智和は、内心で想像する。「けど君は、犯人の事を裕太郎と呼んだそうじゃないか」――まだ、この刑事は裕太郎の名前を知らないけれど。裕太郎とは誰か? 質問されて返事を拒絶したところで十分後にはあっさりと関係が分かる、裕太郎と自分はそれほど近い存在で、だからこそ安易に名前を出したくない人間でもあった。工藤悠里は話しただろうか? 頭の隅でちらりと、別室に連れて行かれる時の小柄な背中を思い出した。思わず叫んだ時、彼女は隣にいたのだから間違いなく、その名前を聞いている。そして当然な事として悠里には、裕太郎を庇う動機も名前を出さないで黙る理由もないのだ。
悠里に事情を聞いている刑事が意気込んでこの部屋の扉を叩く、そして入ってきて目の前の刑事に耳打ちする。彼は目を丸くして、けれどおそらくは罠に引っかかってもがく獲物を眺める猟師のような目を、智和を見遣る。
どうして黙っていた? どうしていわなかった?
人の死体が乗っていた車から一人出てきて立ち去った人物。その人物に向けられた名前、智和だって完全に第三者としてその場所に立ち会っていたのなら、おそらくは最初に証言するだろう。当たり前に、その人物の疑わしさを自分が語れる言葉で精一杯話して、だから私は犯人でもなければ関係者でもありません、他人事として締めくくった上で安全な場所へ逃げるだろう。
悠里は話しただろうか? 気になりだすともう一度頭の中で考えてみたけれど、喋っているんだろうな、と思うほかに何かが閃くこともなかった。むしろ、今の今までほとんどろくに、気にしても気に病んでもいなかった転校生の彼女の事を、自分本位の心配事から突然気にし始めている事へ、嘆息するような馬鹿馬鹿しくなるような気持ちが少なからずあった。薄情だな、とも呆れる。この町に来てその日に警察に行く事になるなんて、よほど彼女が気の毒なのは違いないのに、その事に自分勝手に同情する事も智和はしていない。
刑事の顔を改めて見る。眼差しを受け止め、ちょっとだけ首を傾げてみせて、言葉はないもののおそらくは、「何か思い出した?」とでも言いたいのだろう視線に、智和は一回咥内の唾を飲み込んだ。
「いえ、何でもありません」ここでいきなり悠里の話を持ってくれば、この刑事は必ず怪訝に思うだろう。首を振り、会話を切った。
何度目かの沈黙がまた落ちた。再び時間を等間隔に切り始めた秒針の音が、黙り込んだ二人の頭上で響きはじめる。
けれどもそれは、さっきよりはとても短かった。といっても、どちらかがついに時間の浪費に耐え切れず悲鳴を上げたわけでもなかった。二人が神妙な顔をして口を噤んでいる最中に、部屋の扉が蝶番を軋ませながら開いたのだった。部屋に溜まっていた重たい空気が扉の向こう側へ逃げ出していくようで、代わりに部屋の中へと放れた声は随分と軽々しく気楽なものだった。
「山県さん、宮野君を引き取りたいって学校のほうから先生が来てますけど。そろそろ取り調べまがいの事情聴取をやめて、解放してあげたらどうですか?」開けたままの扉に背中を預ける形で、両腕を胸元で組み合わせた瀬田が言った。捉え方次第ではどちらが年上で階級が上なのか判然しにくい物言いは、疑問符のいらない完全な命令口調にも聞こえる。見下しているのは明らかで、山県と呼ばれた刑事はパイプ椅子の背もたれに肘をかけながら振り向く。瀬田のほうへ顔ごと視線を向ける間際、ひどく険しく歪みかける横顔を智和は見た。
「誰だ、お前」大人気なく喧嘩腰な言い方だった。存在自体を否定している、とも感じ取れる口調は段々と刺々しくなっていく。「どこの課の人間だ? 死体の第一発見者のへの事情聴取を取り調べをごっちゃにするような警察官がどこの課にいる? ちゃんと名前と所属を名乗れ。お前の上司は誰だ!」最後まで来るとほとんどもう、言葉には苛立ちしか残っていない。今にも掴みかかりそうな衝動がそのまま、言葉として瀬田にぶつけられるようだった。おそらくは智和への事情聴取がはかどっていないことに対する八つ当たりの、苛立ちだ。
「僕は山県さんの事知ってますよ?」対して瀬田は冷静だった。優位な立ち位置に居座っている事を自負するような笑みを唇に浮かべて首を傾げる。「同じ能力者組合に、事情聴取に行った、間柄じゃないですか。ねえ、山県さん?」
智和には、この瀬田の言い方こそ他人を馬鹿にしているものはないだろうな、と呆れるものがあった。自分の事をすっかり忘れ去っている様子の相手に憤るならまだしも、彼の口振りは、山県の頭の中に自分がいない事をあっさりと受け入れた上での事実の主張だったからだ。痴呆気味の老人にゆっくりと現状を話して聞かせるのに似ているのだろうが、ことさら丁寧に言うのは、山県のような働き盛りの人間を相手にする時に限って言えば、親切心も気遣いもなにもない。貴方は俺の事を知らなくて当然ですけど、とでも見下しているようにさえ見えなくはないのだ。
「あ?」なお刺々しさの増した声音は、そのまま暴言にもなりそうな気配のみがあった。
「だから、忘れちゃったんですか? 瀬田ですよ。瀬田。山県さん、貴方の部下の」
刺々しさに返すにはあんまりに悠長な言い方だった。瀬田の意思のほうはともかくとしても、相手の怒りを助長させるには十分な物言いには違いない。
なので智和の中では続いて、山県と呼ばれた目の前の刑事が怒鳴り散らすだろうと結論が出ていた。その光景を見るまでもなく、さっきの瀬田の言葉遣いは嫌味一直線で、だから思い切り同じ種類の言葉をぶつけるのが妥当だと思えた。
「……瀬田?」だから、山県刑事が半ば鸚鵡返しのように呟いて、それから眼を丸くして瀬田を見遣った時には、智和は素直に首を傾げていた。しばらく、自分よりも年下の、平凡な若者の顔を眺め、山県は「あぁ」と息を落とすように声を出して頷いた。「お前、瀬田か」認識しました、とでも聞こえてきそうな言い方である。
「ええ。瀬田ですよ」瀬田のほうはいかにもこういう事態に慣れていると言いたげな態度で頷いた。「で、さっきの話なんですけど。宮部君を引き取りたいって、学校のほうから先生が来てますけど。このまま放ったらかしにして問題が起こるよりはさっさと宮部君を返したほうがいいんじゃないですか?」この部屋に入ってきて開口一番に告げた事を、さっきよりは幾分遠回しな言い方で口にした。組んでいた両腕を解いて、耳の裏を掻く。「これって下手したら事情聴取じゃなくて取り調べでしょ? 成人してるならまだしも、宮部君はまだまだ高校生ですよ。強引な事をしちゃあ、組合も学校も黙っちゃいないでしょうし」
「でもなぁ」間延びた口調で山県は顔をしかめた。さっきまでの怒りはどこにいったのか、その表情からも声からもまったく見つけることができなかった。「この少年は何か大事な事を知っているような気がするんだけどな」言葉を締めくくって、ちらりと智和を見遣る。
射竦める眼差しだった。自分が求める真実がそこにあって、あとは突き進んでいくだけだと頑なに信じている眼でもある。
「大事な事を隠していても、子供は子供ですからね」瀬田は肩をすくめた。「それに、今回の事件は能力者が犯人だと決まっているようなものだし、ここで能力者の子供を無理やり取り調べてたなんて後から能力者共生機関に訴えられでもしたら、日本警察の威信はがた落ちですよ。ただでさえ日本警察は、他の諸外国と比べて能力者が関わっている犯罪に対しての検挙率も防犯意識の徹底も低いって言われてるのに、その上で冤罪率まで上げちゃったらさすがに、始末書ものじゃすまないでしょうね」
淡々と、どうでもいいような口振りであるにも関わらず、言っている事は完全な脅しである。
山県刑事が、その手の身分的な脅迫に屈するようなタイプだとは智和には思えなかったけれど、果たして、目の前にいる山県の反応は顕著だった。途端に顔が青褪めたのだ、まるで勢いよく落下していく血流の音が聞こえてきそうなぐらいの、劇的過ぎる怯み方で、彼は口を開いた。最初は上唇を僅かに痙攣させているだけで、ほとんど声にはなっていない。真冬に氷水でも浴びせられて直後、どうにか声を出そうと躍起になっているのに似ていた。声帯を精一杯震わせての声も、心底震えている。「し、始末書だけじゃ、すまないか?」
「山県さん知ってます? 日本は世界人権問題研究会ってところで、能力者への差別が酷いって注意を受けてるんですよ?」瀬田は困ったような顔をして首を捻った。智和も全然違うところで、世界人権問題研究会って一体何なんだ、とありそうでなさそうな研究会について首を傾げたけれど、当の話題を振られている山県の体は、ぴくりとも動かなくなっていた。硬直して、瀬田を見上げている。どんな表情をしているかまでは智和には見えないけれど、「さ、差別か?」彼が搾り出した声の挙動からして、瀬田の論調に飲まれているのは確かだった。
さっきまでのふてぶてしい刑事の鉄仮面が剥がれ落ちていく。ぼろぼろと崩れては、地面に落ちていくのを感じる。
瀬田は扉から背中を離すと、靴先で扉を押さえた格好で片手をあげた。智和を手招きする。「そういうわけだから、宮部君は解放してあげましょう。彼がどんな嘘をついてごまかそうとしてるかは僕には分からないですけど、本当に何かを隠してるっていうんなら、言い逃れできない証拠を揃えてからもう一度、ここに呼べばいいんですよ」
山県は頷いた。瀬田の言い分を吟味して自分なりに結論を出した、というのではなく、とにかく彼の主張には頷いておかなければいけないとでも、強迫観念に押しつぶされかけているふうに見えた。ぎこちなく錆付いている頷き方で首を上下に振ってから、山県刑事は智和に手を振った。野犬か何か、見たくもないものをさっさと追い払おうとする仕草だった。「さっさと行け」
思わず口からいくつかの文句が飛び出しかけたけれど、それが智和の声になるよりも先に、瀬田の声が同じ文句を発していた。智和が口にしていればおそらく、もっと苛立っている口調になっていただろうそれは、至極淡々とした声音で山県に向けられる。理性が機能している分だけ率直だった。「仮にも宮野君は貴方の事情聴取に黙って応じていたんですよ。それを犬猫を追い払うみたいに帰すんですか、刑事さん?」刑事、という短い単語に入りきれないほどの嫌味をこめた質問は、傍から聞いていれば、貴方も刑事の端くれでしょうに、と思うのも少しはばかられた。自身の職業をはっきりと見下している瀬田の言い方は、一応代弁された側になる智和にとっては歯がゆくもあったので、その上で山県の上辺だけの謝罪を受け入れたいとはどうしても思えなくなっていた。
わざと乱暴に、椅子を押しのけて立ち上がる。
「いえ。別にいいです、刑事さんはこれが仕事なんですし」裕太郎の事を黙っている時点で、自分が山県刑事へ非協力的だったのは本当の事だ。嘘をついた、とまではいかなくても、山県がほしがっている情報を徹底的にひた隠しにしたのには違いない。「じゃあ、これで失礼します」ただここで礼儀をわきまえて頭を下げたのは、山県への謝罪の意味からではなかった。自分はどんなに酷い事を言われても、相手への礼儀を忘れるような人間じゃない。と、暗に皮肉を言いたかったのだ。
山県刑事はともかくとして、その意図は瀬田には伝わったようだった。部屋を辞した智和の背後で扉を物静かに閉めると、「偉いねぇ。宮野君は」茶化している以外に取り様のない口調で言ってきたからだ。