給食の直後にある昼休み、久音はいつもぼーっとしている。
ただでさえ覇気も活力もない顔つきに加え、瞼が半ば落ちてきていて頬は机にぺったりつけられていて、一見すると眠っているのと区別がつかない。ただ、ギリギリのところで目は開いていた。
「ね。ほら、まただよ、久音さん」
重力に負けるがままに下がっていた頭のてっぺんをちょいちょいとつつかれて、「んん……」と姿勢を正して。
「また……って」
何が? というところまで言い切らないで首を傾げると、前の席から椅子だけくるりと回してこちらを向いていた同級生がまた久音の頭をつついた。
「んぅ……くすぐったい、梨緒」
苦言を呈すると、その同級生――日向梨緒は、後ろで揺れる長いポニーテールによく似合う、快活な笑みを浮かべた。机の上には、毎月買っているらしいファッション雑誌が広げられている。
「だって、久音さん眠そうだから、起こしとくかって。次、数学だし。寝たら怒られるし」
「居眠り、したことない……平気。……じゃなくて、何が『また』?」
「ほら、廊下。上級生。多分、また久音さん目当ての人じゃん?」
言われるままにちらりと横目で見てみれば、なるほど、確かに一年とは思えない背格好をした男子生徒がしきりにこちらの教室を覗き込んできていた。
「人気者だねえ、久音ちゃん」
「……とわ、まで」
横から会話に入ってきたのは、穏やかな雰囲気をまとう眼鏡をかけた少女である。灰谷とわ。梨緒と同じく、話す機会の多いクラスメイト。
その同意を得て、梨緒は水を得た魚のように勢いよく話を続ける。
「だってさ、久音さん、前に二年の先輩から告られてたっしょ? 異次元すぎてビビっちゃうわ。読モとかいけるんじゃん?」
「まあ、久音ちゃん可愛いもんねえ」
「異次元美少女だよね、マジで。顔面偏差値鬼高いのに、さらにオッドアイ! 漫画か!?」
しぱしぱ、久音は左右で色味の違う目を瞬かせた。
自分の――自分たちのこれは、一応は先天性虹彩異色症なる名前がついているらしいのだけれど、人間ならばともかく獣人であればそこまで珍しい形質でもないらしく、すなわち獣人混じりの久音がオッドアイであろうともそこまで大げさに騒ぐほどのことではない。顔立ちだって、整っているかどうかはよく分からないのでさておいて、いつでも不愛想な無表情をしている自覚がある。
……というようなことをぼんやり思ったけれど、ちゃんと言葉に直して口にするのが億劫だったので、久音はただ「……別に、どうでもいい」と軽くかぶりを振るに留めた。
けど、少し考えてから。
「……知らない人は、どうでもいい。でも、梨緒ととわに……可愛いって言われる、のは、うれしい、かも」
付け加えて尻尾を揺らすと、なぜか梨緒が「キャー!」と黄色い声をあげた。
「ああもう、うちほーんと久音さん好き!」
のみならず、がばっと机越しに抱き着いてくる。嫌ではないので、久音はされるがままになっておく。
「いいよねえ。そういうとこも人気の理由だよね~」
「……?」
「よし、梨緒ちゃんの抱き着き代にお菓子をあげちゃいましょう」
「抱き……代……?」
「いいからいいから。これ、すっごい美味しいから」
とわが鞄から取り出したのは、砂糖醤油のおせんべいだった。個包装の中に二枚入りだ。
それを見るなり、梨緒ががばっと体を離した。
「あっ、ズルい! とわ、うちも欲しい!」
「はいはい、どうぞ」
「やた~っ! いっただきまーすっ」
梨緒はすぐにべりべり包装を剥ぎ取って、いかにも美味しそうにせんべいを食べる。かと思えば、
「とわのお菓子ラインナップ、ちょっとおばあちゃん家みたいだよね。この前はしるこサンドだったし」
「貰っといて言うことかなあ。もう、次はあげないよ?」
「いや最高。うちおばあちゃんっ子だから」
「なにそれ」
けらけら笑うふたりのことを、久音はぼーっと眺めている。
と、とわがこちらを向いた。
「それ。久音ちゃんは、今日も後で食べる?」
「……ん」
頷き、久音はスカートのポケットにせんべいをしまった。その直後、自分の分を食べ終わった梨緒がまたもやがばっと抱き着き直してくる。なぜに。
「あー久音さん可愛い、癒される……着せ替えたい……めちゃくちゃ着せ替えたい……」
「久音ちゃん、嫌なら嫌って言いなね? 梨緒ちゃん、ちょっと調子乗りやすいから」
「……ん」
別に平気、の意を込めて、久音はこくりと頷いた。
触られるのは嫌じゃない。それは何も梨緒相手に限った話ではなくて、誰が相手でもそうだと思う。嬉しい、というわけでもなくて、ただひたすらにどうでもいい。
だから梨緒の気が済むまでされるがままになっておこう――と、思っていたのだけれど。
「――ッ、だめ!」
背中の側に回りつつあった手の感触に、つい、そう叫んでしまった。
「うわっ!?」
梨緒が慌てて飛び退く。しまった、と久音は自分の口を押えた。
けれども、どうやら梨緒は怒っていないようだった。むしろ、申し訳なさそうにぱん、と両手を合わせて。
「ごめん! 尻尾はダメなんだったっけ?」
「……ん」
そろそろと口から手を放して頷くと、とわが梨緒の脇腹をつついた。
「もー、梨緒ちゃんそれセクハラだよ。同性間でも成立するからね、セクハラ」
「いやマジすみませんでした……」
久音はもう一度軽く頷いて、それから視線を教室の外に向け直した。ちりり、と微かに粘っこい気配を感じたからだった。
「げ。あの先輩、まだいるじゃん……」
その気配に、どうやら梨緒も気が付いたようだった。教室の前後にある出入り口のうち、後方の一つをすっかり塞いでしまっているその男子生徒。先ほど話題に上げてから五分ほどは経っているというのに、立ち去る様子はない……というか。
「増えてるねえ……あからさまに久音ちゃんのこと見てるし」
友達なのだろうか、さらにもう二人追加されていた。野球部かバスケ部か、身長が高くていくらか威圧感がある。梨緒はむっと彼らに鋭い視線を送って、とわは小さく眉根を寄せた。
どうやら、人間校――獣人の在籍できない学校のことだ――たる、ゆきなみ市立雪並第二中学校、通称・雪二において、獣人の要素、即ち左右で色の違う瞳、先だけ白い黒色の尻尾、そして毛皮に覆われた脚を持つ久音というのは、それなりに有名人らしい。おまけに可愛いから、一年にとんでもない美少女がいるのだと最近は他学年でも話題になっている……というのは噂好きである梨緒の誇張だろうと久音は思っていたけれど、最近たびたび見物客が訪れるのを考えると、まったくの嘘でもないらしい。
久音の耳は人間のもので、だからとりたててよく聞こえるというわけでもないのだけれど、彼らが口々に「うわほっそ、レベル高けー」「お前声かけて来いよ」「マジで尻尾あんじゃん、触りてえ」などと話しているのは自然と耳に入ってきた。久音の席は一番後ろとはいえ列は真ん中ほどだから、距離はそれなりにあるのだけれど。
(……声、おおきい)
人間の耳は畳むこともできないけれど、さりとて塞ぐというのも目立つだろう。少し考えて、久音はどうもしないことにする。
「ちょっとしつこいねえ。私、先生に言ってこようか?」
「……だいじょぶ」
とわの問いへと、首を横に振る久音。
前に見知らぬ先輩から告白されたのには流石に多少困ったけれど、眺めまわしてくるだけであれば無害なものだ。久音を見て喜んでいる――という理屈はよく分からないけれど、喜んでいるのならそれを止めることもないだろう。だから、別にどうだっていい。
それだけ言って、またぼーっとするのに戻ろうとした久音は、しかしふっと漂ってきたその気配に慌ててまた首を巡らせた。
陽だまりの匂いだった。
「ちょっと。ジャマなんだけど」
聞き慣れていて聞き慣れない、冷え冷えとした声が響く。
「ああ?」
声が女子のもので、ここが下級生の教室前だったからだろう。強気に言い返した上級生の内の一人が、相手の姿を見とめるなりびくっと肩を跳ねさせた。
そこにいるのは、隣のクラスの有名人だった。ただし、久音とは真反対の意味で。
左右に細く髪を結わえ、いかにも気の強そうな目でじろりと上級生を見上げる。左の瞳が琥珀色に煌めいていた。
「ジャマだからどけっつってんの。聞こえない? それとも何、文句あるっていうの」
「い、いや……」
三人の上級生はうろたえたように顔を見合わせると、口々に何やら言い合った。「不良」だとか「獣人」だとか「他校生を病院送りに」だとか、断片的な単語だけなんとか聞き取れる。
しかし、目の前の彼女が苛立ったようにコツコツ足先で床を叩き出すなり、今度は三人揃ってびくっとしてから、下り階段のほうへと勢いよく退散していった。教室の位置からして、どうやら三年生だったらしい。
最上級生、それも運動部らしき男子三人を追い払ったその生徒は――久音の双子の姉たる刹声は、去り際にちらりとこちらへ視線を向ける。目元に真新しい傷跡のあるそれは、獣の瞳だった。そこに一切の温度はない。それより上、人間校にはあり得ないはずの獣耳に、きらりと光るものがあった。
「うっわ、怖」
梨緒がわざとらしい抑揚をつけて言う。少しだけ、久音は翳りを覚えた。そういう言い方だった。
「アレが久音さんの姉……あれ、妹?」
「わたしが、妹」
「アレが久音さんの姉とか、信じらんない。いかにも獣人ってカンジ。ねえ、とわ?」
「んー……張り詰めたひとだよねえ」
話を振られたとわが、少し気まずそうに口元だけで笑う。
「……わたし、も、ちょこっとジュージン」
久音が尻尾を揺らしてみると、梨緒は「そうじゃなくてさあ」とかぶりを振って、
「久音さんは、尻尾と脚だけじゃん。んで、話しててもフツーっしょ?」
ぴ、と久音の獣人部分を指さして、
「九重さんは目が怖いし、爪とか尖ってるし、いっつもピアス付けてるし、先輩相手にタメだし……それになんか、目のトコ怪我してなかった? 獣人校のヒトとつるんだり喧嘩したりしてるって、ホント? 深夜遊び歩いてるっていうのも」
「んん……」
それは、答えることのできない質問だった。肯定でも否定でもないただの音を喉の奥から鳴らし、久音は小さく目を伏せる。
上履きと靴下を脱げば、自分の足にも鉤爪があるということも。
刹声が目元を怪我した理由も。
付けているのはピアスではなくイヤリングだ、というのも。
他にも浮かぶたくさんを、言葉にしてはいけないのだった。そう約束していた。
ほとんど薙いでばかりの久音の心に、さざ波の立つ感触。それを振り払うように立ち上がって。
「ちょっと……用事」
「え? 昼休み、あと半分しかないよ」
「……ん。平気」
緩慢に頷き、久音は教室を後にする。向かうのは、先ほど刹声が歩いて行った方向だった。階段を上って、少し廊下を歩いて、また階段を上って、踊り場を折り返して。