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第15話

 面食らったのはその言い方がなんとなく、自分の質問の仕方に似ていると思ったからだった。気のせいかとも思うぐらいに薄く翳っている彼女の顔を眺めながら、智和は言葉を詰まらせる。「どんな風って、」さっきから再開される事のないキーボードの音の代わりとして、注がれているかもしれない眼差しも、口から出て行こうとする言葉を奪うのに一役買っていた。

「暗かったし、よく見えなかったんだけど」ようやく口にした言い訳は、事情聴取の時に山県に話した事そのままだった。裕太郎の事を話せるわけもなく、もっともらしい言い訳をまた繰り返そうとしていた。自分が叫んでいた名前を聞いているはずの工藤悠里にするには拙すぎる嘘ではあったけれど、咄嗟にこれ以上の言い訳も嘘もでっち上げれる自信がまるでなかったからだった。「あそこは暗かったし、あの人はフードも被っていたから顔なんてほとんど見えなかっただろう? 多分、性別が男だって事ぐらいしかはっきりいえないと思うんだ」

 だから、悠里がまた瞼をゆっくりと上下させて、さっきよりも幾分真剣な面持ちでこっちを見てきた時には、智和は素直に降参しようと思った。でも諦めかかっている脳内の半分では、裕太郎のためだと誤魔化して、まだ悪あがきすべきだとも考えて、覚悟もしていたので、そこで続けられた彼女の言葉に、今度は間の抜けた声をあげる事となった。

 おずおずと、どうしてかとても言いづらそうに悠里が口を開いて質問する。

「宮野君には、あの人が男の人に見えたんですか?」

「え?」思わず悠里を凝視した。ここで冗談を言う意味も意義もまったくないのは承知の上で、彼女の心底当惑しきった表情の中にあるはずの嘘を探しだそうとしてしまう。

 まるで工藤悠里には全然違うものに見えていたかのような訊ね方だった。違うもの、まさか女性にでも見えたということだろうかと智和は思わず、あの時に見たフードの人物を、少し混乱しそうになっている脳裏に思い描いてみた。だぼついた、いかにも見栄えの悪いフードを頭から被った裕太郎、百歩譲って裕太郎と間違えただけの人物だとしても、性別が男であるのは間違いない。いくら顔が隠れていて、体のラインがまったく分からない服を着ていたとしても、女性であったならまず、裕太郎と見間違えるはずがない。

 けれど悠里は、見たというのだろうか。同じものを見ていたはずなのに、まったく違うものとして捉えていたのだろうか。

 まっすぐに据えられた悠里の眼差しと同じ色をした眼で彼女を見つめている、智和には自覚があった。相手の中にあるだろう嘘と真実をより分けて自分にとって必要なものを見つけようとする目をしていた。その眼が同時に、悠里も車から出てきた人物の詳細を警察に話してはいないのだろう、という確信を抱く事にも繋がっていた。智和が見た人物は男であり、悠里が見た人物は女であり、でもあの黒塗りの高級車から出てきた人物はただ一人であって――、男でもなければ女でもない、なんて事態になるはずがない。そうして違っている性別に、ここまで真剣な眼を向けてくるのはその真相が何よりもことさらに大事な事なのだと、悠里が思っている証拠でもある。

 たとえば、そう。悠里にとっては、あの車から出てきた誰かはきっと、男であるほうがいいのだろう。智和が、女であるほうがいいと思うのと同じような理由で。

「工藤さんには、あの人が女性に見えたって事?」絶対にそんなはずはない、と思いつつも質問する。

 悠里からの返事はなかった。彼女が何かを言うよりも前に、正面入り口で待つ事に痺れを切らしたらしい恩田の、「お前さんら。そろそろいい加減にしないと置いてくぞ!」やや乱暴気味な言葉が会話に割り込んだからだ。悠里はそれをそのままこの話の終わりとするつもりのようで、一度ゆっくりと瞼を閉じてから開き、さっきの真摯さも当惑も綺麗さっぱり目の底に沈ませた眼で智和を見遣った。のっぺりと白粉を感情の上にふんだんに塗りつけて、わざと無表情を作り上げているような味気ない顔をする。

「行きましょうか。先生を怒らせたらご飯、食べれなくなると思いますし」淡々とした相変わらずの口調で言う。

 僕の質問に答えてくれてからでも遅くはないと思うよ。と、智和は言いたかった。「……そうだね、」けれど言わなかったのは、自分の手の内も明かさなければいけないと少し躊躇したからだった。直接的な質問をしてど真ん中の解答を得るのが、一番謎解きとしては手っ取り早くもあるだろうけれど、遠回しで曖昧な今までの言葉からだって謎解きできる程度のヒントとキーワードはたぶんにある。わざわざ断言する必要はなかった。僕が見たのは男だった、と言い切る事には不安がある。悠里が、自分が見たのは女だった、とはっきり答えなかったように。

 ただたったひとつだけ、ここに来て確信のもてる事が出来た。――あの車から出てきた人物はやっぱり裕太郎じゃなかったんだ、と智和は思った。



 会議中の札がぶら下がっているはずの生徒会室の扉を遠慮なしに、もちろんノックもせずに開ける音に、智和は我に返った。

 けれど、実際には会議どころか人だって智和以外には誰もいない室内に驚く様子もなく踏み込んでくる靴音に、慌てて手に持っていた薄っぺらい書類をA四大の茶封筒に戻そうとしたところで失敗した。書類の一番上のページにクリップで留められていた写真が一枚、封筒に入り損ねて書類から外れたのだ。あ、と思った時には、眼で追いかけた写真はひらりひらりと床に落ちて滑り、ちょうど智和の傍までやってきた親友の履き潰された上靴の先で止まった。かがんでそれを拾い上げた庄治の顔がにたり、と見た目悪く緩むのに、智和はつい大きく嘆息をついて、椅子から立ち上がる。

 茶封筒を座っていた椅子に置いて、「返してくれ。庄治」手を親友へ差し出す。

 そんなにあっけなく返してくれるとは無論思っていなかったので、にたついた笑みを浮かべた庄治が指先でひらひらと写真を振ってみせるのも想像していたうちだった。常日頃弱みを見せない人間の弱点を知って喜んでいるような、あまり見ていても気持ちよくない笑顔をして、庄治は首を横に振る。「なんで、工藤ちゃんの写真なんて持ってるんだ? しかもなんていうか、物凄くかしこまってる写真」言って室内の照明に透かしてでも見るように、写真を持っている手を天井へ伸ばして視線をあげた。

 黙秘を選択して力ずく、というのも出来なくはなかったけれど、やればもれなく後々、何か言われるのは目に見えていたので、二度目の嘆息と一緒に答える事にした。簡潔に、庄治が面白おかしく期待しているような甘酸っぱい状況から智和の手にあった写真ではないのだと説明する。文字数制限なんてものはないのだけれど、自然と短く断言する口調になっていた。

「やましい理由はないよ。先生に転入手続きの書類を貸してもらっただけだから」

「転入手続き?」庄治は束の間首を捻ってから、またまじまじと頭上の写真を仰いだ。つられて智和も、ここからは見えるはずもないけれど、庄治の手に握られている写真を見上げる。

 いまきっと真っ直ぐに見上げている庄治を射抜いているだろう、青一色を背景にした写真の鋭い眼差しの少女の面持ちは年相応の幼さも不自然に思えるぐらいに厳しく強張っていて、最初に茶封筒を開いた時に、智和の顔をしかめさせた代物だ。写真に不慣れだからとかそういう事ではなくて、何かの資格の証明写真のようでもあるのだけれど、形にならない程度の違和感があった。大人びている、冷めている、緊張している――と、そんな風に都合よく解釈してもしきれない何かだ。

「転入手続きってようするに、学校の書類だろう?」写真から視線を落とし、庄治は智和を見た。「なんでお前が学校の書類なんて借りてるんだ?」

「いや、そういうわけじゃなくて」借りようと思って借りたのではなかったから、庄治の質問には反論の余地があった。けれど、じゃあどうして手元に書類があるのかと訊ねられてしまうと、自分でもどうしてだろうと首を傾げてしまいたくもなる。その智和の沈黙を、自分にとって面白い方向で解釈したらしい庄治は見栄えの悪い笑顔のままで、口先でだけ同情めいた事を言ってきた。

「好きな子の事はなんだって知りたいっていうのは当たり前の気持ちだろうけどさ、さすがに学校の書類はやりすぎなんじゃないの?」

「別に会長だからって理由で書類を借りられたわけじゃないぞ」暗にそんな事をいわれた気がした智和は、すぐさまに庄治の言った事を揶揄として受け取り反論した。会長だから学校の書類も借りられるのだと勘違いされてはたまらない、智和としての名誉にも生徒会長としての自負にも関わってきそうな問題だ。「書類を借りられたのはたまたまだ。ほとんど偶然だよ。最初から、借りようと思ってたわけじゃない」言って、椅子の上にある茶封筒に一瞥くれる。

 それはとても軽かった。ひとりの生徒の詳細な情報が記載されている紙の束が入っているにしては薄っぺらく、差し出してきた恩田教師の表情もなんでもないようだった。なんですか、これ。と訊ねた智和へ、当たり前の事を当然に答える口振りで、「転入手続きの書類だよ。工藤さんの」と言った時も、恩田はいたって普通だった。下手をすれば情報漏えいにもなりかねない状況を自ら作っている自覚もあるはずがなくて、逆に自分の淡々とした口調に思わず硬直してしまった生徒に首を傾げて聞き返してきたぐらいだ。「工藤さんのことが知りたいっていうんなら、この書類なんて一番手っ取り早いと思わない?」手っ取り早いからこそ、おいそれと人に渡していいものでないのは、学校が保管すべき書類をこの時まで一度も見た事がなかった智和にも分かる。

 本籍地や現住所からはじまり、家族構成、転入理由など事細かく、書類に書き込まれている情報は多岐に渡る。あるかないかの厚みしかない茶封筒の中に入っている書類は、工藤悠里の生まれてからこれまでの人生が書かれたものだ。すべてを客観的視点で辿りながら網羅している。淡々と印字された文章が続いていた。

 庄治が首を傾げた。「でも俺が相手だったら絶対に貸してくれないと思うんだよ。それってやっぱり、一介の生徒と生徒会長の差ってやつなんじゃないのかな?」

「多分純粋に、僕と庄治の信頼度の差だと思う」取り繕っても世話がないので断言してため息をついた。「お前だったら手に入れた情報をナンパとかに使いそうだけど、僕ならそんな事をしないだろうって先生も判断したんだろう。きっと」けれどあの時、言葉尻にだって、転入手続きの書類を見せてほしいとは言わなかった。なのにいともあっけなく恩田から手渡された意味のほうは、想像する以外に方法はない。

 ――最初は朝のホームルームが終わった後に、担任教師に悠里のことをそれとなく訊ねたのだ。理由も適当に作って、半分は本心から心配する口調で質問した。「事件に巻き込まれて不安がってないか心配なんです。何か、工藤さんの事で知ってる事はないですか?」自分は生徒会長だから、他の生徒を気遣う義務があるのだと言わんばかりに正義ぶってもみたけれど、教師の反応は思った以上に芳しくなかった。むしろ、無反応、といってもいいぐらいのあっけなさで首を横に振られた。「分からないな、」とは、どんな形であれ教師が生徒の事を語るのに使ってはいけない言葉であるのだろうに、担任も、それから最後、放課後になって顔を合わせる恩田にたどり着くまでの教師数人も、その逃げ文句を発して、智和の質問からさっさと背を向けたのだった。

「でもさ実際、そういう書類を本人が全然知らないところで盗み読みするのって、相手の事を知りたいからだろ?」庄治は茶封筒を見遣ってから智和へ視線を戻して肩をすくめた。出来の悪すぎる言い訳に生暖かい失笑を送るような、やはりあまりいい笑顔ではない。しかも今はその上に、いかにも教えてやるのだとふんぞり返る上から目線も加わっているからなおさらだ。「知りたいっていうのは仲良くなりたいとか思ってるからで、結局ここで工藤ちゃんの事を知ったお前は、情報源は隠しても、手に入れたネタで会話すると思うね。俺は」


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