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第10話

「通ると思いますか? 能力者登録法案」駅に背を向ける形で歩き出してすぐに、悠里が質問してきた。ふと思いついて訊ねた、というよりは、最初からいつか訊ねようと思っていたみたいに、淡々として滑らかな問いかけだった。

 満天会の事をまったく知らない様子の彼女から、その単語が出てきた事に智和はまず驚いた。目を見開いて、隣を歩く少女を見遣る。どうしてその事は知っているんだ? 思わず質問しようとした言葉を遮ったのは、悠里だった。「私も一応能力者の端くれですから、……満天会のことは詳しく知らなくても、自分の人生に関わってきそうな法案ぐらい、ちゃんと知ってますよ」言い訳の形でもあったけれど、言い終わってからあごを持ち上げて見上げてくる悠里の目は、どちらかといえば抗議の色をしていた。

「でも、あんまり知られてないといえば知られていないだろうし」返事をする智和のそれのほうが、言い訳である。悠里の眼差しの険しさを、馬鹿にしないでほしいという意思表示として受け取った彼は、半ば言い逃れるふうにせわしくなく言ってから、ひとつ息を落として、間を置いた。考えるための沈黙ではなく、自分の調子を取り戻すための間だった。「問題に直面しているはずの、うちの学校の生徒の中にも、関係ないからって決め込んでる人はいるからね、」率直に言えば、庄治がその部類に入る。

「宮野君は、能力者登録法案が通ればいいって思いますか?」悠里は淡々と質問する。

「まさか」即答だった。断言した事に驚く必要もなく、言い放った三文字は智和の明らかな本心で、それ以外のものもない。「工藤さんは知っているんだろう? 能力者登録法案っていうのはようするに、能力者だと判明した時点で自治体に届け出る制度の事だよ。自治体や国が能力者の数を把握するのが目的だとか言っているけれど、あんなのは嘘だ。満天会が絡んでいるのに、そんな簡単な話で終わるはずがない」ここまで言い切れば庄治は大抵、面倒くさそうな顔をした。世間じゃこの法案と能力者の徴兵制度は繋がらないって言っているぞ、お前が考えすぎなんだよ。と、言う。そうしていつもその気楽な発言に、智和は口を閉じている。

 唐突に言葉がぶつ切りされてしまったのは、ここにいないはずの庄治の半分どうでもよさそうに細められた眼差しが、記憶の中で智和を見ていたからだった。ああ、また言っているよ。智和の主張を途中で切るためだけに浮かべた笑みをやがて、面倒くさそうに細めていく。赤から青へ変わっていくような、グラデーションに似た感情の変化を見てしまえばもう何も、どんな言葉も続けたくはなくなってくる。

 決して、庄治は悪い人間ではないし、いけ好かない相手でもないけれど。

「簡単な話で終わらなければ、どうなると思うんですか?」と、悠里がまた口を開く。

 三度目にもなると、彼女が何かしらの好奇心に突き動かされてこの話題をしているのではない、という事実に漠然と気づき始めていた。選んでいる言葉自体とそれを口にする声が、智和との会話から何かを得ようと模索している様子ではなくて、単調に無差別に情報を収集しようとしているふうだったからだ。悠里自身は人であるし、隣を歩いてはいるけれど、この会話そのものの状態は無作為に選ばれた世論アンケートに電話で答えるのに似ていなくもなかった。相手がどれだけ怒気を強めようとも質問する側の調子は変わらない、そういう感じだ。

 この話に特別興味があるわけでないのは理解したけれど、それがすぐさま悠里への落胆に変わる事はなかった。黙って聞いてくれるのなら話を続けよう、そう思って言葉を続けるのはようするに、心の中のわだかまりをそうそう吐露できる相手がいなかったからだった。「満天会は、戦前と同じ徴兵制をもくろんでるんだ。どこかのインタビューや討論会に出るたびに、そんな事を匂わせてる。今の能力者に対する自由主義は、戦後アメリカに押し付けられたものだからそろそろ自分たちの意思で変えてもいいはずだ、と主張してね。……今は結構まずいんだよ、満天会の主張はそれこそずっと以前から続けられてきたものだけど、切り裂き魔が出てきてから途端に、彼らの意見に賛同する人達が増えてきたから」最後は、苦虫を噛み潰したような声になる。

「でも、」小さく悠里が首を傾げた。情報収集機じみていた口調がふと、疑問に柔らかく揺れる。「切り裂き魔は確かに、能力者なわけですし」

「そうだけどね、」でもタイミングはよすぎるだろうね、と言いたくなるのをかろうじて堪える。言い訳よりも言い逃れよりも、自分が言いさした言いがかりが何よりたちが悪いのを知っていた。いくら相手が嫌いで敵だとか思っていたとしても、言おうとした言葉が最低な部類に入っていると自覚しては吐き捨てられない。

 落ちた間は、言いよどんだ智和の続きの言葉を待っているようでもある。けれど続けられない言葉なので、智和は口を噤んで足元を見た。機械的に動いている両足の歩数を頭の中で理由もなく数える、ひとつ、ふたつ、みっつ――八つ、と咥内で呟いたところで、隣の悠里が口を開いた。

「宮野君、あれ」何かを指差す気配があって、智和は顔を上げた。悠里は両手で紙袋を抱えたまま遠慮がちに人差し指を、商店街の終わり、天井のアーケードがかろうじて頭上を覆っている二階建ての建物の端に向けていた。立ち止まる。「あの車って、今日学校の帰りしなに見た車じゃありませんか?」昼間のように明るい商店街の照明の影もあいまって、夕間暮れを過ぎた暗がりは建物の影の一部分だけいっそうしっかりとした影を落としている。車はその影の中に紛れている、というよりは、自分から影を吐き出してひっそりと沈んでいるようだった。ボンネットの金色の鳥だけが暗闇に溶け込まず、うっすらと浮き上がって見えた。

 停車中のランプもなければ、人が乗っている気配もなかった。ただそこにぽつんと置いていかれている、その表現が一番適切だろう。

「満天会の、車だね」そうそう街中で見かけるような類の車ではない。満天会の街頭デモはいまだ、遠のいてはいたけれど聞こえているから、会長の車がここに隠れるようにしてあったとしてもおかしくはないのだろう。昼間みたいに堂々と来るのではなく、こっそりと部下達の仕事振りを確認しに来たのかもしれない。

 どちらにしても好き好んで関わり合いになろうと思うわけもなかった。車を眺める悠里のほうを見遣り、「寮監が心配するから早く帰ろう」促して、歩き出そうとした時だった。

 重たげな暗闇の空気を揺するような音、もしくは気配のようなものがして、視界の先で車の扉が開いた。ひどくゆっくりと、たった一枚の扉を開けるにもそこに物凄い圧力が加わっているとでもいうような開き方だった。誰か人が乗っていたのか、眺める智和はまずその事に少し驚いてから、前かがみになって出てきた人物へと自然にやった眼を今度は、大きく見開く事になった。

 彼はサイズ違いのだぶついたパーカーを着ていた。小柄な体格の人間がLLサイズの服を頭からかぶっているような、見栄えも悪ければ人の目も引きそうな服装だった。すっぽりと頭をフードで覆い、顔の半分以上が車を囲う暗闇と同じ色を溜め込んだフードの中に沈んでいた。見えたのは頬の僅かなラインと、唇ぐらいなものだ。だからどうにかして分かるのは、彼が存外若々しく高校生ぐらいである事と、背丈が智和とそう大差ないという事ぐらいだった。暗がりでさほど近くもない距離で、視界から入って理解できる事は、精々がその程度の事だった。

 目が合う。車内を覗き込んでいた彼がふと視線を上げる、その時にちょうど目が合った。絡み合うとまではいかず、掠めただけともいえたけれど、暗がりが落ちているフードの下で見開かれる眼を、智和は見た。ような気がした。顔立ちのうちで唯一はっきりと見て取れる唇が、ほんの僅かに震えた。動揺を押さえ込んで一度硬く引き結ばれて、そうしてから開かれるのを予感する。

 名前を呼ばれる、そんな気がしたのだ。

「――……、裕太郎ッ!」けれど、本当に耳に聞こえてきたのはこんな、切羽詰った智和自身の声だけで。

 彼の背はいともあっけなく向けられる。遠ざかっていこうとする、まるでこの場から智和から逃げ出そうとでもいうように、くるりと翻った背中は商店街の明かりのほうではなくて建物の影が続くほうへと、溶け込んでいくみたいに見えなくなっていってしまった。明かりがなくてもそこは路地であり、アスファルトの地面があり――、ただ立ち尽くしている智和から物理的に遠ざかっていくだけなのに、思わず駆け出そうとしかけた理由は、夕間暮れの暗がりに紛れてしまった彼を探し出そうと躍起になったからではなかった。まるで、目の前で手を差し出したにも関わらず拒まれた結果、高みから落ちてしまった人の行方を慌てて縁から覗き込むような、そんな気持ちに近かった。

 疑念と絶望感。単純に分ければそれだけ二つ、他の些事をすべて追い出して心をあっという間に占拠した。

 手を振り払われる。手ではなくて今回は声、だったのだけれど、彼が拒絶した事には違いない。

 追いかけようとまともに考えるよりも先に体のほうが動いていた。けれど実際に足が一歩地面を踏みしめる前に、隣でひときわ大きな靴音が鳴ったのを智和は聞いていた。悠里は大股の歩調で駆け出そうとする智和を追い抜くと、外国車のほうへ駆け寄っている。彼が出て行ったきり開け放たれたままの扉の上部に手を添えて車内を見遣った、智和から見える横顔がふと険しげに歪む。

「工藤さん?」言いながら智和も悠里の傍まで近づいた。黒塗りの車というのは汚れがすぐに目立つ、というけれど、近づいてみてもこの金色の鳥をボンネットに乗せた車は汚れどころか砂埃ひとつ被っていない。車体を覗き込めばそのまま、自分の顔も見れそうなほどに磨きこまれていた。権威と圧力の象徴、といえばまさにその通りで、近くで見れば見るほど満天会の所有する車に違いないと思えてくる。悠里が扉から手を離し、神妙な顔でそっと脇へ退けた。車内が一番よく見えるところに立って智和は、中を見た。途端、息を呑む。

 一対の見開かれた眼が智和を見ていた。正確には、智和がいる場所を凝視するふうに固まっていた。よく出来た蝋人形かマネキンかにわざわざ、断末魔を上げる一瞬の恐怖のみで覆われた表情をさせて、柔らかそうな後部座席のシートに座らせてでもいるかのような、そんなものを智和は見ていた。

 眦が裂けんばかりの双眸である。今まさに何かを叫ばんとする唇である。シートに爪を立てる右手はいつしか動き出して拳を作り、震えだしそうに白く強張っていた。見えるもの一つ一つ、全体であっても一部分であっても、それは動き出す一コマに過ぎなかった。それは滑らかに当然に、動き続けるだろうものが唐突に途切れてしまっている、続きが必ずあるはずの姿だった。

 だからこそ――。智和はゆっくりと呼吸をする、ちゃんと意識をして肺を動かさなければ酸素が体の隅々にまで行き渡らないような気がしたのだ。肺をいっぱいに膨らませて吐き出して、何度も繰り返しているうちにようやく、麻痺していた思考の一箇所が動き出す気配を感じた。瞠目したままに硬直していた眼球がそれと同時にゆっくりと動き出す。瞬きをして、そうしてから改めて視線をやった。

 豪奢な車内だった。ごく普通に日々を暮らしている人間には到底手が届かない場所にあるのだろう、すべてが上品に飾り立てられた車内にあるソレの部位を、智和は自分から一番距離の近い順に眺めていった。一つ一つをゆっくり辿って、オーダーメイドに違いない仕立てのよさそうな背広の上にある顔に時間をかけて到着しても、切り取られた断末魔は、唇の両端に刻まれたしわひとつ変わってはいなかった。続きはあっただろう、この覗き込めば奥歯どころか咽頭も見えそうな口は、何かを叫びたかったはずだ。

 それは声ではなくて、音であったかもしれないけれど。助けを呼ぶためのものだったのか、ただただ死に際に吐き出された悲鳴だったのか、それも分かりはしないけれど。

 でも、どちらにしても声は上がらない。

 智和は一度目を閉じてため息をつくのと一緒に肩を落としてから、瞼を開けた。

 そっともう一度、向けられる眼差しの先でまったく微動だにしない――だからこそ死んでいる、岩崎洋一郎の体があった。


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