「宮野君はさ、学校卒業したらどうするの? 三年生なんだし、進路とか決まってるんでしょ?」腕時計を再び袖の下に隠して瀬田は首を傾げる。
それって必要な事ですか? と聞き返して返事を拒むことも出来たけれど、大して大事なことでもなかったので応えた。「進学します。大学に行っているうちに、景気のほうもよくなるのかもしれないですから」
「へぇ」意外そうに目を丸くする。「奨学金で?」
今度こそ、そんなのあなたに関係ないですよね、とでも言い返してやればよかったのだけれど、「違います」と、ほとんど言いがかりを撥ね付けるような気持ちで断言していた。ぐっと言葉を呑む。自分のいった言葉にやり込められてしまった敗北感に唇を一度かみ締めてから、息を強く吐き出して言い切った。「ちゃんと両親と相談しましたし、合格できたら入学金とか授業料とかも払ってくれるって約束してくれましたから」
遠く離れた地方に住む両親にしてみれば、家の事情で息子に長い間ずっと寮生活を強いている遠慮みたいなものがあるのだろう。進学したいと言ったのは智和だったけれど、両親のほうは別に進学だろうが就職だろうが好きに選べばいいと思っていたようで、進学するという息子の言葉に対して特に何か質問があるわけでもなかった。普通の家庭なら当たり前にあるだろう、どの大学を受けるのだ、とか、成績は大丈夫なのか、とか、沸いてくるはずの質問も一切ないままで、入学すれば年間いくらほどかかるのだ、というのが唯一の質問だった。
――ありがたくは思っている。能力者に生まれて、家の都合で学校に預けられそのまま寮生活を送っている生徒達の中には、そもそも親と絶縁状態のものもすくなくはない。能力者組合が経営している施設は高等学校までなので、それ以上の学歴や勉強を望めばまず当座の資金が必要となってくるが、戸籍上の親に頼んで工面してもらえるケースは稀だった。高校まで出して義務は果たしたのだから後はもう何もしない、と言う親がほとんどであるのが現状だ。無論、中には最初から、親子だとは思っていないから金を出すつもりはない、と小中学校の費用さえ拒否する親もいる。
「あぁ、ごめんごめん」瀬田の口調は軽々しかった。現状を知っているのはさっきの発言でわかる、その上で白々しく謝っているのだ。「ここにいる子ってみんな、親からは捨てられた子ばかりなんだと思ってたから」
「――瀬田さん。帰らなくていいんですか?」殴りたくなる衝動をかろうじて堪えて出す声の語尾はわずかに震えていた。このまま怒りに任せて殴り飛ばしてしまえるなら、とても気持ちがいいとも思ったけれど、踏み止まるための理由はうんざりするぐらい使い古したものだった。この警察官に暴力をふるって、それが世間に出て騒がれて、おそらくは満天会の口実となって彼らは今日のようにスピーカーで声を騒音にさせながら叫ぶ。能力者であるから見逃せない事件、能力者であるから将来への不穏な種は刈り取っておくべきなのだ。と叫ぶ。
想像できる簡単な連鎖に、沸いた怒りはすぐさま不機嫌な問いかけにすげ変わる。
瀬田は顔をしかめた。鼻白むふうにも見えた。「さっきの一応、君達の事を馬鹿にしてみたつもりだったんだけど?」
「そうだったんですか?」ちゃんととぼけられているかは別にして、智和はわざとらしく目を瞬いた。「馬鹿もなにも、能力者の子供を無責任に捨てる一般人の親の割合は依然として高いままですから。それは僕達みたいな能力者が悪いわけではないんですから、悲しい事ではあっても別に恥ずかしい事じゃありません」捨てられた事を恥じろ、能力者である事を恥じろ、と指をさして罵られても自分ひとりではどうしようもできない事なのだ。
頷いた瀬田は、さっきの失望したといわんばかりだった表情に薄く笑みをはいた。「たまに、学校の記者会見に君も出たらいいのになって僕は思うね。おかしな弁論をする先生達よりはずっといいと思うよ」言ってからまた、満足げにうなずいた。「先生に頼んで記者会見に出してもらうといい。未成年の主張ってやつでね、多少筋が通ってなくても、若気の至りで許されることもあるから」
褒めているのか。さっきの延長線上のまま、とりあえずは遠回しに揶揄しているのか。瀬田の顔を見据えた程度では、判じられなかった。
「一応言っておくけど、今のは褒めてるんだからね」智和が向けてくる眼差しに胡乱げなものを見つけた様子で瀬田は肩を露骨に落としながら言った。どうして信じてくれないのかね、とでも嘆くように首を振ってから、「まあ。いいんだけど」完全に自己完結するつもりのようにぽつりと付け加える。
そうして、「じゃあ。まあ気をつけてよ、犯人が見つからない時点じゃ、ここに住んでる子はみんな容疑者候補みたいなもんなんだからさ」と、他の気の短い生徒が聞けば即座に掴み掛かっていそうな暴論をさりげなく置き土産にしてから瀬田は立ち去る。玄関まで見送るほどの親しさも礼儀も、彼相手に持ち合わせているつもりはなかったので、「僕達みんな未成年だから、犯人だと思ってもそうそう根拠もなしに捕まえられやしないでしょ」売り言葉に買い言葉の要領で、自分でも随分と不遜だと思う事を言ってみる。
「世の中には別件逮捕っていう言葉もある」対する瀬田の口調はいかにも、いい事を教えてやるとばかりに偉そうだった。「難癖をつけられても怒りに任せちゃいけないってことだ。はっきりいってこんな助言、君には一番意味がないと思うけどね」立ち止まり肩越しに振り返って笑んでから、ひらりと手を振って玄関のほうへ消えていく。思わず、その姿を遮った壁を見据えていた智和は眉をひそめた。――さっきの、瀬田本人が言うところでは、宮野智和を馬鹿にしたらしい発言で、彼は智和が殴りかかってくるのを期待していたのだろうか。殴られて怪我を負わされて、動かぬ証拠を手に入れてから、公務執行妨害でも傷害罪でも罪状を振りかざしてして現行犯逮捕とか考えていたのかもしれないと想像するのは少し、遠慮もあったけれど、瀬田の言い分はまさしくそこをついている。
息をついた。深く長く、体の底のほうにある暗澹として重たいものも吐き出すつもりで嘆息した。視線を階段のほうへ戻す。さっさと部屋に戻って休みたい、と心底思った。
――休みたいと思って部屋に帰ってきたのに、何気なくベットの上に投げ出していたテレビのリモコンを拾って電源を入れると、今の疲れた気持ちをさらに下降させるには十分な声が小さめの音量を精一杯膨らませながら智和の耳に入ってきた。男の癖に甲高く、子供じみているといえばその通りの熱のこもった叫びだった。叱責、というよりは罵倒に近いのだろうが、それでも激昂しながら冷静に回転させ続けているだろう頭の中で言葉を選んでいるのはよく分かる。相変わらず、人が自分の発言を聴けばどう思うのか考え抜いての主張が、男はとても上手だった。
のろり、と、目を動かして、テレビを見る。ローカルチャンネルを示すチャンネルの下に、生討論会、とテロップが出ていた。
「……だから、貴方達の言っている人権っていうのはですね、別に能力者だけが持っているわけではないんですよ。一般人も当然持っているわけでね。というより、人口比率はご存知ですか。九割と一割ですよ? 貴方達が保護しようとしている者は日本国内に一割しかいないわけです、それで、その一割の待遇改善を無理に行うために九割の人間の人権侵害を行っている。おかしな話だとは思いませんか?」
寮の一室に取り付けられているテレビなので無論、型はとても古い。電化製品としては家電量販店はもちろんのこと、リサイクル業者でもそろそろ扱うところがなくなっていそうな奥行きばかりが大きいブラウン管テレビは、勉強机の隣にあるカラーボードの上に重たげに鎮座している。それでも場面自体はとても小さくて、机の上にちょこんと控えめに乗っているノートパソコンの大きさと大差なかった。以前ごみ集積場に捨てられていたのを拾ってきた代物だ。
当然画質なんてものに期待できるわけもない。寮の食堂や共同スペースに設置されている液晶テレビと比べるのも気の毒になってくるほどの荒い映像はいま、一人の男を映している。白雪の姫にでも出てきそうな気のいい小人の顔をして、彼は大きく頷いた。「一般の、何の能力も持たない人間は不安なんですよ」と、続ける。場面の下側、ちょうど男のきっちりと締めているネクタイあたりの場所に、丁寧に男の紹介が表示されていた。――能力者の力の管理を望む満天会会長、岩崎洋一郎。能力者の積極的な社会貢献を目指す活動家。
社会貢献って何のことだ、と智和は初めて知る言葉を反芻するような気持ちで顔をしかめる。
「だってそうでしょ?」アングルはとうとうと言葉を続ける岩崎会長ばかりを映しているので、彼の発言に他のコメンテーターや司会がどんな表情をしているのかは分からなかった。感嘆交じりも、諦観じみたものも、声どころかため息のような呼気ひとつさえ、会長の話の合間に入り込んでくる様子はない。「一般人と能力者の力の差は明らかなんですよ。普通に生きていても歴然とした差があるわけです。驚異的な身体回復能力だけではない、個々に別の力があることも最近の研究で分かってきました。人に暗示を刷り込んで思いのままに動かせたり、人の心を読んでしまえるそうじゃありませんか。私だったら怖くて仕方ありませんね、人を殺せと暗示を受けて自分の意思もないままに他人を殺してしまうかもしれない。預金通帳の暗証番号を読まれて、盗まれてしまうかもしれない」
「結局、岩崎さんの言うことは全部、可能性の問題なんですよね」冷静な反論、というよりは同じだけの熱と岩崎への嫌味をちらつかせた声が彼の持論に割り込んでくる。
よこされた揶揄にさして気分を損ねた様子もなく、岩崎は物静かな仕草で視線をすっと滑らせた。その眼差しを追いかけてアングルを変えた場面には、眉根を寄せていかにも不機嫌そうに顔をしかめている女性が映る。五十も半ばといったぐらいの、薄化粧をした痩せた女だった。テレビ出演だから着飾ってはいるのだろうけれど、それでも薄ぼんやりとした暗さみたいなものが滲んでいる。なにがどう、とはっきり分かるわけでもないのにどうしてか、幸薄そうな陰鬱げな印象があった。
彼女の下にも紹介文が入る。能力者支援の会代表、坂田恵子。能力者が自立する支援を行っている。長男が能力者。と表示されていた。
「可能性の問題、ですか?」と、横合いから岩崎の声だけが入ってきた。坂田は寄せていた眉をそっと解いてから、小さく首を振る。
「可能性の問題じゃないですか。暗示なんて能力がなくなって、人を思いのままに動かしている人間はいくらでもいますよ? 新興宗教の教祖なんて、そのいい例じゃないですか。ほかにも、人の心を読んで預金通帳の暗証番号を手に入れるとおっしゃるけれど、一般人だってやりようによってはいくらでも、他人の預金通帳からお金を引き落とす方法があります。岩崎さんは一例をあげて、能力者が危ないと主張なされますよね? でも、能力者でなくても出来る同じ行為には言及なさらない。それって卑怯じゃありません?」
移るアングルの先で、薄く岩崎は笑みをはいた。胸元で両手を打ち鳴らす。「一般人がする犯罪と、能力者がする犯罪をごっちゃにするのが何よりも貴方達のような、坂田さんのような方が陥りやすい盲点ですね」間違った答えを黒板に書いた生徒に優しく訂正を促すような声である。無論、生徒でもなければ岩崎に従う人間でもない坂田には不愉快すぎる猫なで声だったのだろう、「岩崎さん、何が言いたいんですか?」低い声が刺々しく問いかけの形になっていた。
「もちろん、坂田さんの言うとおりですよ。犯罪は何も能力者ばかりがするものではないでしょう。でも、一般人がしようと思えば道具も知識も必要になる。たとえば、そう、」一度言葉を切り、岩崎は視線を改めて坂田へ向けたほうだった。今まで一人一人の表情を映し続けていたテレビの画像がゆっくりと引いて、Uの字になったテーブルの両端で睨み合う、岩崎と坂田を映す。他にも四、五人が同じテーブルの席についていたけれど、誰もふたりの間に割って入る気配はなかった。顔を強張らせたり、面白そうに歪めたり、個々それぞれではあったけれど静観を決め込んでいるらしい。岩崎が再び、口を開いた。「坂田さんが今から急に他人の預金通帳から金を下ろしたくなったとする。さて、どうしましょうか?」