聞き返してきたそれに庄治はにんまりと唇の両端を引き伸ばして笑いの形にする。振り上げた右腕の内側で親友の頭を自分のほうへ引き寄せて、「ちょ、何するんだ! 庄治!」締め付けられた喉でわめく智和の耳元で声を潜めた。ふたりしかいない生徒会室でのその行動は完全に意味がなかったけれど、大袈裟で芝居がかっている分だけ、庄治が心底喜んでいるのは伝わってくる。逆を言えば、こんなにも俺は嬉しいのだ、と表現するためのパフォーマンスみたいでもあった。
「柏木と一緒に帰る事になったんだ」
「え?」目を瞬く。「柏木さんと?」
固定された頭のままで眼球だけを動かして、智和は生徒会室でいつも柏木が座っている椅子を見遣った。黒板のすぐ傍にある椅子、そこについ三十分ぐらい前まで座っていた彼女の様子も同時に脳裏に思い浮かべる。
「生徒会の会議の後だったらさ、一緒に帰る友達もいなくて案外いけるかなーって思ってたんだけど」庄治は何度も頷きながら、智和の頭から手を離した。「声をかけたら、いいよって事になって、ついでにお前が生徒会室の戸締りをしてるって教えられてさ。なんだったらお前も一緒に帰ったらどうかな、と思ったんだよ」
「だから、護衛ね」庄治の言いたいだろう事を察して、智和は息をついた。「どっちかといえば、ダシに使ったと素直に言われるほうがいいな」
白々しい庄治の笑顔を見るまでもなく、彼がどうやって柏木を誘ったのかは見当がついていた。嘆息交じりに目を細めて親友を見ると、笑んだままで悪びれる様子もなく肩をすくめてくる。「だって、俺一人だけだったら柏木が頷いてくれるわけないだろう? あの子はそういう警戒心の強いところがいいんだし。まあ、生徒会長と一緒だったら少しは打ち解けてくれるかな、って期待はあるよ、そりゃ」
「僕と柏木さんの会話だけが弾んでお前がのけ者になったらどうするんだ?」逐一話題を振ってくれといわれても、そんなさりげない助け舟を出せる器用さがないのは庄治も承知のところだろうに。
「ふたりだけの世界にならなきゃいいんだろう?」庄治が笑みの形を変えた、悪巧みしていますと顔に大々的に書くような笑みだ。「お前にしたって柏木にしたって、なんだかんだで周囲に気を配るんだからさ。仲間はずれにしちゃいけないって思う子が一緒にいたら絶対に、いちゃつけないと俺は見た」
「本当にふたりきりになってもいちゃつく事はないと思うけど」そんな蜜月然とした表現を使ってもいいような関係ですらない、苦笑いしてから智和はふと首を捻った。「その、仲間はずれにしちゃいけない子っていうのはまさか、お前の事じゃないよな?」妄想もいいところだぞ、と眉をひそめて親友を見る。
「まっさかぁ」庄治は調子よく言い放って、「工藤ちゃんだよ」と賭け事の必勝法でも伝授するような口振りで応えた。
智和は目を瞬かせる。「工藤さん?」学校の授業が終わってからもう二時間ほどが過ぎている、完全に放課後の時間帯でもう少しすれば下校のチャイムも鳴りはじめようという頃だった。なんで工藤悠里がまだ校内にいるんだ、と訝しむのは普通で、彼女はまだ学校の生徒というよりは転校生の立ち位置に近いから、いくつかの女子グループに一緒に帰ろうと誘われているのを昼休みや終わりのホームルームの前に智和は見ていた。自発的に声をかけてくれるクラスメイトが自分以外にもいるのなら、わざわざ世話を焼く事もないだろうと思って今日は、声をかけずにそのまま生徒会室にやってきたのだ。
悠里にしたってこのままなし崩し的に智和とばかり登下校するのも嫌だろうと気遣ったつもりだったのだけれど、まだ校内にいるのなら結局、誰とも帰らなかったという事ではないか。
庄治は首を傾げた。「俺も詳しい事は聞いてないけど、」驚いて、けれどすぐに神妙に翳った智和の表情から察したようだった。「まあ、あれだ。クラブ活動とか、気になる事があったんじゃないの? 転校生なんだしさ、校内のことをいろいろと知りたくて廻ってたのかもしれないし」
「クラブ活動には興味がないみたいだった」物珍しさから勧誘に来るクラブもあるにはあったけれど、悠里はその全部のクラブに首を横に振ったらしい。
「じゃあ、先生に呼ばれたのかもしれないな。で、こんな時間までかかったと」庄治の言い方は、答えを探すというよりは可能性がありそうなものを片っ端から列挙していく感じだった。親友が気にしているついでに自分も頭を捻ってみようぐらいにしか思っていないのは明らかで、二時間も生徒を呼びつけて何をさせたんだ、と非現実的な提案に呆れ顔をする智和へ晴れやかに笑ってみせる。誤魔化した、ともいえた。「分からないぞ。何か書類の不備があったのかもしれないし、その後で掃除を手伝ってたのかもしれないし。二時間なんてあっという間だよ、あっという間。俺だって柏木を待つのに二時間待ったんだから」言ってから、なにか得心した様子で両手を打ち鳴らす。
親友が言いたい事は目に見えていて、智和としてはきちんと取り合わなくてもいいかと放り投げてもいいぐらいの事だった。茶封筒を置いていた椅子の脚近くにあった自分の通学鞄をテーブルの上にあげて書類を中に丁寧に入れてから、庄治を振り返る。いい事を思いついたと言わんばかりに笑っている彼の顔は、ついさっきまで智和をからかっていた時のそれそのままだった。だからきっと、その「いい事」も似たり寄ったりの話なのだろうと思えば案の定、庄治は、これ以上の真実はないと断言するふうな言い方で叫んだ。
「工藤ちゃんって、智和の事が好きなんじゃね!」
想像していたままの事が起これば少しは嬉しいものだろうけれど、出てきたのはため息だけだった。「はいはい。寝言は寝てから言ったほうがいいな」
期待していたほどの反応でないのは当然、むしろまったく手ごたえのない親友の態度に怪訝そうにする庄治の肩を智和は通り過ぎざまに叩いた。さっさと行くぞ、という催促の意味のつもりだったのだけれど、実際に叩いてみると半分以上が、そろそろいい加減に目を覚ませ、と寝ぼけている人間をため息混じりに揺さぶり起こそうとしているような心情だった。もう二度、今度ははっきりと嘆息まじりに軽く叩いてから、入り口のそばにある室内の照明スイッチをオフにする。柱につるされている鍵を持って廊下に出た。
「でも、根拠はあるんだよ」遅れて出てきた庄治が言った。ふてくされて下唇を突き出しながら主張する。「いくら生徒会長で同じクラスで同じ寮生だからってさ、やっぱり男子生徒のお前に女子生徒の工藤ちゃんを任せるなんておかしいだろう? お前と工藤ちゃんって実は昔、どこかで会ってたりしないのかよ」
「会ってないよ」悠里と柏木がどこで自分達と合流するのを待っているのか分からなかったし、今いるのが誰かに聞かれるかもしれない廊下だったので智和は、端的にばっさりと否定した。「会ってたら絶対に、学校の中か組合の中だ。だったら庄治だって知っているはずじゃないか」生徒会室の鍵を閉め、扉が開かない事を確認してから歩き出した。
「工藤ちゃん達が待ってるの、昇降口だから」とりあえず、の口振りで庄治が言う。
「教室で待っててもらえばよかったのに」もちろんの事、昇降口に椅子なんてものがあるわけもなく、廊下にしゃがみこむ様子もあまり想像できないあのふたりだから、立ち尽くしたまま智和らがやってくるのを待っているのだろう。にも拘らず、生徒会室で長々と話をしていたのだと一方で呆れていた。「待ちくたびれてるだろうな、きっと」
「でもさ、俺なりにいろいろと考えたんだよ」自分の選択は間違っていない、と庄治は意地になった子供みたいな口調で主張した。「だって、よく考えてみろよ? 工藤ちゃんが柏木の教室にいたら不自然だろ? 転校生でも先輩が教室にいるのってあんまり気分とかよくないだろうしさ。柏木がお前達の教室で待つっていうのも、目立ちすぎるだろうし。昇降口で待っててもらうのが一番いいような気がしたんだよな、俺は」どっちにも配慮した結果だと大袈裟に頭を打ってはいるけれど、最後まで聞いてしまえば庄治が気遣っているのはとりあえず柏木一人らしい事に気づかない智和でもない。
柏木の教室に工藤悠里がいれば、どうして先輩と一緒に教室にいるんだと言われるのだろうし。逆なら、後輩のくせに先輩の教室に入って人を待っているなんて図々しいと非難される。庄治が心配したのはこの二つの事だけで、選んだ昇降口のほうで、工藤悠里が通りがかりの生徒や教師陣の好奇心につつかれる想像までは至らなかったのだろう。一方でおそらくは昇降口で待たせる分には柏木も、誰かに声をかけられても適当に返事をしてかわせるに違いない、と考えれば、庄治としては物凄い妙案が閃いた事になる。
お前のほうこそ、結構真剣に柏木さんのことが好きだったりするのか。と、智和は訊ねたくなった。恋愛ごとに軽々しい親友がするには少し神経質な感じさえする行動、と感じたからではなくて、色々と柏木が抱えている事情を知った上でさりげなく気遣っているのだろう、と察したからだった。柏木留美の事情は大抵の組合の人間は知っている。だから庄治がそれを踏まえて行動を起こしていても別段おかしくはないのだけれど、一見分かりづらい優しさはとても、親友らしからぬ初心さだと智和は思う。
庄治はどちらかといえば、重たい荷物を大声を上げて手伝うタイプの人間だ。無言でそつなく荷物を受け取って歩き出すような男ではない。
「ほら、さっさと行かないと本当に待ちくたびれてふたりで帰るかもしれねぇぞ」靴音を軽快に響かせて智和の脇を通り、庄治は階段の踊り場まで駆け下りて振り返る。
「誰のせいで二人を待たせたと思ってるんだよ、庄治」嘆息をつきながらも少し早足で階段を下りた。踊り場に智和がたどり着くよりも先に、庄治がまた階段を下り始める。テンポよく階段の一段ごとで靴音を鳴らして再び距離を開けていく親友の背中を少し眺めてから、智和も再び後を追いかけた。――柏木さんの事が好きなのか? 聞こうと咥内に用意はしているのだけれど、楽しそうに跳ねる背中を目の先においているうちに、どうやって切り出せばいいのか分からなくなってきた。当の庄治ならどんな形であれ質問すれば答えてくれるとは思う、なのに言えなくなっていくのは質問自体があまり、楽しいものではないと知っているからだ。
制服の裾が小さくめくれる、足でリズムをとる分だけ危なっかしくも見えるけれど、庄治の靴音のリズムは階段を下り切るまで一度も乱れたりしなかった。靴音が鳴っている最中は、唐突に変な事を聞いて階段から踏み外されたら困ると口を噤んで、下り切るのを見ると今度はもし質問に頷かれたりしたら一緒に帰るのが辛いなと思うようになっていた。結局、色んな理屈をこねて質問するのをやめにする。自身の臆病さにわだかまる事なかれ主義に自然と、苦笑いが口元に滲んできた。
柏木留美は能力者組合の中では特殊だ。一般人の親と仲がいい、帰れる家がある、一つ一つの違いをあげていくうちにどうしてか、生意気で気に入らないという方向へ行ってしまうらしかった。仲のいいクラスメイトもいるにはいるみたいだったけれど、もともとが組合に引き取られた子供達が通う学校で同じ境遇でもない途中参加者はよそ者扱いされる。よそ者とはイコールで、敵であったり傍に近づけてはいけない者のことを言う。柏木が生徒会に入る事になったきっかけも、他の部活動ではどうしても生徒との溝が埋まらないからと教師に勧められての事だった。融通が利きづらいものの堅物が揃い易い傾向の生徒会なら、多少不愉快でも表向きは穏便に済ませていくだろうと踏んだらしい。結果、近からずも遠からずで柏木は生徒会に馴染んでいて、今は書記もやってくれている。
庄治が柏木を好きになることには反対だ、と思っているわけではなかった。強いていうなら、生徒会の枠の中で自分の居場所を見つけてくれたらしい柏木でも今度は「生徒会なんて入って生意気だ」と言われることがあるらしいから、片思いでも彼女の事を公然と慕う人間が出てきたなら次は、「恋愛ごとなんて生意気だ」と罵られやしないかとは不安でもある。
智和のそんな一抹の不安は、階段を下り切ってから振り返る庄治の目には全然、別物として見えたらしかった。自分が少なからず心配していた事が的中したというような顔をして、庄治は腰に手をやり威厳のない仁王立ちで親友を仰ぎ見る。
「お前まさか、柏木のほうが好きだとか言い出さないよな?」