花の色にそめし
花の色に染めた着物が名残惜しいので、衣替えをするのは気が進まない今日であるよ。
桜も散り終え、若葉萌え、藤も終わりに近付いて。
古歌には、月光のようとも雪のようとも詠われる、卯の花。
枕草子にも取り上げられている。
卯の花は品が劣っていて何ということもないけれど、咲く時期が良い。
祭の
青色の衣の上に、白い
自分の名に掛かっているからということも、あるのかもしれない。
表が白、裏が青のこの色目は、春は「柳」、夏は「卯花」、秋は「菊」と呼び方を変え、同じ衣類であっても、季節ごとの風情を楽しんだ。
青き濃き薄き・白き一・紅梅濃き薄き。白き
花橘は山吹濃き薄き二・白き一・青き濃き薄き。白
藤は薄色の匂ひて三・白表二。裏、青き濃き薄き。白き
今は
幾多の袖が翻るのが花吹雪のようだ。
藤に
「
いくぶん気が急いている様な仕草で、老齢の男性が現れる。
五位の
「あら別当殿」
「いらっしゃるとは珍しいこと」
「何かございまして?」
普段おっとりしている内教坊別当にしては、やけに慌てた様子だった。
それこそ、衣に皺がよる程度には。
遠慮のない伎女らの歓迎に、別当は袖で額をそっと拭う。
「やれやれ皆さん相変わらずの
「お
頭預の切れ味も相変わらず鋭い。
別当も、即座に用件に入った。
何やら本当に急ぎらしい。
「
走舞は舞台上を活発に動き回る舞である。
弾物は琵琶、筝、和琴を言う。
さて、舞楽は歌に合わせる
国風歌舞は
左方・右方の舞は三種の
弾物を用いるのは何とも珍しい。
頭預が小首を傾げた。
些細な仕草も優美なのは流石である。
物言いはきっぱりと怖いくらいなのに、指先一つまで優雅だ。
「
吹物は
打物は
この内教坊の伎女であるのならば、最低限、笛と手拍子があればそれなりの形には舞える。
それなり、というのは誰に披露しても恥ずかしくない程度、ということだ。
国の最高峰の楽人、舞人たちなのだから、当然である。
「
場が
「
郁芳門院
帝の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)は前代未聞であり、廷臣たちの反感を買った上、更に女院号まで宣下された、かなり特殊な位置の方なのだが、それはまた別の話である。
御年二一。
容姿は麗しく優美であり、
また、朗らかで気安げでもあった。
舞楽を好み、
「貴方、弾物で上手く踊れて?」
「ええ、自信無いわあ……」
「即興で何事かが得意な者が、良いでしょうね」
「いや、拍子が無くては舞えないでしょう」
途端に
「
「
頭預がコホンと小さく咳払いをする。
「即興で舞える者と若い者を幾人か。まず
「っ、はい!」
まさか名が挙がるとは思っても見なかったのだろう。
上気した頬が桃のようだ。
「貴方、
「光栄です!」
両手に拳を握り鼻息は荒く。
猪、と思ったのは内緒にしておこうと、卯の花はそっと視線を逸らせた。
「山吹の君、藤袴の君は外せないでしょうし」
「いや
「ええ流石に無理が」
慌てる藤袴、山吹がうんうんと頷く。
頭預は無視して言葉を続ける。決定事項らしい。
「琵琶は
「えっ、はい?!」
まさか名が挙がるとは思わなかった卯の花は、思わず目を
「若いのですから、貴方は当然でしょう。舞人の方で」
盛大に引き攣った顔を
「はい、時間がありません。すぐに練習なさい」
相変わらずの無茶振り。
しかし応えられないようでは、内教坊の伎女失格である。
「
「それとも、管絃の
杜木と箭が額を突き合わせて、唸る。
「乱舞、走舞――乱舞? いっそ
山吹が頭を抱え、藤袴が足
「やっぱり
「そりゃそうですよ。無茶ですよ」
思わず天を仰ぐ卯の花だった。
「でも乱舞ってことは
「簡単に言ってくれるわね」
藤袴が苦笑する。
「いやまさか。ですが、乱舞とはまた……」
「確か女院様は
「ああ、田楽。なるほどそっち系」
顎に手を遣り、卯の花は目を細めた。
なるほど。
田楽は、古来より国や人々の生活を支えていた稲作にかかわる行事や祭礼などから生まれた歌舞をいう。
もとは
郁芳門院の好む
水干をまとい、括り袴をはき、
頭に被る笠は、飾り
そう。曲芸。
「明るく楽しく朗らかに、ね」
「そういうの得意でしょう、射干玉の君」
藤袴が水を向ければ、射干玉はにこりと笑った。
「はい」
「若いって凄いわね」
「凄いですね」
「貴方も若いわよ、卯の花の君」
「一応年齢だけは若いですけども。――それはさておき、やっぱり
「まあ、そうねえ。水干で色合いを揃えても、涼し気で良いかもしれないけれど」
毛縁は
きらきらしい衣装は他に、主に武舞で着られる
「見苦しい
「――難しいですね」
「
「いや、わかってはおりますが、頭がついていかず。――取り敢えず練習します。何かを」
「何かをね。即興よ。上手い具合にちゃっちゃっと」
「簡単に仰いますけど……」
すぱぁん、と鋭い手拍子が鳴った。
「皆さん
「はい、山吹先輩!」
「すみません!」
山吹の一括に、卯の花と藤袴は姿勢を正し、稽古に入った。