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第9話

 庄治は智和が当たり前に口に出した人名を自分が知らないのはおかしいとばかりの、変な連帯感みたいなもので首を傾げている。「煙草を吸う、多分お前があんまり好きじゃない瀬田さん、だよな? お前が人を嫌うっていうのも珍しい気がするけど、誰?」見るからに険しくなっていく表情の下では、ぐるぐると高速で思考回路が回転しているのだろうが答えのほうはちっとも出てこない様子だった。

「警察官の人だよ」何の感慨もなく智和は答えを放り投げた。「話を聞かせてほしいって言われただろう?」

 初めて出会った時から瀬田は慣れ慣れしかった。まるでずっと以前から知っている近所の年下の子供を相手にするような言い方をして、親しいからこそ笑って許されるような斜め横に突っ切った物の見方を惜しげもなく智和に披露してみせた。

 庄治は顔を歪める。「そういえば、なんか学校の中に犯人がいるみたいな事を言ってた刑事がいたけど、そいつが瀬田って奴か?」口にする言葉そのものが気持ち悪いと言いたげに嘔吐する真似をした。「あのでっぷりとしていかにもメタボで、頭のはげてるジジィだよな?」目の前にその人物がいて睨みつけているつもりなのか、視線が次第に刺々しく険しくなっていく。

 智和は頭の中で、瀬田の容姿を思い描いてから、首を横に振った。

「いや、メタボでもないし頭もはげてなかったけど」庄治の言い方に簡単明瞭な悪意があるにしても、瀬田は肥満体型でもなければ頭がハゲてもいない。頭のほうはともかくとしても、太っているかいないかと聞かれれば、後者のほうである。「痩せてるよ。ひょろ長い感じだ。あの体型に文句をつけるなら、風が吹けばどこかにひょろひょろと吹き飛ばされていってしまいそうな感じだ、とか?」けれど性格のほうは、そんな体躯を地面に繋ぎ止めておく釘か支柱並みに図太いだろう。どんな悪評でも嫌味でも、簡単に折れない強さは持っている。むしろ楽しんで聞きそうだ、とは智和の勝手な感想であるけれど。

「誰だ、そいつ」わけが分からないと言いたげに庄治が首を振った。「そんな刑事、学校に来てたっけ?」指を折り始めるも、開いた左手の指の親指と人差し指と中指を曲げたところで首を捻る。

「たまたま庄治が会ってないだけじゃないのか?」今回の事件で何人ぐらいの警察官が学校にやってきたのかまでは知らないけれど、智和は自分でも今まで顔をあわせた警察官を数えてみた。生徒会長、という学校の生徒代表みたいな肩書きもあるので庄治よりは若干人数が多いかもしれない。一応、彼が悪態をついていた、メタボでハゲな刑事にも心当たりがあった。智和なりに付け加えるならば、いかにも中間管理職的な板ばさみが似合いそうな刑事、だった。

「でも、子供相手に名前を名乗るなんて律儀な警察官ですよね」ふたりの会話に口を挟むふうではなく、少し離れて佇む距離と同じぐらいの他人事で悠里が感想を言う。小さく首を傾げていた。「警察だから話を聞かせてほしい、みたいな感じで名前までは名乗らないと思いますから」

 得心した様子で庄治が頷いた。「その瀬田って奴はともかくとして確かに、あのデブでハゲな刑事の名前は知らないな」ちらりと智和を見る。

「別に、名乗れって催促したわけじゃないけど、」悠里の言う通り、他の警察官の名前はひとりも覚えていなかった。警察手帳の表紙だけを見せられて、事件前後に学校で変わったことはなかったかとか聞かれはしたけれど、そのやり取りの前後に律儀な自己紹介があるはずもない。向こうとしては、能力者組合が運営する高等学校の生徒会長である宮野智和、という肩書きの上で相対している様子で質問してくるから、宮野君、とごく当たり前の呼称で呼ばれていた。智和は単純に、刑事さん、と呼ぶ。わざわざ名前を聞いて呼んだりはしていない。

 多分、あの馴れ馴れしさを発揮して、瀬田は自分から名乗ってきたのだ。「刑事さんとかじゃなくて、瀬田っていう立派な苗字があるんだからそっちで呼んでほしいな。俺は」とでも言ったに違いない。――違いない、と想像している時点で実際にどんなやり取りをしたのかを忘れてしまっている事になるのだけれど、自然な話の流れで瀬田が名乗ってきたから記憶にないのだろう。と、智和は思った。

「瀬田さんっていう人だけ、特別なんですか?」悠里は首を傾げたまま、不思議そうな眼差しを智和へ向けてくる。

「どうだろ」率直な気持ちとしては、特別といえば特別なのかもしれないと漠然ながらに思う相手ではある。人の心中を、見透かさなくてもいい部分まで綺麗に覗き込んでは吸い上げて喋ってくる男なので、唖然とする事も動揺してしまう事も、腹立たしく思えてくる事もあった。ただ、単純明快に一言で表すのなら、とてもわかりやすい人物だ。

「油断できない人だとは思ってるよ」と、智和は答えた。

 気が許せてようやく話せるような、心の深く暗い部分に閉じ込めているものにまで、数回しか会っていない高校生の闇にまで手を伸ばしてくる事が、たまにある。

 君は本当はこんな事を思っているんでしょ? と、大人の癖に大義名分で飾るのも面倒くさいとばかりに、瀬田は掴んだどろどろの暗澹を差し出してくる。

 智和は息をついた。「人が腹を立てることを平気でどんどん言ってくるし、大人気ない人だとも思う」

「でも自分の名前を言うんだから偉いですよね」悠里は小さく頷いた。「非難をちゃんと受け止めようって思っているから名乗ったんだと思いますし」

「案外そういう殊勝な心がけじゃなくてさ」真剣に考えているというよりは、言葉遊びを楽しむ風なリズムで庄治は応える。「単に、自分の名前なんてどうでもよかったりしてな。自分の人生どうでもいいって思うのと同じみたいに価値なんて見出してないのかも」

 頭の中で想像した瀬田を遠目から眺めやるつもりで、智和は目を細める。庄治が言うような、そういう投げやりな感じの警察官ではなかったな、と思った。数回程度の会話しか記憶にない相手の何が分かるのか、とも苦笑いできるけれど、人を馬鹿にしてからかって、時たま無遠慮に人の領域を踏み荒らしていく彼の行動を、投げやり、の一言で片付けてしまうのは、智和としては不満だった。多分、その投げやりに、ついさっき気持ちを思う存分揺すぶられてしまったからだろう。

 瀬田のため、というよりは、自分の中の矜持みたいなもののために反論しようとしていた。口を開きかける。

 それを遮ったのは左側の廊下のほうから慌ただしくで近づいてきた足音だった。白い薄手の上着を両手に抱えて帰ってきた柏木が、「お待たせしました!」と紅潮した顔で、弾んだ呼吸のままで言う。智和は開きかけた唇を閉じて、なんとなく、ごまかすような気持ちで微笑んだ。

   * * *

 女の子の買い物。という状況から想像できるものを全部ひっぱしだして、智和は駅前にある古びたデパートの二階で悠里と別れた。

 婦人服売り場や下着売り場が入っている二階に男子高校生がひとりじっとしているのも恥ずかしいものがあるし、かといって下着を選ぶ悠里の傍に付き添っていたらそれはそれで、恋人同士の初々しさも通り越した間柄だと勘違いされそうで遠慮したい。「ゆっくり見てくれていいから」と上りのエスカレーターの前で悠里に言った時には、とりあえず三十分程度を見積もっていた。女の子の買い物は長い、というから、エスカレーターで四階に上がり、書店で時間を潰してから早めに待ち合わせの一階入り口へ向かう。まだ来ていないとは思ったけれど、この町にやってきたばかりの女の子を一人待たせるよりは待つほうがよかった。

 果たしてそんな風に気遣った智和を出迎えて、柏木から借りた白いコートを着ている悠里は小さく頭をさげた。「おまたせしました」

「あれ」目をきょとんとする。「もう買い物、終わったの?」

「はい」頷く悠里の手には、無難なデパートのロゴが入った紙袋が抱えられている。

 いいものがあった? とでも何気なく聞こうとしたところで悠里が何を買いにきたのかを思い出した智和は、「じゃ、じゃあ。帰ろうか」舌先で慌しく言って歩き出した。不自然な言い方には違いなかったけれど、後ろから、「そうですね」となんでもない調子で返ってくる声を聞く限り、そんなに気にするほどおかしくもなかったらしい。単純に無頓着すぎる、とも感じる口調でもあったけれど、気にされるよりはマシだろう。傍のデパートの自動ドアから外に出て、寮に帰る事にした。

 デパートを出ればすぐに、いかにもいまどきらしい寂れた商店街があり、その先に付け足されていたようにあるのが地元の最寄り駅だった。時間がちょうど帰宅ラッシュと重なっているので、いつもはまばらにも人がいない商店街を通り過ぎていく通行人たちがちらほらと目立つ。それでも、音を立てて人々が駅から溢れ出てくる、という様子ではない。水道の蛇口をしっかり捻り忘れていた結果、ぽたぽた、と速いリズムで落ちていく水滴ぐらいの速度だろう。しかし今日に限っては少し、その速度も速い気がした。

 悠里が顔をしかめる。聞くに堪えない騒音ながら露骨に耳を塞いでもいいものだろうか、と悩んでいる風でもあった。「あれって、どこでもやってるんですね」呟いて視線を駅のほうへと放り投げる。商店街を過ぎていく人達の足取りがいつにもなく速く感じる理由を細めた目で捉えた。

 車の上に取り付けているスピーカーから響き渡っている声はさすがに、商店街の中程にいる智和たちの耳を劈くほどの強さも不愉快さもなかった。けれども、吐き捨てられている言葉の剣呑さのほうは相変わらずで、能力者は危険だの管理すべき存在だの、と学校の正門で叫んでいた事をそのまま録音して再生しているような一辺倒過ぎる調子で叫んでいた。言葉のボキャブラリーが少なすぎると呆れる一方で、彼らの言いたい事というのも結局はそのあたりに集約されてくるのだろうな、とぼんやり思う。

「あんまり立ち止まりませんね」駅へと視線を投げたまま悠里が言った。

 満天会のそれを律儀に立ち止まって聴いているのは精々、智和達と片手で数えられる程度の人数でしかない。駅から出てきた通行人たちはさっさとその場を立ち去っていく、歩みを止めて聞き入ろうとする様子はほとんどなかった。それでも叫び倒す調子を崩さずに、言葉を変え表現を変え、同じニュアンスの事ばかりを彼らが繰り返しているのは滑稽に見えた。同じぐらいに傲慢にも映る、とにかく誰かに自分の意見を聞いてほしいから主張し続けるのではなくて、単純に、叫びたいから叫んでいるようだった。

「あんなものでも、結構支持は集まってるんだよ。意外な事に」立ち止まったりはしないけれど、通り過ぎていく通行人達の果たして何人が満天会の主張に共感しているのかと想像すれば、智和は仕方なしにも項垂れて落ち込むしかなかった。興味はなくても、能力者の力を管理する事に意味はあると思う、と答える一般人は一ヶ月前の事件を皮切りに一日一日と数を増やしている。犯人が能力者であると断定される以前からこうなのだから、断定されてからのここ数日の世論はいうまでもなかった。そうして、ご丁寧な世論調査というものは、期待できない政権を追い込む論法と同じ手段で、だから能力者の力を管理する法案は必要だ、と訳知り顔で説き始めてもいる。


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