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第8話

「本当は、先輩に工藤先輩の事を頼まれたから、私が一緒に行くって言ったんですけど」申し訳なさそうに柏木は体をすぼませていた。「寮監が、女の子同士じゃ危ないからって外出を許してくれなくて」

 寮監は大きく頷いた。自分の考え方は正しい、と肯定する所作の後で、「そんなのは当たり前だろう。留美ちゃん」慰める口調で続けた。「切り裂き魔は今のところ、満天会のメンバーやその縁者ばかりを狙って事件を起こしているみたいだから君達に直接的な危害は加えないかもしれないけれど、問題はその事件に便乗してくる連中のほうだ。報復だとか正当防衛だとか、正義だとか、聞こえのいい言葉を並べて攻撃してくる連中なんていうのはね、図体の立派な男をわざわざ狙ったりはしないんだよ。弱そうな女の子から狙ってくるものだ」

 確かにいくら物理的な攻撃に対しての驚異的な回復力があるとはいっても、女の子がふたりで街中に出る、といわれてしまうと、いいようもなく心配になってくる。

「分かりました」状況は飲み込めたので、智和は相槌を打つように言葉を挟んだ。「とりあえず、駅前のデパートまで行って、その、――工藤さんの買い物をしたらいいって事ですよね?」服や下着、と浮かんだ言葉を咄嗟に別の言葉に変えて質問したので、自覚する不自然な間の後の声は随分と早口になった。背中で庄治が声を立てずに笑っている気配が伝わってくる。初々しいのを微笑ましく眺めているようにも、からかい混じりに観察しているふうでもあるから、振り向いて睨みつけるのも自分の弱みをさらすようで、どうにか踏み止まった。代わりに耳朶が赤く熱を持つのを感じて、気恥ずかしさがそのままそこへ集約されたみたいに両手で隠してしまいたくなった。

「寮監!」庄治が、先生!、と教室で挙手するような口調で言う。実際に後ろを見れば、手をまっすぐに伸ばしていそうな気がした。「俺もついて行っていいですか!?」はきはきとした質問の仕方はむしろ、一緒についていっても絶対にかまいませんよね? と念を押しているふうにも聞こえる。反論を言われても、さらさら聞くつもりはないだろう。

 対して、「君を外に出すのは不安だから却下、だね」にべもない言い方に有無を言わせぬ笑顔を添えて、寮監は頷いた。この決定は絶対に覆らないのだろうな、とこの場にいる全員が即座に理解するのに十分な代物だったけれど、彼がそうして見せたのは束の間で、すぐに笑みを柔らかく崩して、それからゆっくりと眉根を寄せて嘆息をついた。

 これで顔をあわせてから何度目だろうか、智和は頭の中で数えそうになったけれど、すぐにやめた。寮監がため息をつく分だけ、迷惑や心配事をかけているのが自分達――子供なのだと分かっている。

「本当なら智和君が工藤さんと一緒に外に行くのも反対したいぐらいなんだよ。そこに庄治君まで加わるのは心配ごとをわざと増やそうとしているのとそう大差はないでしょ」ため息をつくように言ってから、寮監は首を横に振った。「それに智和君はいざとなったら能力で暴漢でもなんでも追い払えるけど、庄治君の能力はそっち向きじゃないからね。何か問題が起こった時に、智和君の負担になったら一緒にいる意味もなくなってしまう」

「でも、智和が敵を足止めしている間に俺が、工藤さん、を連れて逃げる事は出来ますよ?」

ほらほら俺だって役に立つかもしれないじゃないですか、と得意げに言う庄治に智和は向き直り、遠慮なく頭をはたいた。「痛!」拳でもないのだし、さして痛いはずもないのだけれど露骨に、分かりやすいほどに白々しく顔をしかめて恨めしそうに向けてくる親友の眼差しを、こっちは半ば呆れたように細めた目で受けとける。「俺を置き去りにする案をよくもまあ、提案できるもんだな」

「だってさ。お前一人ならそれこそ、暴漢のひとりやふたり、三人や四人ぐらい、わけないだろ? 逆に邪魔になるんなら俺達がいなくなったほうがいいし」

「お前に工藤さんを任せる事のほうが心配だ」思わずため息をつく。素行、という学生には常に付きまとってくる単語もなんのそのな親友を嫌っているわけではない、むしろ逆で、生徒会長なんて肩書きにふさわしくいようとする自分とは全然違う彼に憧れめいたものを抱いているのが事実だった。けれど、イコールでその感情が、庄治に対する何事にも勝る信頼になっているかといえばそうでもない。頼りになる親友ではある。が、長年付き合っていれば、親友の欠点ともいうべき悪癖にも、何度も痛い目を見る羽目になる。

「はいはい。まあ、そのあたりにしてね」両手を胸元で二度三度叩いて、寮監は話の終了を宣言した。「とりあえず、智和君は工藤さんと一緒に買い物に行く事。で、留美ちゃんと庄治君は寮でおとなしく待っている事。外出許可の書類は二人分から受理しないからね。下手に外に出てふたりを追いかけて行ったりしたら、校長先生からきついお仕置きがあると思ってくれていいよ。一ヶ月間、ひとりで風呂掃除とかしてもらうから」やんわりと緩んだ唇から告げられたので、最後の部分は本気なのか冗談なのか判断しかねた。

 寮生がグループごとの交代で掃除している共同スペースのひとつ、浴場は、寮に入っている人間全員が使用する場所だからとかく広い造りになっている。そこを一ヶ月間ひとりで掃除しろ、というのは当然罰則としてはかなり重たいものだ。極刑、といってもいいぐらいである。

 しかし、柏木はともかくして、処罰の常連になっている庄治には、このぐらいの少し行き過ぎているお仕置きをあらかじめ提示しておいたほうがいい、と寮監が判断したのはある意味でとても正しい事だと思えた。実際、付いていけば極刑、とシンプルに宣告されてしまった親友の表情からは見る間にやる気のような、好奇心のような、そういう積極的なものが流れ落ちてしまっていた。完全に首を突っ込もうという野次馬根性めいたものが消えうせると、ため息なのかあくびなのかはっきりとしない呼吸を口から漏らして、こめかみを掻いている。

「俺って信用ないなぁ」と、独り言。

 顔をすこししかめた寮監は、「僕は君達が心配なんだよ」子供を殴った事を後悔する親みたいな言い方をした。庄治の独り言に内心申し訳ない気持ちにでもなったのは明らかで、「一般人の人は、君たちは大怪我をしたって絶対に死なないと思っているけれど。心は死んでしまうんだよ、他人からナイフを突きつけられて刺されて、それでおいおい平気な顔を出来るほど君達は、超人でもなければ神様でもないんだから」

「分かってるって。そういうことは」庄治のそれは、相槌を打つというよりも、うんざりしてきた事を払いのけるふうなものだった。鬱陶しく周囲に漂っている煙を遠ざけようとするみたいで、でもそれよりは若干優しげである分苛立っているように見えるのは、寮監の気遣いをむげに出来ない彼自身の良心から来る反抗心なのだろう。「あー、それよりもさっさと智和たちを行かせたほうがよくないですか? 日が落ちてからだと余計危ないと思いますよ」フォローではなく矛先を別に向けたいのは明らかで、ほとんど言い逃れのように言ってから、目を智和のほうへやる。

 寮監は庄治を見て智和を見て、そうしてから靴箱の向こう側にある玄関のほうへ視線を一度投げてから、苦笑いしてまた智和を見た。

「そうだね。じゃあ、よろしく頼むよ」ポケットから財布を取り出して、抜き取った千円札を二枚、智和へ差し出した。

 受け取り際にふと智和の鼻先を何かがかすめていったようだった。確かにはっきりとした香り、とまではいかないけれど、長年染み付いてそうそう取れなくなってしまっているような匂い、とでも言えばいいのだろうか。もしかすれば、匂い、と断言することも難しいものなのかもしれない。

 咄嗟に眉をひそめてしまいたくなる類のものではない、逆に、顔をほころばせたくなるものでもない。単純に、いい匂いなのかそうでないのかも判然としないおぼろげな靄みたいなものだった。ただそこに漂っている。だから思わず深呼吸するように空気を鼻の奥へ吸い込んだのは、匂いの色のせい、ではなかった。いうなら、気配みたいなものだった。響き渡る靴音を聞いてこれは誰のものだったかと考え込むのに似ていた。そうして、簡単には答えが出てこなかった。

 前にどこかで嗅いだ事があるような匂い。頭の中で閃くように浮かんだのは、それだけだ。

「智和君?」寮監が怪訝そうな顔をする。中途半端に手を伸ばしてはいるものの、買い物の代金を受け取ろうとしない寮生に首を傾げた。「どうしたんだい?」

 なんでもありません。答えて受け取ろうとしたところで智和は遅ればせに匂いの正体に思い至った。見遣った寮監の端正な顔立ちに、重なるはずもない平凡な男の嫌味の効いた表情がだぶったのだった、そうしてからその男とつい数十分前に階段の下で顔を合わせたことも、嗅いだ匂いと言っていた言葉を、ほとんど同時に思い出していた。

「瀬田さん、応接室で煙草吸ってたんですね」寮内ではあれだけ吸うなと目くじらを立てていっているのに、ちょっとした隙を狙っては匂いを残していくようで腹が立つ。

 寮監のきょとんとした表情は、あれ瀬田って誰だったか、と一瞬悩んでいるように見えた。けれどすぐに合点がいった様子で頷くと、自分の不始末を指摘されたふうに苦笑いする。指でこめかみを掻きながら申し訳なそうに目を細めた。「あの人はヘビースモーカーみたいなものだから、煙草を吸っていないと死んでしまうんだよ。君達が傍にいないからいいか、とか思ってたんだけど、案外鼻が利くんだね、智和君は」

「珍しい匂いですから」感心されているというよりはむしろ、小姑みたいに余計な部分にまで眼が行く、と言われている気がして、あまり気持ちよくなかった。だから自然と眉をひそめて、瀬田の悪口を口にしていた。「でも寮監は禁煙しているんでしたよね? 傍で煙草なんて吸われて腹とか立たないんですか?」数ヶ月前までは喫煙室なるものがあるにはあったし寮監室で煙草をくゆらせていたのだが、最近の禁煙ブームに便乗した一部の教職員に押し切られる形で撤去されて以来、寮監がのんびりと煙草を吸っている光景を見た事はなかった。と同時に、煙草の匂いが寮内のどこかからともなく漂ってくる事もあまりなくなった。

 あれはね、きっと禁煙してるんだよ。ブームだから。と言っていたのは後ろにいる庄治だ。

「まあ、ようするに気合だからね」ますます苦味を深めた笑みになると、寮監の表情は本当に笑っているのか投げやりなのか分からないものになってきた。両手をズボンのポケットに差し込んで肩をすくめ、視線を天井へ放り投げる。「寮監なんてやってるのに煙草をやめられなかった事のほうが問題あるような気もするし。どうにか頑張ってるわけだよ」頑張ってる、の言葉だけ紙切れみたいにぺらぺらと薄っぺらい口調で言っている。とうの本人は全然自分が頑張っているとは思っていない、露骨に分かるほどに平べったかった。

 また壁時計を見遣り、片手を軽く持ち上げて、「じゃあ、よろしく」と寮監は踵を翻す。用事の時間が差し迫ってきているのか少し早足に廊下を去っていった。

「――なあ、瀬田って誰だ?」しばらくして怪訝そうに庄治が訊ねてきたのは、とりあえず買い物に行くにあたって悠里が制服のままなのは問題だから上に羽織るものを借りよう、ということで柏木が上着になるものを部屋に取りに行っている間の事だった。探すのに手間取っているのか、同じように服を着替えに部屋に智和が戻ってきても、柏木はまだらしかった。


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