「引っかかるって、さっき言っていた刑事さんの反応とか質問とか、ですか?」
「そうそう」頷いた瀬田に相槌を打つようなタイミングでエレベーターが鳴った。無人の扉が開く。「存外、直接事件に関わっている人間よりも、外から来た人間のほうが事件の謎は解明しやすいものだったりしてね。ほら、推理小説とかでも事件を解決するのは大抵、当事者ではなくて第三者だろう? 探偵っていう職業がそもそも、事件は舞い込んでくるけど当事者には絶対になれない立場の人間ときてる」言いながら瀬田はエレベーターに乗り込んだ。「あの、工藤悠里って子は君が気づいてない事に気づいている、探偵の素質があるかもね」
自分でも表情が険しくなっている事はなんとなく察していた。「探偵の素質なんてなくたって、」それでも出てきた声に僻みのようなものが混じるとまでは思っていなかった。僕は学生であって探偵ではありませんから。もっともな事を言おうとしただけなのに、声に入り込んだ感情は不本意極まりないものだ。犯人が捕まってほしいとは切実に思っても、自分の手で捕まえたいとまでは絶対に願っていないと言い切れる。なのに瀬田の言葉に返そうとしていたのは、探偵にはなれないらしい自分に対する評価への言い訳じみた愚痴だった。
息をつく。「――探偵を駆り出さなくたって、犯人を捕まえるのは警察の仕事じゃないんですか?」声に入り込もうとする気持ちをとかく跳ね除けていくと、瀬田へ訊ねた言葉はやけに淡々とした代物になった。
「そうそう。危ない橋はおいそれと渡るものじゃないよ」なかなか閉まらないエレベーターの扉の向こう側で、瀬田が小さく肩を揺すって笑う。「良くも悪くもこの事件はしばらくすれば解決するだろうから、宮野君達学生さんはさ、あんまり本分から逸脱した事をしないで普通に平和に生活してくれていればいいと思うよ。どの道人生で気楽な学生でいられる時間なんて少ししかないんだから。変な事に気を使うよりは仲間と楽しく学校生活を送るほうがよっぽど有意義だって」
片眉を持ち上げて、智和は瀬田を見遣った。「警告ですか?」わざと、思ってもない事を口にする。
「そういうこと」微笑んで頭を打つからには瀬田のほうは心底そう思っているのかもしれない。「素人がしゃしゃり出てこなくたって、警察官がきちんと働いて犯人を捕まえるから、その間は大人しく慎重に行動しておいてねって話だよ。これは」
「でもそろそろエレベーター動かさないと、他の人に迷惑だと思います」本当は警告じゃなくて気遣いなんでしょう? とふと思ったことをそのまま訊ねる事もできたけれど、智和はしなかった。
瀬田はきょとんと目を丸くしてから、「そういえばそうだね」とエレベーターの天井を見上げて言う。上の階でちっとも動かないエレベーターに苛立ちながら待っているかもしれない人達を眺めやるように眼を細めてから、顔を智和にやって肩をすくめた。「じゃあね、宮野君。くれぐれも無茶や変な正義感は振りかざすんじゃないよ、ついでに工藤さんにも言っておいてくれるとありがたいんだけど」
「分かりました」答えると、その返事の代わりのように扉が閉まる。
動き出したエレベーターを、パネルの中でゆっくりと数が大きくなっていくデジタルの数字を見ながら見送って、智和はエレベーターの前から立ち去った。一階のエレベーターは正面受付から見て右手の奥まった場所にある、通路を出て受付のあるロビーに出ると、迎えに来たという学校の教師はすぐに見つける事が出来た。夜も遅く、受付に常時座っている人間もいなければロビーにいる人間もほとんどいない。現れた智和へ、座っていた椅子から立ち上がって手を持ち上げて振る姿は、どちらかといえば、人で混雑した空港で目当ての人を見つけて合図を送っているような感じであった。事件の第一発見者として事情聴取を受けていた、といってもとりあえずは警察署内であるこの場所で、人を出迎える態度ではないだろう。
「恩田先生」無邪気といえば無邪気、無神経といえばその通りな教師の様子に、苦々しさなのか安堵なのか分からないもやもやした気持ちがそのまま声になった。露骨に気遣われても困るのだ、ましてや腫れ物を扱うように振舞われてしまったら、まるで自分がとてもしてはいけない事をして警察に厄介になっていたのだと思われているような、そんな自虐的な気持ちにもなってしまっただろう。なので、のほほんとした恩田教師の態度はいうならばいつも通りの彼に違いなくて、近づいて話しかけて返事が向けられればそれだけで、今までと変わらない日常が帰ってきてくれるような期待があった。
事実、歩み寄ってきた生徒に恩田教師はとかく何かを言う事はせずに、隣で腰を下ろしたままの悠里に眼を落として、「じゃあさっさと帰ろうか」と言っただけだった。よれたズボンのポケットに両手を突っ込んで首を傾げる。「それとも飯でも食べに行く? お二人さん、寮生だからもう夕飯の時間過ぎちゃってるでしょ。近くの安い中華飯屋ぐらいならおごってあげるけど?」
そういえばもうそんな時間なのだ。思うと急に胃が小さく収縮したみたいに痛み出すのを感じた、ついさっきまではろくに感じていなかった空腹感が騒ぎ出しはじめている。
「いえ、多分大丈夫です。寮監がちゃんと残しておいてくれていると思うので」寮監の頼み事で外に出かけていったのだから、多少遅れてもそのぐらいの配慮はしてくれているだろう。智和は当たり前にそう思って言ったのだけれど、首を傾げたままの恩田の返事は違っていた。少し気難しげに顔をしかめてから、傾げていた首を元に戻す。「それがさ、寮監……えっと、坂田君? 彼、少し用事が立て込んでて帰れないって連絡があったんだよ。で、さすがにこんなご時世に寮に子供達だけを放っておくわけにはいかないから、俺が駆り出されたってわけなんだわ」
「そうなんですか?」確かにそんな理由でもなければ恩田教師が警察に迎えに来ることもないだろう、と納得する。教頭や校長ではなくて、一応恩田は非常勤講師なのだし。
恩田はもっともらしく頷いてからまた、考えふけるように首を捻った。「だから夕飯があるかないかと聞かれれば、それなりに返事に困るんだよ。だって、君達が外に出ているのは寮監室にあるノートで知ってはいたけど、こんな事に巻き込まれてるとかは分からなかったんだから、夕飯の心配までは全然してなかったんだし」
「じゃあ、どこかで食べていきましょうか?」口を挟んだのは悠里だった。今まで二人の会話を黙って聞いていた彼女が立ち上がって言うと、語尾が疑問符であったとしてもそれはほとんど決定事項のように聞こえた。「ここ一応警察署の中ですし、なんていうか似合いませんよね。そういう話題って」場所を憚る、というほどの事でもないだろうけれど、悠里は遠慮がちに声を落としてから、ふたりを交互に見遣る。
その眼差しに、「名案だな。ここで考えててもお腹はすくし、いい事もなさそうだから」にこりと微笑んで正面入り口のほうへ歩き出しかけた恩田を、思わず智和は引き止めていた。
「先生」切羽詰った色はない。それでも、この警察署内で聞いておかなければ自然と聞きづらくなって終わってしまうだろう、と分かりきっている質問ではあった。
歩きさした足を止めて見返る彼に、智和は口を開いた。「聞かないんですか? 事件の事。それとも、工藤さんからあらかじめもうほとんど聞いてしまったとか? ここで質問するのは少し憚るとか?」言って、視線を動かす。受付カウンターの向こう側はがらんとはしているもの、人が完全にいないわけではない。並んだ事務机のひとつに腰を下ろしてパソコンのキーボードを打っている制服姿の警察官の目は一心不乱にディスプレイを見つめているようではあったけれど、短い髪の下にある耳はこっちを向いていて、ロビーにいる自分らの会話をしっかりと盗み聞きしているような不安があった。三人が三人とも黙り込んだ途端に静まり返るロビーそのものが、一言どころか嘆息も聞き逃すまいと躍起になっている気さえしてもいた。
聞かれてなにか、困る事でもあるのか。問われれば即座に首を横に振る事は出来るけれど。気にしすぎだと冷静に一蹴できる一方で、ざわついた何かが胸の底にあるのも確かだった。
恩田は目を少し丸くしてから智和を見据え、たっぷりとひらいた間の後で笑った。「どうせ、お前さんは明日にでも校長室に呼ばれて事の仔細を全部話さなくちゃいけないんだ。死体がどんな状態だったとか、何を見たとか、そういうあんまり思い出したくないものは、そんなに何度も聞くものじゃないと俺は思ってるんだよね」人をいたわる類の笑みではあったけれど、大人の良識とかそういうレベルで浮かべられているそれではないようだった。「聞こうとするんならそれこそ、明日でもいいわけだし。ここで聞く必要もないでしょ?」
「気にならないんですか?」質問してから、やけに子供じみた事を聞いたと自覚する。
「気になっていても、それを聞いてもよさそうな日まで引き伸ばせるのが大人って奴だと思うしね」左手の親指の腹で顎を撫でながら恩田は首を傾げた。しばらくして指を離すのと一緒に小さく顎を引いて頷く。「そんなに聞いてほしいほど、宮野君が何かに困っているんなら聞くけど?」視線をまっすぐに向けてくる。
ふと、キーボードを叩いていた軽快な音も聞こえなくなっているのに智和は気づいた。――思わず恩田教師の言葉に首を横に振っていたのは、あからさま過ぎて動かせない視線でも動かして見れば、パソコンのディスプレイを凝視していたはずの眼差しが物静かにこっちを見ている、そんな想像が脳裏で閃いたからだった。眼球をちゃんと動かして見遣れば、違うかもしれない。気づかない間にパソコンの前に座っていた警察官が立ち上がっていなくなっただけかもしれない。それでも、実際に見遣った結果として眼が合えば同時に、自分が隠している事を見透かされるのではないかと思った。そう思えば、首を振って、「なんでもないです」と応えるのが、精一杯だった。
軽く肩を叩かれる。恩田の手が一回、二回、と智和の肩に触れてから、離れていく。「ま、飯でも食いに行こう。ナイーブになってるんだよ、お前さんは。飯食って眠ったほうがいい」そう言って、歩き出す。
続こうと歩きかけた悠里が足を止めたので、智和は視線をそっちへやった。
「大丈夫ですか?」と、悠里が訊ねる。
「君こそ」頷きかけた代わりに短い言葉を呟いて、智和は首を傾げた。「工藤さんこそ、大丈夫? 転校初日でこんな事に巻き込まれて」心のどこかに、気遣うべきは自分のほうだ、と強がりにも似ている気持ちがあった。わだかまりのような靄のような、あまり見栄えのいい感情でないのは、口にした言葉の不自然な優しさで気づいていた。甘ったるいだけの砂糖の塊を咥内に放り込んだような、そんな気持ちがしていたのだ。「僕は大丈夫だよ。恩田先生の言うとおり、少し休んだから大丈夫だと思う」
「そうですか」強がりぐらい見透かせる。全然違う言葉なのに、そう言われ同情でもされている気がして、智和は再び口を開いた。
「工藤さん。僕を事情聴取した刑事さんは最初からまるで僕が犯人か共犯者みたいな扱いをしてたんだけど、工藤さんのところはどうだった? やっぱり、犯人扱いされたりしてたのかな」瀬田は違うと言っていた。逆転している立場というものがどんな感じだったのか、瀬田が話していた通りに想像すると、とても不思議な光景しか出来上がりそうにない。「あの、車から出てきた人物の事、君はなんて証言した?」裕太郎。そう叫んだ自分の事を警察に話したのか。言いたい事を物凄く遠まわしにしても、返事を怖がるような語尾の震えは同じだっただろう。
悠里は小さく眼を瞬かせて、智和を見た。「宮野君には、あの人がどんな風に見えましたか?」