そこには暗がりと寒さと痛みがあって、つまるところ、本物の夜が敷き詰められた場所だった。
それでも、彼女らはそこでささやかに、しかし確かに息をしていた。
そこは部屋ですらない。襖の閉じられた押し入れ、その下段であった。
あるのは床の冷たさも硬さもよくわかるような薄っぺらい布団、ぼろきれに近いタオルケット、枕代わりに畳んだタオルがひとつ、隅に押しやられたように鞄がふたつと畳まれた制服ふた揃い、それからあちこちの壁面にべたべたとセロテープで貼られた紙きれ、それだけだった。
ゆっくりと冬の足音が聞こえつつある肌寒さにはとても敵わないようなその場所で、ふたりはぴったりと身を寄せ合い、硬く目を瞑っていた。
刹声と久音の分け合ったものは、何も身の内に流れる血だけではない。
理不尽な痛みも苦しさも、ほんのささやかな安寧も、それを打ち砕かれる瞬間の絶望も、そのすべてを分かち合って生きてきた。そして今、ふたりは互いの体温を分け合うことで寒い夜を凌いでいる。
ふたりは魂のかたわれ同士だった。
それは、彼女らの姿かたちが双子とは思えないほどにかけ離れていようとも、少しだって揺るぐものではない。
オレンジっぽい赤茶の髪をした刹声の頭からは、ぴょこんと三角をした獣の耳が飛び出している。先の黒い狐の耳だ。
久音は日本人らしい黒髪で、耳も人のもの。けれど、腰の辺りからは抱えるような大きさをしたふさふさの黒い尻尾が生えている。半分ずつ、獣の要素を分け合っていた。
ふたりの父親は、定義上の父親にあたる人物は、全身が毛皮に覆われた狐の獣人である。ごく幼い頃にいた母親は人間だった。このどっちつかずで中途半端ななりの理由は、つまりそういうことだった。
ぱちり、と刹声が目を開く。縦に長い獣の瞳だった。右は黒、左は金色がかった琥珀色のオッドアイ。同時に、ぴんと三角耳をそば立てる。
「……アイツ、いないみたい」
その言葉に反応して、久音ものろのろと目を開いた。こちらもオッドアイだが、刹声とは反対に右が琥珀色で左が黒だ。ごくごくありふれた、人間の丸い瞳である。
じっとこちらを見つめつつ、しかし何も喋らぬ久音へと、刹声は嫌な顔ひとつすることなく微笑みかける。
「ちょっと出ましょ。ずっとこんな狭いトコにいたら体が固まっちゃう」
タオルケットを払いながら半身を起こした刹声の服の裾を、久音がつまむようにして引き留めた。
か細い声で。
「…………外、は、こわい」
その視線の向く先は、ジャージのはだけた刹声の腹部にいくつも浮かぶ、青紫をした痣だった。
世界は夜に包まれている。今いるこの狭い押入れのなかだけが逃げ場所で、隠れ場所で、聖域だった。
久音の言葉に、刹声はいっそう明るく笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。アイツが戻ってきたら、あたしがボコボコにしてあげるから」
そう言って、刹声は腕を――髪と同じ明るい茶と黒に覆われた両腕をしゅっしゅと虚空に振ってみせる。
見た目だけでなく腕力も獣人に等しいその拳は、確かに久音のそれよりも力強いものの、そこ言葉が決して叶わぬ強がりでしかないことは、刹声にも久音にもよく分かっていた。
けれど、久音は微かに頷いてもぞもぞ布団の外に出る。
襖を開ける。薄いカーテンから洩れる月明りが、ぼんやりと和室を照らしていた。
そこはふたりにとっての地獄である。手を硬く握り合い、指を絡め、ふたりは押入れから脱出をした。
むわり、と鼻をつくアルコール臭。その原因たる空のビール缶やら酒のカップやらがあちこちに転がり、横にはひしゃげた煙草の箱と灰皿が積まれている。散らばる雑誌は競馬かパチンコかだ。清潔さの対極にいるようなその部屋に痕跡を残さぬよう、電気も付けず、ふたりはそろそろとほんの僅かに覗く畳の上を歩く。
もう一枚襖を開けると、そこには小さな洋間とキッチンがあった。捨て方の分からぬ瓶・缶ごみの袋が床の半分ほどを埋め尽くすそこを手は繋いだままにぺたぺたと歩き、刹声がキッチンの冷蔵庫を開く。やけに明るい無機質な光が洩れ、ぐっと瞳が細くなる。ほとんど空っぽの中にあるのはふたりともに縁のない酒が数缶だが、しかしその主は奥に隠したものには気が付かなかったようだった。
クリームパンだ。半額のシールが貼られたそれは、刹声が学校帰りのコンビニで買ったものである。
「ほら、くおちゃん。アイツがいないうちに食べちゃいなさい」
それを取り出した刹声が促しても、久音はぼうっとした表情のまま目を瞬かせるばかり。 もうしょうがないわね、と包装を剥いで押し付けると、ようやくそれを受け取った。しかし食べようとはせず、たっぷり十数秒沈黙してから。
「……せつな、の、ごはんは?」
現在の時刻は深夜の二時。刹声も久音も、学校で食べた給食以来、一口だって食べていない。身を空腹が苛んでいるのは、刹声とて同じことのはずだった。 けれど、獣耳の生えた頭がふるふると横に振られる。
「あたしはいいの、あー、ダイエット中だし。ほら、早く食べる」
久音は無言のまま、楕円をしたパンを半分に割る。どろりと漏れそうになる中のクリームにも慌てる色ひとつなく、手をべたべたにしなから片方を刹声へ差し出した。
「……これ、せつなの」
「だからあたしはいいって」
「ダメ。はんぶんこ」
珍しくはっきりとした口調の久音に、刹声はため息を交えつつそれを毛皮に覆われた手で受け取った。
「分かったわよ。食べればいいんでしょ、食べれば」
「ん」
刹声が渋々といった調子で受け取ったパンを食べ始めると、ようやく久音もその端にゆっくりと口をつけた。
その緩慢な動きに反してクリームパンはすぐになくなって、久音はべたべたと指についたクリームまでも舐めとった。たかが菓子パン半分で埋まることのない空っぽの胃は、それでも多少の落ち着きをみせる。
先に食べ終わっていた刹声が、穏やかに久音を見つめていた。どこか青みがかった暗がりに、その明るい色の左目だけが細く浮かんだ光のようだった。顔を上げ、久音もまた光のような右の目で刹声のことを見つめかえす。
張り詰めた静けさがあった。刹声が小さく口を開く。
「じゃあ、」
戻りましょうか、と言いかけた瞬間、玄関からガチャガチャと音が聞こえた。
ふたりの心臓が凍りつく。
ドタドタと乱暴な足音。短い廊下をすぐに歩き切ったその主は、やはり乱暴な動作で扉を開け放った。びくりと久音の尾が跳ねる。
ぎらぎらと濁った茶の瞳をした、大柄な狐獣人である。
こんな時間にどこで呑んできたというのか、鈍い人間の鼻でも分かるような強い酒と煙草の臭いを漂わせ、足取りはやけにふらついている。焦点の合っていなかった瞳が、しかしキッチンで立ち竦むふたりの姿を捉えた。
「ああ……?」
酒でガラガラに焼けた声。
ああ、と刹声は心の内で己の不注意を呪った。
碌に帰っても来ないこの獣人は、どうも自分たちの父親らしいこの理不尽のかたまりは、機嫌次第で――ほとんどイコールで賭け事の勝敗次第だが――比較的マシな日だったり、災害のごとく悪い日だったりがあったりする。
今目の前にいるこれは、最悪の日だ。
「なんだ久音、テメエ、なんか食ってやがったな?」
獣人が処分し損ねていたクリームパンの包装に気がつく。ぴくり、と久音の肩が跳ねる。
「ろくすっぽ動かねえ癖に飯だけは一丁前か? なあ、ゼータクじゃねえのか、ああ? 人間サマはメシなんざいらねーんだろ、なあ」
「……」
「オイ久音、テメェよぉアイツみてえなツラしやがって。なあ。なあ? なあ?」
「……」
久音は返事をしない。表情も動かさない。
獣人はじわじわ近寄ってくる。男性であり大人であり獣人である彼のその体躯は、ふたりからして見上げるように大きかった。
久音は動かない。動いて目の前の獣人を刺激しないように。しかし、刹声は半歩だけ前に出る。
「なあ? なあ……ふざけてんじゃねえガキがッ‼︎」
ぷつんと糸が切れるごとく唐突に、脈絡もなく、獣人が叫んだ。
「なんだその目はテメェ生意気な、誰がっ、誰が! テメェみてえな気持ち悪い出来損ないのガキを、育ててやったと、なあっ、思ってるッ、オイ、なあ!」
目の前まで近づいてきた獣人が久音に掴み掛かろうとする。しかし、その横から飛び出る者がいた。刹声である。
「くおちゃんに触るなッ!」
先ほどまでの微笑みはひとかけらもなく、喉の裂けるような叫びで獣人の腕を払いのける。 刹声の腕は獣人のものだ。人間のそれよりいくらか強く、いくらか頑丈である。しかしそれでもまだ十三歳の少女でしかない彼女の抵抗は、男性獣人から見ればささやかで儚いものでしかない。
それでも何とか引きはがそうと、刹声が精いっぱい獣人を突き飛ばそうとした。
「っってェなあ、ァア!?」
半歩ほどよろけた獣人が怒鳴る。僅かに刹声の動きが鈍る。
「邪魔すんじゃねえガキ! 躾だぞッ、なあ、テメェが久音を碌に躾ねえからこうなんだろうがッ!」
ガラガラにしゃがれたその咆哮に、理不尽に、刹声はまたも叫び返した。
「お前がくおちゃんの名前を呼ぶな! くおちゃんを悪く言うな!」
「親に向かってなんだその態度は! 俺は親だぞ! テメェッ‼︎ 汚えツラしやがって!」
獣人が拳を振るう。それを刹声はなんとか両腕で受け止めた。呻き声。
しかしそれを聞いても獣人は止まることなく、むしろ苛立ったように反対の拳を刹声の腹へと打ちつけた。両手の塞がっていた刹声は、声もなく冷たいフローリングへと膝から崩れ落ちる。そのまま立ち上がれない刹声の背中を、頭を、獣人はガスガスと容赦なく蹴り付ける。薄い肉と骨の鈍い音。苦悶の唸り。
刹声に脚が打ち付けられるごとに、何があろうとほとんど動かぬ久音の表情に、しかし確かな翳りがよぎる。久音にとって、刹声へと暴力が降り注ぐのは自分が殴られるよりももっとずっと痛かった。
けれど久音は知っている。これまで数多通り過ぎてきた経験として。ここで自分が刹声を庇えば、それを理由に獣人はますます激昂するのだ。そして、刹声は何があっても久音を庇う。
つまり、何も喋らず少しも動かないでいることが刹声への理不尽を減らすための唯一で、それが久音の戦いだった。久音が獣人を刺激してしまえば、それで傷つくのは刹声なのだ。
深い絶望に耐えながら、久音は丸くなった刹声がボールのように蹴られるその姿を見つめている。決して目だけは逸らさないで。
「クソ生意気な、だいたいガキども、テメェらのせいで俺の人生台無しだ! 聞いてんのか! テメェらが勝手に生まれてくるからだろうがボケがッ‼︎」
「ぐ……っ、ぅ……」
「返事くらいしろ! オイ久音、見てんじゃねえ気持ち悪い、なあ! テメエがそんなんだからコイツがこんな目に遭ってんだぞ、分かってんのか!? テメエのせいだぞ! 全部ッ、全部!」
獣人が久音へも腕を振るおうとしたその瞬間に、倒れていたはずの刹声が信じられない速さでその脚に縋り付く。ピンと反った獣耳が、刹声の戦意が欠片も失われていないことを示していた。
「やめろ……くおちゃん、には……!」
「汚え手で触んじゃねえッ!」
ぶん、と脚が振られる。マトモに食事のできてない刹声の体重は見た目よりも軽く、簡単に吹き飛ばされてしまった。刹声はテーブルと衝突し、薙ぎ倒し、何かの砕ける音を響かせながら上に置かれていたリモコンやらティッシュの空箱やら酒の空き瓶やらをばら撒いてようやく止まる。
それでも刹声は倒れたきりにならず、まるでもがくようにして這いずって獣人を止めようとする。割れた瓶にでも当たったのだろう、その顔からは少なからぬ血が滴っていた。左目はその血によってほとんど塞がっているが、煌々と灯る光は揺らぎすらしない。
「くおちゃんに、酷いことするな……ッ」
その尋常でない様子に、獣人は気味悪そうな顔をして怯む。
「クソ……気持ち悪りぃな! 汚れるだろうが、近付くんじゃねえぞガキが!」
そのままドタドタと獣人は――暴力のかたまりは奥の和室へと引っ込んで、洋間にはぐったりとした刹声と久音だけが残された。
襖がぴしゃりと閉じたその途端、久音は飛びつくように、しかし一切の物音を立てることなく刹声の側へとしゃがみ込む。
言葉はない。少しでも音を立てれば、アレが戻ってくるかもしれないから。
刹声は腕だけをゆっくり動かし、久音のふわふわした尻尾を両手で抱え込む。久音はそっとその頭と三角耳を撫でる。細い指先が、ごめんね、と言っていた。尻尾をかき抱く腕が少しだけ強くなって、大丈夫だから、と言っていた。どのみち、言葉はいらなかった。
ふたりは夜の只中にいた。明ける兆しのかけらも見えぬ、理不尽なまでの闇の敷き詰められた夜だった。
刹声は久音の尾を抱いたまま、久音は刹声の頭を撫でたまま、しばらくの時が過ぎる。襖の向こうから、ぐごおぐごおとしゃがれたいびきが聞こえてきて、ようやくふたりの緊張が解けた。
「いっ……」
「っ!」
立ちあがろうとした刹声が、体中に走る鈍い痛みに顔を顰めた。顔の血は、どうやら左目のすぐ下にできた裂傷によるものらしかった。しかし、久音がびくりと身を震わせると、刹声はんふふと気丈に微笑んでみせる。
「いつもより早く終わったわね。アイツ、酒ばっかりで体力が落ちてきたのかも、なーんて」
「……せつな」
「大丈夫だって。それより、くおちゃんは平気? アイツに怪我とかさせられてない?」
言いながら、刹声は慣れた調子で散らばったティッシュ箱から数枚抜き取って、自分の目元にあてがった。真っ赤に染まるティッシュ。
「ん……」
「そ。なら良かった」
そこまで言ってから、ふと、刹声は見慣れぬ光に気がつく。部屋の隅に置かれた箱型のテレビからのものだった。
「ありゃ、リモコンが落ちたときに付いたのかしら……っていうか、これ、動くのね。アイツが使わないから置物かと」
「…………」
「音は出ないみたいだけど。テレビって、授業以外で初めて見るかも。ええと、これでチャンネルを変えるのよね」
「……せつな」
「大丈夫よ。バレたりしないって。少なくとも、あと数時間は寝てるでしょうし」
ふたりにとって幸いなのは――お伽話のように遠いその概念が本当にあるのだとすればだが――あの獣人の眠りが非常に深いということだった。一度いびきをかき始めたら、しばらくは穏やかな時間を期待していい。
刹声が次々に番組を切り替える。深夜だからか、あまり面白いものはない。海外の街並みを空から映すフィラー番組だとか、動物のドキュメンタリーだとか、名前も知らないアイドルが雑然と話しているものだとか、そういうものをどんどんと飛ばしていって。
「……ぁ」
手が止まった。
壊れたテレビに音はない。けれどのっぺりとしたテロップが、その内容を伝えていた。
消えぬ児童虐待。
年間五十件、一週間に一人の子どもが、家庭内暴力によって命を落としています。
ぷつり、と。
唐突にテレビの画面が消え、刹声は体を巡らせる。久音が黙ったままでリモコンを取り上げていた。刹声と目が合うと、ふるふる首を横に振る。
それでも、言葉が洩れた。
「……一週間にひとりかぁ。成人が十八で、あと五年だから、ええと、250週間くらい?」
「…………」
一日ですら激しい苦痛に満ちたふたりにとって、それは絶望的に長い、永遠にさえ思えるような時間だった。
ふたりは暗い部屋の中にいる。電源の落ちた暗いテレビの画面を見つめている。
ぽとり、と。刹声の手から、血まみれのティッシュが落ちた。
「ね、くおちゃん。あたしたちも、そのうち五十の中のひとつに……ただの数字になっちゃうのかな……」
「…………」
誰の記憶にも何の記録にも残ることなく。
五十人。
刹声の通う中学のクラスひとつ分より多い。それだけの数の彼らのことを、果たして誰が覚えているというのだろうか?
「それで、五十が五十二になって……こんな時間の、誰も見てないようなテレビでちょろっと流れて……それで終わりで。じゃあさ。それじゃあ……あたしたちって、なんでここにいるんだろ……」
「…………」
久音は一言も喋らないままでリモコンを倒れたテーブルの側に置いたかと思うと、空いた両方の手で刹声の片手を握り締める。それをそのまま持ち上げて、自分の顔に触れさせた。
ふわふわの毛に、久音の温度が沁み入る。
――—ここにいるよ。
ふにゃり、と笑う刹声。
何度か浮かべた張り詰めた気丈な笑顔ではなくて、心の芯から滲み出るような、ごくごく柔らかい表情だった。
「……くおちゃん」
首を傾げる久音。
その笑顔とは反対に刹声の言葉は弱々しく震え、すり寄せる手は縋りつくかのようだった。
祈るように。
「せめてあたしたちだけは、あたしたちのこと、覚えていようね」
いずれ、このとっぷりと暗い夜のなかで終わるのだとしても。
「……ん」
こくり、頷きが返ってくる。
ああ、久音がいて良かった、と刹声は思った。
久音がいる。久音の体温を感じる。久音が自分と一緒にいてくれる。きっと、久音のほうもそう思っていた。刹声のことを思ってくれていた。
刹声と久音は向かい合っている。お互いの瞳にお互いの姿が映っている。
じわり、と。
ひとつ、我儘で贅沢な、ひどく身に余る願いが、刹声の奥底で火花のごとく弾けた。
(――くおちゃんは。くおちゃんだけは、この暗い部屋から抜け出してほしい)
どだい無理な話だった。その資格を得るまでに、まだ永遠に近いような時間がある。こんな生活を続けていけるはずもない。いずれ自分たちは消えて、声も温度もない数字のみを残すのだろう。
そういうものだった。だって、一週間にひとりだ。
きっと今この瞬間も、どこかで誰かが潰えつつある。場所と名前と姿の違うだけの刹声と久音が。次が自分たちではないと、どうして断言できようか。夜明けはあまりに遠かった。
だけど、嗚呼、だけど、久音だけなら。
目の奥に瞬く。光あふれる世界の中、久音が大人になる姿を。背が伸びて、よく笑うようになって、他の人と結婚なんてして――。
その隣に、刹声自身の姿を見出すことはできなかったけれど。
そうだ。刹声はずっと、久音を守るために戦ってきた。
なぜなら、刹声は姉である。
ほんの十数分だけ、久音より先にこの世に生まれ出た。その十数分の重みをした責任が自分にはあると思っていた。そして何より、痛みと暗闇と理不尽に満ち満ちた刹声の世界において、久音の隣だけが心安らぐただひとつの居場所だった。
守り抜いた果てに未来があるというのなら、戦い抜けるような気がした。
たとえ、その道のりの途中で自分自身が果てたとしても。
硬く手を繋ぎ合い、いびきをかく獣人の横を通り抜け、ふたりはそっと押し入れの中に戻る。いっそう暗くて狭いそこで、ふたりはぎゅっと身を寄せ合った。毛皮のない久音の腕を刹声のふわふわした腕が抱く。毛皮のない刹声の脚に久音のふわふわした脚と尻尾が絡む。
刹声には久音がいた。
久音には刹声がいた。
今この瞬間において、それだけが互いにとっての全てだった。それは、それだけは、あらゆる夜にさえ侵すことの叶わぬ、ふたりきりの領域だった。
その温もりだけを感じながら、刹声と久音は今日を戦いおえて、短い眠りへと落ちていった。