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第11話

 沈黙の長さを的確に指折り数えていくように、もしくは等間隔に切り揃えようとしているような、秒針の音はさっきから口を噤んだままの智和の頭上で鳴っていた。いかにも公共施設にありがちな、機能美がなければデザイン性もあるはずのない、必要最低限の動作をする事だけを目的に作られた殺風景な四角い縁取りの壁掛け時計は部屋の扉の真上にあって、折りたたみ式のパイプ椅子に腰をかけている智和が、ちょうど顎を少しだけ持ち上げて見た視線の位置にあった。岩崎洋一郎の死体を発見してから三十分は経ったんだな、とぼんやり思う。ついでに、智和の真正面にいて、手の中で広げた警察手帳のページをもう片方の手で持つボールペンで軽く叩いている刑事との会話が途切れたのは、おそらく一分ぐらい前のことだ。

 110番をして到着した警察官に、「事情を聞くから署のほうまで来てもらえるかな?」と言われて、パトカーに乗ったまではおそらく正しかった。

 案内された場所が取調室ではないのは当たり前だし、気にしなかった。強いていうなら、本当に事情を聞くだけならば悠里と一緒でもたいして問題はないはずなのに、違う部屋に案内されかけた時に理由をちゃんと問うべきだったのだ。ふたりで同じものを見た、車内で、今にも動き出しそうなのに死亡している岩崎洋一郎の死体を見たのだから、智和と悠里の意見が食い違っているはずもなかった。むしろ互いの記憶をすり合わせて話したほうが精度の高い証言が出来るだろう、――それを、警察が望んでいない、と判然した時点で、詰問すべきだったのだろう。

「もう一度聞くけどね」と、刑事が口を開いた。億劫げなのは、さっきから同じ質問ばかりを繰り返しているからなのか、智和が同じ答えしか返さないと分かっているからなのか。生え際が後退してだだ広くなった額にしわを寄せ、彼は警察手帳を眼の高さまで持ち上げた。「あの場所に君達がいたのは、工藤悠里、君と一緒にいた女の子の買い物に付き合っていたから。だよね? 最近、切り裂き魔が出ているのに二人だけで出かけるのは危ないとか思わなかった?」あんな時間にあんな場所で、能力者の男女がいるのはおかしい。と、言葉尻に偏見が混ざっているのは、最初からだ。

「さっきも言いましたけど、寮監に頼まれましたから。いざとなればご存知の通り、僕らは能力者ですし、自分の身を守る事ぐらいは出来ます」

「最後には能力任せって事?」刑事は短く鼻で笑う。子供だから見下されている、という所作ではなく、何もかもがせせら笑う対象だと公言するような笑みだった。「まあ、あの切り裂き魔にしても、警察が銃を突きつけたところであっさり逃げるからな。日頃から能力に依存する傾向があるんだろうね、能力者っていう奴は」

 売り言葉に買い言葉、にもなってはいない。どれだけ丁寧に言葉を返しても、あげつらっては嫌味としてぶつけられる。まともに取り合っていたのは精々最初の十分程度で、もう今は潔く諦める事にしていた。問いかけられれば答える、けれどいちいち、嫌味にまで反応して言い返すのは面倒になっていた。

 庄治ならきっともう刑事に飛び掛って一発ぐらい、その皮肉たっぷりの顔に拳をたたきつけているところだろう。ふとそう思うと同時に、瀬田が言っていたことが脳裏をよぎった。――警察官に暴力を振るって公務執行妨害で別件逮捕。この人も実はそんなことを狙っていたりするんだろうか。その手に乗ってたまるか、とひっそり悪態をつく分だけ頭のほうはいっそう冷静になれた気がした。

 刑事は露骨にため息をついて、視線を手帳へ落とす。「さっきの話だと、偶然車を見つけたって事になってるね」本当に偶然だったの? 手帳越しに上目遣いで向けられる眼差しを言葉に変換するなら、まさしくそんな事を言っているのだろう。智和は首を横に振った。

「見つけたのは工藤さんですから、僕に聞かれても困ります」

「でも見た車が満天会が所有する車だとは知っていた、とさっき言っていたね?」

「たまたま数時間前に見たばかりでしたから。学校の前でデモをする満天会の人達に、岩崎さんが会いに来たのを」背を伸ばし、刑事を見る。「その時も工藤さんと一緒でしたから、工藤さんがあの車に気づいたのもきっとそのせいだと思います。黒塗りの外国車なんて目立ち過ぎますから」

「まあ確かに、あんな場所に違法駐車するような車ではないな」こくりと頷いてから、刑事は首を傾げた。「でも、目立つから満天会の所有物だと分かったというんなら、君達にとってみればその車は敵みたいなものじゃないか。敵とまではいかないにしろ、あまりお近づきになりたくない人物の車には違いないだろう?」

「人が降りて行った後で、扉が開けっ放しになっていたから」駆け出そうとした理由は無論それではなかったけれど、開かれたままの扉から中を見て、岩崎洋一郎の死体を発見したのは間違いない。「気になったんです。だって、普通はそうでしょう? 車の扉を開けたままにしておきますか。中に人がいるにしても、出てきた人だけだったにしても。おかしいな、って思ったら気になってしまって仕方がなくなったから、見に行ったんです」そうして、岩崎洋一郎の死体を見つけた。何かおかしいところがありますか、眼を細め刑事を見遣る。

 眼に見えた矛盾点はいくつかあって、智和としては弾幕の薄い数箇所のどの場所から仕掛けてくるのか、と相対する男の出方を待つ。

 刑事はボールペンのてっぺんでこめかみを掻いた。「じゃあ、犯人を見たって言えばいいのに」呟いてから、先端のほうを智和へ向ける。反論をどうぞ、マイクを差し向けるのにも似ていたが、口を開いたのは智和ではなくて、また刑事だった。大事な事を言い忘れていたような口調で、「人が車から降りてきて、で、立ち去って。残った車の中を見たら人が死んでいた。君が遭遇した事件はこんな感じだけど、普通に考えれば、犯人は出てきた人間って事にならないのか? 君は犯人を見ている」ボールペンの先でくるりと宙に円を描く。仕草とは正反対に、物言いは真剣だった。「普通に考えれば、君は意気揚々とまではしてなくても、市民の義務として、犯人を見た、とは言っているはずだ。犯人、という言葉を使わないにしても、犯人らしき人を目撃した、とか」

 智和が自覚していた薄い弾幕の一箇所をするりと通り抜けて、刑事はテーブルに頬杖をついた。「普通ならそう思う。でも君はそう思っていない、車から出てきた人物が岩崎会長を殺していない事を客観的に理解しているのか、あるいは出てきた人物を庇っているのか。どちらにしても、」一旦言葉を切ったのは、主張に迷いが出た、というのではないらしかった。意味深に途切れてしまったその言葉に自然と視線が上がる、まるで水面に浮き上がってくる何かを待ちわびているかのような眼と鉢合わせになり、そこで刑事が唇だけで笑うのを見て、察した。この人はおそらく、自分が続けようとしている言葉によって変色するだろう、目の前の高校生の表情を見てみたかったのだ。言葉で弄ぶのを楽しんでいるふうにも、はがれそうではがれない嘘が自然落下していく様を冷静に観察しようとしているようにも見えた。

「――どちらにしても、」彼は声に出して反芻し、その後に言葉を続けた。「あの遺体を見る限りじゃ、犯人が能力者であることには違いない。それを踏まえて考えれば、君が犯人を庇っていると判断するのが一番妥当だとは思わないかい? そうでないとしたら、出てきた人物が能力者でないと知っていて、遺体の状況から犯人ではないと思っているか。このふたつだよ、私が気にかかっているのは」

 絡み合ったままの眼差しを解いて俯く事は、刑事の中にあるだろう何かしらの確信を肯定づける事になりそうだった。だから青褪めるのを自覚して、咄嗟に笑う。男の追及する眼差しから顔を隠せないのであれば、真正面から見据えて取り繕うのが、智和が思いついた手段の一つだった。本音の上に理性を重ね塗りして、ひとまずは違う色に見えてくれれば万々歳だ。「見た、とは言いましたよ。でも、その人が満天会の会長を殺しているところを見たわけじゃありませんし。夕暮れ時で暗かったし、フードも被っていたし」

 彼が首を傾げる。「はっきりとは見えなかったから話せない?」本当にそれが理由なのか、とまでは言わなくても、向けられる眼差しの問いかけはそれである。

「話せることは話しました」居住まいを正して返事をした。「男の人であったこと、背丈は僕とあまり変わらなかった事。服装の事とか――、僕が自信を持っていえることは全部、刑事さんに話しましたよ」これは本当の事だ。

 だとしたら。と一方で智和は思っていた。だとしたらどうして自分はあの時、咄嗟に「裕太郎」と呼んでしまったのだろう。

 語る通りなのだ。振り返れば、智和が確信を持てるのは片手で数えるほどしかない。男である事も、身長がそう大差ないことも、格好の悪い服装も、全部を改めて検討してみるまでもなく、これら三つの証拠では、たった一人の人間の骨格を組み立てる事も出来ないだろう。推測の領域にだって立ち入れずに、おぼろげな気配さえ漂わせるのは難しいに違いない。智和と変わらない身長の男、だけで犯人候補を搾り出していくのなら、学校に在籍する男子生徒のいったい何割がそれに当てはまる事になるのか。

 ただの思い込みだったのかもしれない。いまさらのように、智和は思っていた。

 車から出てきた人物の、フードの中の暗がりから向けられて掠めた視線。思えば、咄嗟に呼んだ名前になんら反応もなく逃げてしまったという事は、彼は裕太郎ではないのかもしれない。部屋の椅子に腰をかけてからしばらくして智和の頭の中には、そんな事がちらりと過ぎったりもしている。けれど、庇わなければいけない、と頭が通報した瞬間から嘘をでっち上げていたにも関わらず、ぽつりぽとり、と見たままの事を喋っている自分もいた。

 ただ、裕太郎が満天会の会長の車に乗っている理由がそもそもない、ありえない、そう思っている事そのものが最たる、あのフードの人物が裕太郎ではないと思う根拠に違いなかったけれど。根拠を裏付けているのは理論ではなくて、裕太郎が能力者を毛嫌いする組織と関わりを持っているはずがない、という分かりやすいぐらいの感情論からだった。理性が口を挟む隙間はない、妄信的な執着じみた思いだ。

「確かにあのあたりは暗いから、人の顔を判別するのは難しいだろうけど」ボールペンを手の中でくるりと回転させる。けど、といかにも続きがありそうな言葉を最後にしたにも関わらず、刑事はそのまま口を閉じた。


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