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第3話

「きっと激励に来たんだ。今あの人達は正念場だろうからね」

「ああやって叫び散らすのに?」暇人だなぁ、と悠里は顔をしかめる。

「何事にもさ、時期っていうのがあるんだよ。本当なら絶対に誰も受け入れないような事だって、時期がよければ案外あっさりとみんなに受け入れられたりするから」

 横断幕を持っていた男は車の中の男を見ていてもなお、態度はとても丁寧だった。まるで親に怒られるかどうか、体を強張らせておどおどと確認している子供のようにも見える。車の中の男が優しげな面持ちのままで口を開くたび、それに応えるにしてはあまりに油が切れてきしんでいるような動作で彼は頷いていた。大きく何度も首を上下に動かす。そんなふたりの様子を眺めていた智和の視線は、気づかない間に智和自身が工藤悠里に注意していた通りのものになっていたらしい。最後にひときわ大きく、頷いているとも別れの挨拶で頭を下げているとも受け取れる項垂れ方で背中を丸めた男に、会長は物静かに目を細めた。話の終了を意味する、開いていた車窓がゆっくりと上に上がっていき、男の顔を隠していく。目が隠れる、と思ったところで、ふいに男の目が動いたのを智和は見た。

 絡み合った、というよりは、ぶつかり合った、というべきだろうか。互いに目があったのだと思って相手を見据え返す間には、他の窓同様に遮光フィルムの貼られた窓が智和の視線を跳ね返す。高級車はゆったりとした速度で動き出し、走り去っていった。

「宮野君?」どうしたんですか? と気遣う悠里の声に、智和は首を横に振った。

 笑われた、と一瞬思ったのだ。事実そうだったのかまでは確認しようとした直後に窓が上がりきって分からなかったけれど、目が合った途端に感じた事をそのまま信じるのなら、男は細めていた双眸をさらに引き伸ばすようにして笑いの形を作っていた。もちろん、目だけの表情だ。声は聞こえるはずもなく、何よりも分かりやすい笑みを作れそうな唇はすでに遮光フィルムで見えなくなっていたから、一瞬ぶつかり合って見た眼差しが細められるのを智和は、あの男が笑ったのだと受け取ったのだった。

 ひび割れた音声が再び、今度ははっきりと空気を劈くのに似た不愉快さで響き渡った。思わず耳を塞いで、そんなに張り切らなくたっていいのに、と眉をひそめてしまいたくなる。

「能力者には能力者の特別な義務があるはずだ!」と、横断幕の真ん中に引き返した男がマイクを握り締めて叫んでいる。口を開くたびに飛び散る唾が目に見えるようだった。「学校に行き、様々な事を学ぶのは結構! しかし、能力者は一般人とはまったく違う力を持った人間であり、それを考慮にも入れずに同じだけの人権を主張する権利が果たして能力者にはあるのだろうか! 我々、能力者の力の管理を望む、満天会の要求することはひとつである! 能力者の力を正しい方向に使用するため、見境のない自由は与えるべきではないのである!」

「――もう行こうか」聞いてても決して愉快な気分にはならない、腹を立てたってむなしい気持ちになるのはこっちだ。

 悠里は、こくりと頷いた。


 寮の玄関で靴を脱いで下駄箱に入れた時、ちょうど後ろから声をかけられた。「あ、先輩。今日は珍しくひとりじゃないんですね」振り返らなくても誰だか分かるぐらいには聞き慣れた女子生徒の落ち着いた声は、さてこれからどうしようかと悩んでいた智和には両手を打ち鳴らしたくなるタイミングで、まさしく、「ああ。柏木さん、ちょうどいいところに」と心のままの気持ちを言葉にして振り返る。

 同じように靴を脱いでいた柏木は少し目を丸くして智和を見た。何をそんなに歓迎されているのか分からない、といった表情をしている。

「工藤さん」隣で下駄箱に靴を入れていた悠里を呼んで、智和は指を揃えた手のひらを柏木へと向けた。「こっちは、柏木留美(かしわぎるみ)さん。学校の二年生で、生徒会書記をしてくれている子なんだ」言って今度は柏木にやっていた手のひらを先をくるりと悠里のほうへ向ける。「柏木さん、この人は工藤悠里っていって、今日僕のクラスに転校してきた子なんだ。恩田先生にいろいろ面倒を見てほしいって頼まれたんだけど、考えてみれば、寮のことは僕が教えられることなんてほとんどないからね」

「恩田先生も無茶なことを頼みますね」気の毒そうに柏木は眉根をよせる。

 悠里が首をかしげた。「どういうことですか?」ひとりだけ会話から放り出されているのに憮然とするわけでもなく、訊ねる様子は至極当たり前に分からない事をただ質問しているといった感じだった。智和を見て、柏木を見て、そうしてからもう一度視線を戻して智和の顔で落ち着いたのも、どちらかといえば智和のほうがまだ喋った事があるからぐらいの差だろう。

「ここは、双葉寮っていうんですけど」応えたのは柏木だった。智和の返事を奪うというよりは、初対面でも同性としての親近感で話しているようだった。「同じ形の建物が二つあって、一階でだけ繋がってるんです。左側は女子棟で、右側が男子棟なんですけど」視線を左右に振って最後に悠里を見る。「生徒会長でもなんでも、男子は女子棟に入っちゃいけないし、女子は男子棟に入っちゃいけないから。先輩としては工藤先輩のことを寮監に任せようかとか悩んでたんだと思いますよ」

「玄関と食堂と寮監室、浴場と、後は応接室ぐらいかな。男女問わず入っていいのは」共同スペース以外は全部、各棟に設けられている。

「恩田先生も最初から寮生活の女の子に頼んだら良かったのに、どうして先輩に頼んだんでしょうね?」不思議そうに柏木は首を傾げた。どの道、寮にまで帰ってしまえばここから先は智和がどれだけ心配したところで、誰か別の女子生徒に悠里の世話を頼むしかない。だったら最初から女子生徒に頼んだほうが手っ取り早いではないか、というのも一理ある、もっともな意見だった。

「生徒会長として生徒を守る義務があるらしい。なんとなく、寮の細かいところまでは考えてなかったんじゃないかなとも思うけど」

 柏木が彼女らしい、控えめな笑みを浮かべる。同意してうなずいた。「ありえそうですね、恩田先生って案外ずぼらだから」

 三週間ほど前に非常勤講師として学校にやってきた恩田教師は、個々の能力における応用術などを理論的に教えるのが仕事だったが、その授業内容といえば滅茶苦茶すぎて理解できないと生徒の間では不評だった。言っている事の根拠やそこから展開される論理は間違ってないし、その上で実践を主にした授業が一方で人気があるのも確かだったけれど、たまに途方もなく別次元の高度さを求められてしまうのでついていけなくなることがざらにあるのだ。一度反論したことがある。するときょとんと目を丸くして、「あれ。これぐらいのレベルでいいんじゃないの?」と返してきた。

 学校が生徒に求める能力の応用レベルは精々、小手先のものだろう。完全に能力を掌握できれば御の字で、後の応用はどちらかといえばお遊び程度のものだ。

 けれど恩田教師がたまに突拍子もなく生徒に求めるレベルは、お遊びと気軽に触れられるものとは程遠い。

「学校の生徒に軍人か能力者共生機関の調査員並みの技術を求められても、困りますよね」

「そのくせ恩田先生は、僕らが軍人になったり能力者共生機関の調査員になったりするのはあんまり嬉しくないみたいだね」あの学校の正門で叫び散らかしていた市民団体――満天会が求めているところの、学校に在学している時点で軍人や調査員に将来就職する事を義務付けるのに肯定的に受け止めている教師も学校内にいたりする。ただし、満天会の「見境のない自由を与えるべきではない」という論理そのものに毒された教師もいれば、単純に能力者が受け入れられやすい職場を考慮するとこの二点かさもなくば警察ぐらいだろうと考えて、生徒達の安泰な未来のために進路の規制を望む教師もいた。そのために必要になってくる、高度な能力応用技術を恩田教師も生徒に望んでいるのか、と最初の頃は思っていたけれど、どうやらそうではないらしく、恩田教師の学校内での立ち位置は独特というか、微妙な感じさえするのが現状だ。

 教師の勢力図に真剣に興味はないけれど、どっちもつかずでふらふらしている恩田教師に両陣営が警戒心を抱いているのは傍目からでもよく分かる。

「でも私、恩田先生は好きなほうです」締めくくるように柏木が言った。「なんだかんだで私達のことを気にしてくれてるって思いますし、能力者でも自由に生きるべきだ! って正論を言っているつもりで押し付けてる先生や、その逆の先生にはない信頼みたいなものを感じますから」

「確かに」と、智和は頷く。

 三週間しか恩田教師とは時間を共有していない。にも関わらず、信頼されていると思えるのはやはり、口先だけではない何かを感じ取れるからなのだろう。言葉では伝わりきれない何かを、恩田教師から受け取っている証拠のように思えた。

 女子棟の二階に上がる階段のほうへ歩いていくふたりを見送ってから、智和も自分の部屋のほうへ足を向けた。右側廊下突き当たりの階段を上って二階からが生徒の部屋になっている。

 階段の最初の段に足をかけた時だった。「堅物で有名な宮野生徒会長でも、あんなかわいらしい女の子と一緒に寮へ帰ってきたりするんだね」どこからどう聞いても冷やかし以上のものにはならない面白半分に楽しげな声が、智和の足を引き止めた。立ち止まって振り返る先で、味気ない応接室の扉が小さく音を立てて閉まる。その扉のドアノブを握っていた手を離し、ひらりと振って、応接室から今出てきた男はにこやかに微笑んでみせた。挨拶代わりの、世間的には人好きしそうな笑みである。

 対して智和が眉根を少し寄せたのは無意識だった。なんでこの人がここにいるんだ、と思ったのが遠慮がちに表情に滲む。「瀬田さん、」言いたい事をふんだんに詰め込んで、目を細めた。

「さっきの子、確かにとてもかわいかったと思うけど。でもあそこまであからさまに一緒に帰ってくることはないんじゃないのかな。いや、宮野生徒会長に限って、不純異性交遊をしているとは全然思ってないんだけどね」不純異性交遊、の部分だけ英語のような巻き舌のイントネーションで語ってから、彼は肩をすくめる。おどけた仕草だ。「本当にもてるんだし、今のうちから一人の女の子に決めておくなんてもったいないことこの上ないよ。遊びだって分かるぐらいで付き合っておいて、本当にいいなぁとか思い始めたら真剣交際に切り替えればいいんじゃない? これ、経験者のアドバイスね」


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