 普段おっとりしている内教坊別当にしては、やけに慌てた様子だった。

 それこそ、衣に皺がよる程度には。


 遠慮のない伎女らの歓迎に、別当は袖で額をそっと拭う。


「やれやれ皆さん相変わらずの舌鋒ぜっぽう、衰えを知らないその意気やし。羨ましい限りで」


「おでの理由を伺いましょうか」


 頭預の切れ味も相変わらず鋭い。

 別当も、即座に用件に入った。

 何やら本当に急ぎらしい。


走舞はしりまいの得意な者、弾物ひきもの(弦楽器)の得意な者を数名ずつ見繕ってください。早々に」


 走舞は舞台上を活発に動き回る舞である。

 がくも、速めで勇壮なものだ。

 弾物は琵琶、筝、和琴を言う。


 さて、舞楽は歌に合わせる国風歌舞くにぶりのうたまいと、楽に合わせる左方・右方の三種がある。

 国風歌舞はもっぱら儀礼や祭祀に用いられた為、所謂いわゆる宴などで舞われることはまず無い。

 左方・右方の舞は三種の吹物ふきもの(管楽器)、三種の打物うちもの(打楽器)による編成が基本である。


 弾物を用いるのは何とも珍しい。


 頭預が小首を傾げた。

 些細な仕草も優美なのは流石である。

 物言いはきっぱりと怖いくらいなのに、指先一つまで優雅だ。


吹物ふきものではなく? それに走舞と?」


 吹物は篳篥ひちりき神楽笛かぐらぶえ龍笛りゅうてき高麗笛こまぶえしょう


 打物は鞨鼓かっこ三ノ鼓さんのつづみ鉦鼓しょうこ釣太鼓つりだいこ大太鼓おおだいこ笏拍子しゃくびょうしである。

 この内教坊の伎女であるのならば、最低限、笛と手拍子があればそれなりの形には舞える。


 それなり、というのは誰に披露しても恥ずかしくない程度、ということだ。

 国の最高峰の楽人、舞人たちなのだから、当然である。


六条内裏ろくじょうだいり女院にょいん様がご所望でして。何やら、新しい試みをなさりたいそうで。乱舞をと」


 場がざわめく。


郁芳門院いくほうもんいん様が」


 郁芳門院媞子やすこ内親王は、今上帝の同母姉であり、准母として后にあたる。


 帝の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)は前代未聞であり、廷臣たちの反感を買った上、更に女院号まで宣下された、かなり特殊な位置の方なのだが、それはまた別の話である。


 御年二一。


 容姿は麗しく優美であり、ほどこしを好む寛容な心優しい女性である。

 また、朗らかで気安げでもあった。

 舞楽を好み、今迄いままで度々たびたび、内教坊の伎女らが御所の六条内裏に召されて、楽やら舞やらを披露している。


「貴方、弾物で上手く踊れて?」


「ええ、自信無いわあ……」


「即興で何事かが得意な者が、良いでしょうね」


「いや、拍子が無くては舞えないでしょう」


 途端にざわめく伎女らを、裂帛れっぱくの気合がしんと静めた。


さえずるのはそこまで」


 山吹やまぶきであった。


頭預せんせいがお言葉をくださいます。静かに」


 頭預がコホンと小さく咳払いをする。


「即興で舞える者と若い者を幾人か。まず射干玉ぬばたまの君」


「っ、はい!」


 はじかれたように射干玉が顔を上げた。

 まさか名が挙がるとは思っても見なかったのだろう。


 上気した頬が桃のようだ。


「貴方、今様いまようやら即興が得意でしょう。行きなさい」


「光栄です!」


 両手に拳を握り鼻息は荒く。

 猪、と思ったのは内緒にしておこうと、卯の花はそっと視線を逸らせた。


「山吹の君、藤袴の君は外せないでしょうし」


「いや頭預せんせい、走舞で即興は流石にキツいですよ」


「ええ流石に無理が」


 慌てる藤袴、山吹がうんうんと頷く。

 頭預は無視して言葉を続ける。決定事項らしい。


「琵琶は杜木かつらの君に、筝か和琴をやだけの君、それに卯の花の君」


「えっ、はい?!」


 まさか名が挙がるとは思わなかった卯の花は、思わず目をいた。


「若いのですから、貴方は当然でしょう。舞人の方で」


 盛大に引き攣った顔を後目しりめに、頭預は手を叩く。


「はい、時間がありません。すぐに練習なさい」


 相変わらずの無茶振り。

 しかし応えられないようでは、内教坊の伎女失格である。


小曲しょうきょく風の旋律を、如何どうにか……」


「それとも、管絃の何某なにがしかを編曲して――?」


 杜木と箭が額を突き合わせて、唸る。


「乱舞、走舞――乱舞? いっそ童舞わらわまい風に……。いや、老女が集まって童舞は無いわ」


 山吹が頭を抱え、藤袴が足さばきを確認する。


「やっぱりくくばかまでないと、転ぶわね」


「そりゃそうですよ。無茶ですよ」


 思わず天を仰ぐ卯の花だった。


「でも乱舞ってことはがくに合って、それなりに適当に舞え――ということなんですよね?」


「簡単に言ってくれるわね」


 藤袴が苦笑する。


「いやまさか。ですが、乱舞とはまた……」


「確か女院様は田楽でんがくがお好きだから、その系統だと思うのよ」


「ああ、田楽。なるほどそっち系」


 顎に手を遣り、卯の花は目を細めた。

 なるほど。


 田楽は、古来より国や人々の生活を支えていた稲作にかかわる行事や祭礼などから生まれた歌舞をいう。

 もとは五穀豊穣ごこくほうじょうを神に願う人々の儀礼から生まれたと考えられ、稲作の作業をする様子を演じることで、秋の豊作を予祝よしゅくするものと、田の神をもてなすために歌をうたい、舞いながら田植えをすることで豊作ほうさくを願うものがある。


 郁芳門院の好む田楽踊でんがくおどりは、田植の音楽からはじまって舞踊となり、やがて雑芸となってその演者に専門の法師を生じた。

 田楽法師でんがくほうしは神社の祭礼などにも出た。

 水干をまとい、括り袴をはき、緒太おぶと――緒の太い藺草で編んだ草履――を履き、編木びんざさら――ひのきや杉、竹の細片さいへん十数枚をじたもの――などを持つ。

 頭に被る笠は、飾り藺笠いがさで、風流ふうりゅうといって蓬萊鶴亀ほうらいつるかめ等がつくられている。


 編木びんざさらのほか、締太鼓しめだいこ銅拍子どうびょうし・笛などの楽器を用い、散楽さんがく系の高足たかあし(足場の付いた一本の棒に乗って飛び跳ねる芸)・刀玉かたなだま(数本の短刀を空中に投げ上げては手で受け取る曲技)などの曲芸も交じえた。


 そう。曲芸。


「明るく楽しく朗らかに、ね」


「そういうの得意でしょう、射干玉の君」


 藤袴が水を向ければ、射干玉はにこりと笑った。


「はい」


 躊躇ためらいが無い。


「若いって凄いわね」


「凄いですね」


「貴方も若いわよ、卯の花の君」


「一応年齢だけは若いですけども。――それはさておき、やっぱり毛縁けべり着て、ちゃんと身繕みづくろいをした方が良いですよね。御前にはべる訳ですし」


「まあ、そうねえ。水干で色合いを揃えても、涼し気で良いかもしれないけれど」


 毛縁は裲襠りょうとう――儀式の時に武官が礼服の上に着用した貫頭衣型の衣服――の舞楽装束で、にしき唐織からおりの生地に、縁取りは生糸や麻糸を束ねた房飾りを囲むように巡らせた物である。主に走舞で使用される。


 きらきらしい衣装は他に、主に武舞で着られる金襴縁きんらんべりなどがある。


「見苦しいさまをお目に掛ける訳にはいかないわね。かと言って、正装では却って興が削がれるかもしれないし」


「――難しいですね」


他人事ひとごとの様に言ってないで、卯の花の君、貴方もですよ」


「いや、わかってはおりますが、頭がついていかず。――取り敢えず練習します。何かを」


「何かをね。即興よ。上手い具合にちゃっちゃっと」


「簡単に仰いますけど……」


 すぱぁん、と鋭い手拍子が鳴った。


「皆さんやかましい。時間がありません。手早く」


「はい、山吹先輩!」


「すみません!」


 山吹の一括に、卯の花と藤袴は姿勢を正し、稽古に入った。


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